岩櫃城は斎藤氏の本拠だったか

その一

 吾妻の伝承では「岩櫃城の斎藤基国(憲広)を真田弾正幸隆(幸綱)が攻めて武田の城にとなった」となっている。また、吾妻に残る文書などにも「加沢記」を中心に「吾妻郡略記」「吾妻記」等でもそのように記されている。しかし、その文書も江戸時代に書かれたもので、実際は150年~200年経った時代に記されたものであり、そもそも言い伝えを書いたものという評価もある。そこで、「武田家文書」「真田家文書」などを取り上げて、検証してみたい。

 まずは、「武田家文書」の中から「岩櫃城」「岩下城」関連の文書を検証してみたいと思います。次回から文書を紹介し、検証を進めていきます。

まず最初は永禄五年五月十七日付武田信玄書状(真田宝物館所蔵)、鎌原宮内少輔宛書状から、この文書からは斉藤氏の本拠の位置は特定できないが、鎌原氏と羽尾・斉藤氏の間にいざこざがあったことが見て取れます。

(鎌原城跡)

(羽根尾城跡)


 其方挊故、浦中(浦野中務少輔)忠節感入候、何敵地之麦作悉刈執、和田(高崎市)・
天引(甘楽町)・高田(妙義町)・高山(藤岡市)へ籠置、倉賀野(高崎市)諏方(松井
田町)安中(安中氏)之苗代薙払、其上武州本庄(本庄市)・久々宇(本庄市)迄放火、
内々暫雖可立馬候、自最前此度者如之行之外、不可有別条旨存候、列民農務之時候条、

来月下旬早々為可出張、今日平原(佐久市)迄帰陳候、就其地番勢、海野・禰津(常安)
・真田之衆申付候、先為初番常田新六郎・小草野孫左衛門尉・海野左馬允巳下相移候、委
曲甘利(昌忠)可申候、恐々謹言、

(永禄五年)五月十七日 信玄(花押)

 鎌原宮内少輔殿


戦国遺文「武田氏編 第一巻」七八五 参照

 この文書は、三原の鎌原氏と羽根尾の海野(羽尾)氏に争いが在ったことを物語る。羽尾氏は、岩下衆斉藤氏に協力を求めこの争いを有利に進めていた。それに対して三原の鎌原氏が、一族の真田氏を通して武田信玄に援助を求めたことに対する、武田氏の返書である。信州先方衆、海野左馬允・浦野中務・真田は西上州、武州に出張って佐久に帰陣したばかり。また、農繁期になったので兵をすぐに派遣できない旨を伝えている。そのため、先に真田衆の常田新六郎と海野衆海野左馬允を来月下旬(六月下旬)に派遣する旨、武田家への申次に、佐久在伴の甘利昌忠を指名している旨、申し伝えている。この頃の吾妻は、武田と上杉(長尾氏)狭間の地ではあるものの、空白地帯となっていた。この後、鎌原と羽尾・斉藤の争いは、鎌原が武田の後詰、斉藤が上杉の後詰をそえぞれ頼んで、戦へと進んでいくことになる。


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