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忍びの始まりと戦国時代以前の忍び
間諜については、「日本書紀」の記述に始る。
推古天皇九年(601年)九月戊子八日「新羅の間諜の者「迦摩多」がやってきてたので上野の国に流した。と記されている。
その他大化二年(646年)、天武天皇元年(672年)と間諜についての記述が見える。
また、忍びの起源については「伊賀問答忍術賀士誠」に聖徳太子が甲賀馬杉の人、大伴細入を使って物部守屋を倒したことから大使が「志能便(しのび)」と名付けたと言うことが乗っている。
戦国以前のことについては、源九郎義経の郎党で鈴鹿山の山賊とされる伊勢三郎義盛が作者とされる「義盛百首」にある詩からも忍びの実際が伺える。
敵にもし見つけられなば足ばやににげてかへるぞ盗人のかち
ここに忍びの重要な任務が、敵国の情報を見方に伝えることであり、見つかれば足ばやに逃げるのを第一としていたのが分かると思います。
忍びの語源と意味、その呼び方
忍び(しのび)とは、隠れて目立たないという意味である。
楠流忍術書「当流奪口忍之巻註」では、奪口、透波、風間などとかかれる。また、「甲陽軍監」下巻六には「大敵切所を構、永陣ハ味方大ニ勝、吉事也。必ズ其国郷談、スッパヲ用イル事」とある。
その他の呼び方は、乱破、草、軒猿、やまくぐり衆など地域によって様々なようである。
「武家名目抄」の第二にはすっぱらっぱについて、あまり身分の高くないの武士であったり、強盗であったりした者を雇い諸大名が忍びの役を担わせておいた存在であるという。また、「関東にては大方乱破(らっぱ)と称し、甲斐より以西では、透乱(すっぱ)とよひしとみえたり。」とあり、地域によってその呼び名が違っていたようである。
戦国時代各地の忍び
忍びの名は、夜盗、スッパ、軒猿、三者、饗談(きょうだん)などがある。それは各地によって呼び名は違い、ラッパ、草などの呼び名もある。
出雲の尼子一族の盛哀を記した合戦記「中国治乱記」には、天正九年(1540年)九月二十二日条」には「尼子ハ青山三塚ニ陣ドル。毛利ヨリノシノビ兵ヲ出シ風越山ノ勢ヲ切崩ス。」とあるように安芸国吉田郡山城の戦いの時、毛利方から尼子方へ忍びが放たれ、兵とあるように集団で軍勢として派兵されたのが分かる。
日向国伊東裕堯(いとうひろたか)の文安元年(1444年)十月十四日「一揆契状」には「一揆を結んだからには、お互いの城に忍びを放つようなことをやめよう。」というような取り決めがなされた文書が残されている。ここで言う一揆とは、同盟を結んだことであるので江戸時代の一揆とは区別されて理解している。
結城正勝が弘治二年(1556年)に制定した分国法「結城氏新法度」第二十五条には「草・夜業」についてかかれている。
ここで言う草や夜業と言った者達は悪党で、行動の敏速な者達である。
越前守護朝倉孝景分国法「朝倉孝景条々」には、
・器用、正直名ものに命じて国内を回らせて、民衆がどのような話をしているか聞いてそれに政治に反映させよ。
・諸国に目付を置いて常に状況を伺うように。
と言うような二条、文が含まれている。また、目付とあるが戦国時代諜報活動など忍び働きをする者を束ねていた者は、目付と呼ばれていたようである。
義盛百首に見るしのびの定義
この「義盛百首」は源義経の郎党で、もと鈴鹿山の山賊とされる伊勢三郎義盛の歌集で兵法の奥義としてまとめられたものである。義盛は楠木父子、武田信玄、毛利元就、上杉謙信、織田信長と並んでしのびを活用していた筆頭にあげられる人物である。以下引用する。
夜討ちには忍びの者を先立てて敵の案内知りて下知せよ
軍には窃盗(しのび)物見をつかはして敵の作法をしりてはからへ
窃盗者に敵をひつつ下知をせよただ危うきは推量のさた
はかりごとも敵の心によるぞかししのびを入れて物音を聞け
これはまず敵の事情をよく調べて、攻めることが重要であると言うことである。つまり、斥候を放って良く偵察してから戦を仕掛けよと言うことである。
いつはりもなにかくるしき武士(もののふ)は忠ある道をせんとおもひて
しのびとて道にそむきしぬすみせば神や仏のいかでまぼらん
窃盗(しのび)には三つのならひのあるぞかし論とふてきと扨は智略と
これはしのびとは盗みとは違い、「武士」であり、忠功が大事であると説いている。ここで言うしのびとは、身分が武士と言うことである。そしてさらに「論」、口がうまく何事も恐れない勇気と、「智略」すなわち才覚も必要であると述べられている。つまり下賎のもので、盗みなど働くものには務まらないと行っている。そこで吾妻において活躍した者達、軍配者や修験者など吾妻の郷士のことが私の頭の中に浮かんでくる。こんな事を考えるのは、私だけであろうか。吾妻にはあまり史料が残っていないのであるが、まさに吾妻の郷士達のことを述べているように私は感じる。また此は後世にまとめられた「軍法」にも通じる物があると思う。
敵にもし見つけられなば足はやに逃げてかへるぞ盗人のかち
現在の忍術と言えば、戦闘に関わる技というとらえ方である。しかし、諜報活動においては味方にいち早く情報を伝えるのが重要であった。まず戦闘を行わず、逃げるのが優先されたのである。戦闘はあくまで、最終手段であったのでは無いでしょうか。
後北条氏の忍び
・永禄五年(1562年)三月二十二日北条氏康伴持には、
「葛西の要害、忍びを以て乗っ取り上げ申し付ければ、ご褒美として知行下さるべき事。」とある。
「下総と武蔵との境にある葛西城を忍びによって乗っ取って、北条氏に差し上げることが出来れば褒美として曲金、両小松川、金町の領地、代物五百貫文を同類にあげよ」という文書が発行され、実際に葛西城が落城して褒美が与えられたようである。
・年不詳十月十三日北条氏邦書状写には
「信濃からスッパ共五百程やってきて乗っ取ろうとしているので、用心しなければいけない。」と記してある。
この事から、スッパは集団で来て武士の先頭に立って工作活動をする存在だったことが分かる。
・北条家の旧臣三浦茂正(浄心)が北条五代について書き記した「北条五代記」にも忍びに関する記述が見える。
「大名は乱破と呼ばれる国々の状況をよく知っている心横道なくせ者を雇って、夜討のときは道案内をさせ、敵国に忍び入ったり、あるときは夜討、待ち伏せをし、領国境で藪や草の中に隠れ敵の状況を伺っていた。」
「関東乱破智路の事」では乱破の記述の次に
「北条氏直は乱破を二百人扶持していた。その中の一番の悪名を風魔といい、風魔の中には四人の盗人がいた。また、風魔の頭の小太郎は大男で身長208cmほどで、手足の筋骨猛々しく、ここかしこにむらこぶがあって、目は逆さまに裂け、口は両脇へ広く裂けていた。牙は四本出ていて、頭は福禄寿に似て、鼻は高く、声を高く出せば5km以上先でも聞こえ、低く出せばしわがれた声でかすかで見間違える事はない。」
と言われていた。それはすさまじい形相で、恐ろしかったに違いない。また、風魔は敵味方を判別するためにある合図と共に、「立ちすぐり、居すぐり」という方法を用い、仲間でないと知れればたちまち殺されてしまうと言う。まさに恐ろしい集団である。後北条氏滅亡後には、江戸の町で盗賊をしていた向坂甚内、鳶沢甚内、庄司甚内の三甚内は、風魔の生き残りとして有名である。
武田家の忍び
武田では「乱波・素波」または「三ツ者」、上杉では「軒猿」また真田では、「草の者」などと呼ばれていた。忍者では甲賀、伊賀が有名であるが、各戦国大名、いずれも忍者を活用していた痕跡が残されている。吾妻の地でも、多くの忍者が居り活躍している。吾妻の地は、元々修験道が盛んな地域でその修験の修行をしその道を究めた多くの地侍が居た。私はその人人を忍者と呼ぶのには、語弊があると思っているのだが、一般的に忍者と呼ばれているのでここでは使わせて頂く。その役割であるが、諜報活動とゲリラ戦に分けられる。諜報活動については、修験者(山伏)、御師、僧侶などが活躍していただろう。ゲリラ戦においては、小規模の足軽傭兵部隊があったとその当時の文書に記述してあるのが存在している。そして、情報収集に特化した集団では、望月千代女を頭とする「ののう巫女」という集団があったという情報もある。戦争孤児や貧しい家の娘などを集め、小さいときから訓練教育して特殊能力を持った女の人を育てていたという。ただし、その存在はあまり表には出てこないものなので資料は少ない。では、吾妻の忍者と言われている人々を紹介していきたいと思います。
真田家における「草のもの」のそんざい
真田家の出自
真田氏は元来、信濃小県の小さな郷士である。真田は佐久、小県に勢力を張った滋野三家海野氏の分れだと名乗っている。つまり、滋野の本流を名乗っている訳である。しかし、近年の調査で、真田氏は菅平の牧の牧官であったのが海野氏と縁を結び、女系で海野氏と繋がる外戚であったという説も現れた。その点は、いくつも説があるので専門家に任せたいと思う。いずれにしろ真田氏はこの小県の真田地方に古くから居て、勢力を張っていたのだろう。
眞田氏と四阿山の白山信仰と吾妻
四阿山には白山神社があり、古くより山岳信仰が盛んなところである。四阿山は信州と上州の二国にまたがり、そこを繋ぐ鳥居峠も有る。白山神社の里宮として真田の郷には山家神社があり、西吾妻には今の宮が有り両国から信仰されていた事がうかがえる。特に西吾妻と東吾妻の吾妻川南岸には、鎌倉の頃より滋野三家の各氏族が開発領主として入り勢力を張っていた。この白山大権現信仰は、山伏、行者、修験者などと真言、天台密教が密接に関わりこの地方独特の信仰がなされていた。またそれらの人々は修行を行い、超人的な能力を持った人々を生み出した。
この事は後に真田氏が、独特の戦法や諜報を行っていた事へも繋がるものである。これは一般的に言われている伊賀、甲賀の忍術と違い独特のものを生み出していたと思われる。滋野三家の各氏族の他の氏族、吾妻川南岸で勢力を持っていた秀郷流吾妻氏の領域でも修験が盛んで、原町の岩櫃山、観音山、嵩山を修行の場としての修験者多く居た。また、修験寺も多く吾妻全体にも多くの修験者が存在していたのも事実である。その吾妻の修験者と真田の修験者を合わせた多くの者達が、真田氏を支えていたという事も言えるでしょう。
真田忍者と言えば「真田十勇士」であるが、このような小説でも事実であるように見えるのは真田なるが故であるだろう。「真田不思議なる弓取り」と言われるようにゲリラ戦においてめっぽう強く一例を挙げれば、大坂夏の陣の道明寺の戦いのとき真田信繁隊は、伊達政宗の無敵騎馬鉄砲隊を地面に兵を伏せ、待ち伏せして迎え撃ち大きな成果を上げたのもその一つである。こういうことを考えると、「息を潜めて待つ」という特殊な能力を持つ兵士がたくさんいたという事であろう。
「NHK大河ドラマ真田丸」に登場する「出浦昌相」は真田昌幸、信之に仕えた参謀である。この人は、出浦上総守頼幸、対馬守幸久とも名乗り吾妻に非常にか関わりがありこの地でも有名人です。岩櫃城の最後の城代(城番)をした人で、原町の町割をし平川戸の集落から現在の原町に町を移した人です。武田素っ波の目付をしていた人で、天正十一年(1584)真田昌幸に仕えたようです。ここで盛清と幸久が混同して伝わっているが、近年の研究では出浦清種(祖父)-盛清(親)-幸久(子)という説が有力である。岩櫃最後の城代で町割をし、最初の原町の奉行所で吾妻郡代をしていたのが幸久という方が信憑性があるでしょう。また、原町南町に出浦氏の屋敷があったという伝承があり、関崎氏が明治時代に、出浦氏から土地を購入したという記録(登記簿等)がある。この事を考えると、対馬守幸久はこの原町の地で亡くなり幸久が信州に引き上げるときに父である盛清の墓を信州に持っていったという仮説が成り立つ。NHK大河ドラマ「真田丸」では、出浦昌相という名前で寺島進さんが名演技で演じていた。時代考証で、文書の中に唯一「昌相」と署名したのがあるのでこの名前にしたようである。しかし、諱は通常文書には記名されず「出浦上総介」とか「出浦対馬守」とか署名するものです。このサイトでは、この地に伝わる「幸久」と表記したいと思います。
池波正太郎先生の「真田太平記」でも、忍びがクローズアップされている。忍びの頭が「壺谷又五郎」、その配下で「お甲」というくノ一がいた。父は、甲賀から武田に派遣された忍びで、任期が切れても武田に残り昌幸の下で働いていたという。小田原の役の前、お甲が武蔵国に情報収集に出かけていたとき、北条のお抱え絵師として仕えていた父と旧知の間柄のものに出会う。この絵氏は、豊臣方から密かに侵入させていたスパイであった。その絵師が、「豊臣の臣下にならない北条に対して、偽書状で名胡桃城を攻めさせてそれをきっかけに北条を一気に滅ぼそうという計画を練っている。」と言う計画が実行されるので今逃げているところだ。と聞かされる。驚いたお甲は、すぐさま岩櫃にいる昌幸に報告する。しかし、昌幸は「う~ん」と言って何もしなかった。昌幸は分かっていて名胡桃を見殺しにした、という設定です。これは小説の世界ですが、当時の情報収集の様子、情報の大切さが良くわかる事例ではないでしょうか。いつの時代にも、情報というのは大切なものですが、戦国の世においても「いち早く情報を仕入れる」と言うことが非常に大事だったことが伺える事象だと思います。
また、同じくNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の中で、加藤剛演じる平将門に景に「あやかしのもの(北村一輝)」がいた。このあやかしのものも、平将門に情報を提供していたのである。あやかしのものとしのびは「呪術」などがクローズアップされるのが常であるが、「情報収集」こそその主な役割であったことのように思う。
その他にも原仁兵衛(千蔵坊)別名来福寺左京や祢津信忠(禰津潜竜斎昌月)など武田家に仕えていた軍配者と呼ばれる人達も、その頃真田昌幸に仕えたようです。特に来福寺左京は武田時代に、岩櫃城搦手を守り現巌下山潜龍院跡には「来福寺左京物見の岩」と言い伝わる場所もある。真田昌幸に仕えて後の来福寺左京は、第一次上田合戦の時神川をせき止めたおり昌幸の囲碁の相手をしていて、碁盤をひっくり返すのを合図に神川の堰を切る連絡をしたと「真田軍記(軍記物)」の中に記述がある。こういう人達がたくさんいたという事、真田昌幸が有効に活用していた事などから「真田は不思議なる弓取り」と言われていたのであろう。特に吾妻と関係があるのは、横谷左近幸重である。彼が歴戦の勇者であると共に、出浦対馬守と共に真田忍者の双璧と言われた人で、大阪に信繁と供に籠城した左近の弟は、「真田十勇士」猿飛佐助のモデルとなったといわれている人である。現在末裔の方は、信州上田に住んで居られ数々の文書も残されているようである。その活躍は、「加沢記」に記されている。
小県と吾妻郡沼田につながるわずかな領地しか持たない真田家が、真田藩として幕末まで残ったのはこう言う者達の情報収集のおかげかも知れません。
<参考文献>