戦国時代の東北、関東における文書の中に草調義という言葉が見受けられるときがある。戦国大名同士の境界線、つまり境目には常に小競り合いがあり、その小競り合いをしていたのが草と呼ばれる足軽の集団があった。その草と呼ばれた集団の目的は何か。ずばり敵に対しての撹乱戦であったのであろう。50人規模の足軽を三隊作り、それぞれ一の草、二の草、三の草と呼び一の草が敵兵をおびき寄せ、伏せておいた二の草、三の草で攻める様な戦法をとっていたらしい。また、適地に忍び込み略奪、青田刈り、人取りなども日常にやっていたようである。ここで気になるのが、武田家の山本勘助である。彼は150人の信玄直属足軽大将であった。これは草調義の人数にぴたりと当てはまる。
また、後の真田安房守昌幸も武藤喜兵衛を名乗っていた頃は、信玄直属の50人の足軽大将であったことから普段は情報収集、また戦場においてはゲリラ戦を担当していたと思われる。後の昌幸のしたたかな去就を見ればその頃の経験が大きく影響していたのではないか。
草調義とは、日常の境界線での戦いで小競り合いである。仙台伊達家の文書には、良くこの草調義という言葉が出てくる。伊達政宗もこのよう境界線での撹乱戦を、重要視していたようである。
関東の北条家では、風魔一党が活躍し、特に北条氏が躍進するきっかけとなった川越夜戦では北条氏康が、風魔一党を活用し寡兵で上杉、足利連合軍を撃退したのは有名な話である。
方や信玄は甲斐、信濃の修験者、御師、のうのう巫女はたまた商人までを取り込んだ諜報機関を作りその構成員は1000人を越えていたという。その差配、養成を行っていた目付と呼ばれていた人が富田郷左衛門、前述した出浦対馬守であった。前述した来福寺左京、禰津潜竜斎などは、軍配者と呼ばれ武田の中にあっても、素波、乱破とは区別されていたようである。
さて吾妻の地に焦点を移してみれば、この地には忍者伝説が数々ある。その理由を考えてみれば、まさにこの吾妻の地が武田、北条、上杉の境目であった為である。谷間、山は、沼田、白井、箕輪と三方に通じ、真田幸綱(幸隆)が吾妻の地を手に入れた頃はすべて敵方であった。真田昌幸の代になり、武田家が滅ぶとその三方の内白井、箕輪破北条方となり、昌幸のしたたかさを持って守らなくては、徳川、上杉、北条と比べると微領の真田家は情報収集活動が命綱であった。特に岩櫃城には、来福寺左京、禰津潜竜斎、出浦対島守など素波、乱破の目付が在城していた事もあり、その拠点になっていたのでは無いかと言われている。そのことが、岩櫃城忍者伝説に繋がっているのでしょう。
その境界の戦いでは、幾人もの忍者の活躍が、「加沢記」等に記されている。柏原城の攻防では、忍者八右衛門、横尾八幡要害での、田村角内、綿貫隼人、田村五郎左衛門、昌幸嫡男、源三郎信幸の初陣の地手子丸城の攻防でも真田忍者が活躍しています。詳細については「加沢記」を参照して下さい。
これらについては、別項で解説します。