奈良時代と平安時代の軍制

A.奈良時代の軍制

 奈良時代の兵制は、唐の徴兵制度をまね律令制の中の軍防令の中で定められていた。この令により、20才~30才までの男子を徴兵していた。兵千人を一つの軍団として、長官として軍毅(ぐんき)1名、副官として大毅(だいき)1名、その下に小毅(しょうき)2名、そして主帳1名が軍の事務を司る。

 軍容は、校尉(こうい)が200人を束ね5名これを二百長と言った。その下に旅帥(りょすい)が10人で百長とも行った。更に下に隊正(たいせい)が20人で、五十長とも言った。 最小の兵の単位は、伍(ご)といい5人をひとくくりとし、二伍、つまり伍を二つ10人を一火(いっか)と言い火長を置いた。また、50人の中から弓馬に達者なものを2名選び騎馬兵とし、射手とした。

 その他軍装として、鼓二面と大角(はらのつえ(獣角の笛))二口、小角(たたのふえ(筒の形をした小さい笛))四口備えていた。

 平時の主な任務は倉庫、城隍(じょうこう(城の堀))の修理、関の守衛(関所の護衛)天皇行幸時の護衛、外国使節の送迎、犯罪人の護送の任に当たった。十日毎に訓練することになっていた。

B.平安時代の軍制

 天平11(739)年に三関国、陸奥、出羽、越後、長門、太宰府管内以外の軍は廃止された。平安時代には、京の都での兵役は廃止された。これは平安貴族にとって、軍団は血を意味していて「穢れたもの」という意味で嫌ったためである。

 しかし、延暦11(792)年に余りにも乱暴者が増え取り締まるものがなかったので、健児(こんでい)の制が作られた。人数は200名~30名で、郡司子弟という上層階級から徴集されたのが特徴である。この者達は、諸国や京に配置され、下級官僚化していった。この軍団の兵士は糒(ほしい)六斗、塩二升、什器自弁という決まりであった。後にこの健児は、調が免除されて馬子の支給、粮料が供給された。

 こんな中都では、「検非違使(都の警備をするもの)」が新たに作られた。この検非違使に任命された者達が、後の武士階級発生につながるのである。

 基本的にこの健児に任命された人達は、ある程度の身分あるものでした。よく武士の発祥時期に登場するのは源氏と平家に代表される。これを見れば、両家供に天皇家より発生した家である。天皇の子は「新皇」で、「新皇」の子は「王」を名乗る。そして王の子は、天皇から姓を賜り「臣籍降下」するのがならいである。つまり武士発祥の初期の者は、ある程度の身分を要していたと言うことである。

 ここで少し「姓」について、解説する。元来「姓」というのは、天皇から授かった者を「姓」という。徳川家康を正式に言えば、徳川大納言源家康と言うことになる。この意味は、姓というのは天皇家から賜った者しか「姓」と言わないと言うことである。日本四大姓は、「源平藤橘」が有名である。

C.防人(さきもり)

 ちょっと前後するが、防人についても解説していく。天智天皇2(663)年新羅の国白村江で唐の軍に日本は敗れた。それにより、再開法面の防備を固める必要性が生まれた。諸国の軍団の中から防人を選抜して、筑紫に駐屯させた。この防人の多くは、東国より徴集された。各国から徴集された兵士は、国司の部領に引率され兵糧自弁で難波の津(神戸)に集まり船に乗って筑紫に配属されたのである。

 装備は「軍防令」に従って、一人が弓一張、弓弦袋一口、弦二条、征矢五十隻、かなぐい一具、太刀一口、刀子一枚、砥石一枚、藺笠一枚、飯袋一口、水桶一口、塩桶一口、脛巾一具、鞋一領が自弁。兵十人あたり幕一口、銅瓦二口、小釜二口、鍬一具、挫碓一具、駄馬六疋、五十人に火鑚一具、熟艾一斤、手鋸一具と用意するもが多く、また旅費と食料を合わせれば大変な出費である。これで、三年の任期であった。出征に当たって、大変つらい者があったに違いない。

D.平安時代の従類・伴類

 承平・天慶の乱(935~940)で、関東に独立国をつくって滅ぼされた平将門の事を書いた「将門記」という記録には従類と伴類について記されている。従類とは関東で広く分布していた平氏一族のうち、将門の直属の者である。将門が兵を動かすときに主力となる郎党で、騎馬に甲冑武装した者で百騎余りだったという。これに対して、伴類とは普段は牧で働く者や農民である。戦の時に徴集され、戦が終われば自分の土地に帰っていく。承平7(937)年8月将門が堀越の渡しで同族良兼と戦ったとき、将門が病気にかかって不利になったと知ると、

 未だ幾ばくも合戦せざるに、伴類はさんのごとく打ちちりぬ

 と記され、また天慶3(940)年2月14日に将門が最後の決戦に打って出ると今度は、貞盛、秀郷、為憲の伴類2千9百人みな逃れ去りぬと言う状態であった。領主に強制的に徴集されたが、自分の命の法が大事で、従類のように命をとして主人のために戦うことはしなかった。これは、後世の足軽、中間と同じで戦が不利になれば真っ先に逃げ出していた。

E.源平時代の武者の着到

 源平時代の合戦は、ほとんど騎馬戦であった。主からの参陣の命令は、ある程度の武士であるならば騎馬で駆けつけるのが当たり前であり、配下の食料もすべて自弁であった。それゆえ、近くの者は良いが遠く離れた者にとっての負担はとても大きなものであった。 戦の最中においても、自弁が当たり前で馬の食料から配下の食料、武具にいたるまで自弁であったので戦場での略奪も当たり前であったようである。だだ、その記録については「軍記物」を含め残っていない。

 文治元(1185)年、源範頼が九州を制覇しようとしたとき、兵糧が続かず兵を動かすことが出来なかったという。この経験から文治元年11月頃行家、義経追討の時は全国の守護、地頭、御家人に対して兵糧米の徴収権を与えたと「吾妻鏡」の中に記されている。内容は、一反歩に付五升の食料を調達し軍事に備えると言うことである。

 源平時代の武士は、騎馬による射手戦であるから徒歩武者は従者であり、馬の世話役、小荷駄係であり戦闘補助員であった。

F.着到の記録(執筆・右筆)

 陣触を受けた武士は直ちに戦の支度をし、供を連れて主君のもとか指定の場所に参じなければならない。進軍する行路に領地を持つ者は、地元から軍に合流することも許されていた。

 この陣触によって馳せ集まることを、着到という。これを検査、管理するのが軍奉行で記録するのが執筆とか右筆と呼ばれていた。着到の記録は、巻紙の用に張り継いで使用された。初めの方三寸七分開けて着到と書きその下に年月日、次の行から到着順に氏名、部下の人数などを書く。これを着到目録と言い、距離に対して参陣の早い遅いが忠勤の証となっていた。

 着到目録に記録されると、着到状というのが主君から発行される場合もある。上杉謙信が関東に出兵したときの着到目録が残っており、「関東幕注文」と言ってそこには岩下衆斉藤 六柏と書かれている。この事から、上杉謙信の関東遠征に、吾妻斉藤氏も参陣したのがわかる。ただし、着到状は残っていない。

G.小田原北条氏五十貫級武士の着到

 戦国時代においては、領地を金に換算して表す貫高制が一般的であった。関東ではこの貫高制が、江戸時代初期まで続くことになる。関ヶ原の後この吾妻・沼田・小県の領有を徳川家康に認められたときの真田信之も、貫高制を継続していた。真田家が石高制に変更するのは、松代に転封になったときである。

 一般的には、百貫一騎(250石~300石)という風に決められていてそれに伴う従者も含め、各国人は参陣していた。まず騎馬一騎、馬の口取り、鎧持(鎧櫃を背中にしょって)、槍持、食料用意する役、主人を警護する徒歩侍などである。平均五名位の従者を、引き連れていたことになる。馬乗り一人と従者五人という構成になる。中世の文書には、百騎とか千騎とかの表記が多いが、一騎あたり五、六人の計算で人数を計算すれば全兵力が分かると思います。しかし、そこには若干の非戦闘員も含まれていますので、戦闘兵力は二~三割ぐらい減る計算になると思われます。

 ここで参考までに、小田原北条氏の五十貫級武士の記録が残っていますので紹介します。朱印状によると五十貫に付馬乗一騎、小旗持一人、鉄砲一人、槍持二人、小荷駄はなくそれぞれが兵糧や馬の餌を分担で持った。馬乗は主人であるので荷は持たないので、従者四人で分担して持ったのでしょう。

 江戸時代に於いては、200石未満は徒歩、200石以上が馬乗りと決まっていたようです。最下級の武士が100石で、鎧武者1名、槍持1名の計2名の主従。または、馬上一騎と馬の口取り一名、槍持一名だとすると計3名と考えると大体、五十貫につき五名というのは適合しているような気がします。貫高と石高の換算は、真田家が一貫に付三石、仙石氏が一貫につき二石五斗として石高制に換算していますのでこの五十貫というのは、102石5斗~150石と言うことになり大体江戸時代の兵役も、戦国時代の兵役を参考にしていたのが分かります。ただし、戦国時代の方が兵役が比較的きつかったのが分かります。また、1貫文5石で計算するのもあるようです。したがって、貫高制から石高制に変更するのは統一した基準はなく、各大名の裁量に任されていたようです。おおよそ、仙石氏の2石5斗から5石ぐらいの開きがあったようです。このサイトでは、真田家による1貫文3石を採用しようと思います。ここで、仙石氏が2石5斗で真田氏が3石なので、仙石氏の方が緩いのではないかと思われるが仙石氏は2石5斗で1貫文の兵役、真田氏は3石で1貫文の兵役と言うことです。

江戸幕府規定の着到

 江戸幕府は慶安2(1645)年に、身分、石高に応じて兵役についての細則ができあがった。これは、百石級の徒歩兵から上は大名にいたるまで動員人数と、武器、武具などに及び、細かく規定されていた。二百石級から五万石級までの着到規定を紹介します。なほ、貫文換算は、真田家が行った一貫文三石を参考に括弧内に表示しました。参考にして下さい。

 百石(約30貫文)以上で、領地を持ち兵役が発生していた。槍一筋と鎧甲、徒歩にて自弁で駆けつけると言うことです。百石未満ですと、領地はなく大名の俸禄米にて支給(戦国時代においては傭兵と言うことになる)と言うことなので武器、武具は大名の用意した御貸武器、御貸武具を借りて出陣と決まっていたようです。戦国時代は、すべて自弁であったのでは無いでしょうか。小田原北条氏には、御貸武具もあったようではありますが、ほんとに用意できない者限定の貸武具のみだったのでしょう。ちなみに一貫文は現代の貨幣に換算すると、一石は籾米米俵で2俵です。1俵60kgとすると大体米の値段が10kgで¥2,000~¥4,000位、籾米と言うことを考慮して10kg¥2000で計算すると1俵¥12,000、2俵一石で¥24,000。真田家の貫高換算で計算すると、一貫文三石なので一貫文が¥72,000となります。これで五十貫文だと、年収¥3,600,000となります。一貫文五石としても、¥6,000,000で一流企業の課長クラスと言うことになります。五十貫文で従者五人従えると言うことは、現在の企業で考えると従業員五人の会社で平均人件費を¥4,000,000とすると人件費だけで¥20,000,000、売上はその2倍から5倍とすると年商¥40,000,000~¥100,000,000の企業と言うことです。

 これを課長クラスの年収で賄うのですから、普段から質素な生活をしていなければ、主君からの陣触に答えられなかったのではないか。真田昌幸の時代は、戦続きで非常に臣下も苦労したようです。吾妻の諸氏も、俸禄の少ない武士の多くは浪人し帰農したようです。ただし、ここでは、真田信之が上田から松代に転封になったとき貫高制から石高制に変えたときの、一貫文3石というのを基準と考えた。これは大名によって差異があり、大体2石5斗~5石を一貫文と考える。「日本戦陣作法辞典」では、1貫文5石計算で「小田原北条氏50貫文の着到」を250石としている。ただ、戦国時代にも検地は行われていたが「新たに領地になったところ、軍装を変えた地区等」に限定されている。ほとんどの領主は、自己申告で領地を申請して主君に認めてもらっていた。とんでもない差異はなかったかも知れないが、正確な領地の把握は、「太閤検地」を待たなければならなかった。そして、兵糧についても別項で詳しく解説するが、戦国時代においては基本的に兵糧は自弁である。また、戦国時代末期から江戸時代初期においても着到までの兵糧は自弁で、荷駄隊を編成していたが全員に十分行き渡る食料があったとは言いがたいものがある。

百石級の着到(約33貫文~20貫文)

 歩行武者(本人)1名、槍持1名、草履取1名の合計3名。
 これが最下級の武士である。それ以下は足軽、と言うことになる。戦国時代の、郷士と言うことか。この百石以下の中には、「一領具足」「一領一疋」も含まれています。この最下層の武士達も戦国時代においては、農耕馬にまたがり戦場に向かった。あくまで江戸時代においては、この最下層の武士は非常時(陣触があったとき)以外は馬に乗れなかったようである。吾妻の多くの郷士はこの、「一領具足」「一領一疋」の部類に当てはまるのではないでしょうか。また、真田家に「傭兵」として雇われた人々もいたと思います。

二百石級の着到(約67貫文~40貫文)

 これが、騎馬で着到する最下級の武士と言うことになります。内容は、

 騎馬武者1名(主人)、侍1名、槍持1名、甲冑持1名、馬の口取1名、小荷駄1名で主人と従者5名の計6名で騎馬武者(主人)が戦闘員、侍が戦闘補助員、甲冑持と小荷駄が戦闘協力員、残りの2名は非戦闘員と言うことになります。そして騎馬武者は籠手、臑当、佩楯、喉輪、陣羽織と戦場に着くまでは軽武装であった。つまり戦場に着いてから、甲冑をまとうにである。用心して甲冑をまとって騎乗していても、兜はかぶらないそう言うしきたりであった。つまり、行軍の時は非武装と言うことである。このしきたりが、幕末の鳥羽、伏見の戦いの敗戦につながるのである。薩長軍と遭遇したときに、幕府軍の銃には弾が込めてなかった。それ故薩長軍が銃撃してきたときに反撃が出来ず、兵力的には有利であるにもかかわらず敗戦したのである。

三百石級の着到(約100貫文~60貫文)

 騎馬武者1名(主人)、侍1名、槍持1名、馬の口取1名、甲冑持1名、小荷駄1名、草履取1名で主人と従者6名の計7名である。二百石級より1名増えている。騎馬武者が戦闘員、侍が戦闘補助員、槍持、甲冑持、小荷駄が戦闘補助員、馬の口取と草履取が非戦闘員と言うことになります。

四百石級の着到(約134貫文~80貫文)

 騎馬武者1名、換え馬1頭、侍2名、草履取1名、小荷駄2名、甲冑持1名、槍持1名、挟箱持1名、馬の口取り1名で騎馬武者1名(主人)、換馬1頭、と従者9名で合計10名である。200石で馬1頭と義務付けられていた。江戸時代初期の頃は、戦国時代が終焉したとは言えまだ武士の生活は質素であった。しかし、長く太平の世が続き生活も贅沢になり衣食住も体面を重んじるようになる。そうなると馬一頭も飼えない武士も出てきて、登下城時など貸馬を利用したという話などもあります。また借金が返せず、娘を遊郭に売ってその安否を確かめに行くのに籠書きに変装していったという話まである。お抱えの侍も3両一人扶持(一両が七万五千円で年収二十二万五千円である。)屋敷内の長屋や小屋に住んでいた。一人扶持は一日米五合の支給であるから、妻帯などとてもできなかったという。この着到の規定は、江戸時代初期二すでに形骸化が進んでいたと思われる。これは、三代将軍家光の時に起きた「島原の乱」で牢人や百姓達に苦戦して、なかなか鎮圧できなかったことでも分かると思います。

五百石級の着到(約167貫文~100貫文)

 侍2名、甲冑持1名、槍持1名、馬の口取2名、小荷駄2名、草履取1名、挟箱持1名、立弓1名である。騎馬武者1名(主人)と従者が11名で合計12名となる。当然変馬も1頭用意することになる。戦国時代、小田原北条氏が50貫文の領主に課した着到では小荷駄がなく、より戦闘員に力を入れていたのがわかる。つまり、兵糧は打飼袋などに入れ各人が腰にぶら下げてきたのである。戦国時代においては、大将でさえ腰兵糧を持っていた。織田信長は常に餅を腰にぶら下げていたというし、朝鮮出兵の時の加藤清正は打飼袋を腰にぶら下げその中身は米三升、干味噌、銀銭三百が入っていたという。江戸幕府がこの着到の決まりを決めたときには、もはや戦争経験もなくなり食料、補充備品係が必要と思われる時代となっていたのでしょう。戦国時代は、非戦闘員が少なく戦闘員、戦闘補助員が比較的多かったと思います。各自が腰兵糧を持って参陣していた、と言うことだと思います。

六百石級の着到(約200貫文~120貫文)

 幕府の軍役規定は、百石増えるごとに供は二人増えてくる。六百石級だと侍3名、甲冑持1名、馬の口取2名、草履取1名、小荷駄2名、挟箱持1名、立弓1名、鉄砲持1名の合計13名で騎馬武者(主人)と合わせると14名の陣容になる。四百石より変え馬の用意をしなければならないが、江戸時代に入ると小身の旗本は換え馬が飼えないようになる。これは、太平の世が続き生活が派手になる事で、出費が軍役からお付き合いや生活に変わっていったからでしょう。戦国時代のこのクラスになれば、馬は常に2~3頭飼っていて戦に備えていた。行軍の距離が長ければ、馬一頭では潰れてしまえば徒歩となってしまう。着到規定で、騎馬になっている者が馬が潰れたからと言って徒歩になれば軍規違反と言うことになり罰せられる。したがって余裕を持って、馬を飼っていた。このようなことが、戦国時代と江戸時代の違いと言うことだと思います。

七百石級の着到(約234貫文~140貫文)

 七百石級の武士の供揃えは侍4名、甲冑持1名、槍持2名、馬の口取2名、小荷駄2名、草履取1名、挟箱持1名、立弓1名、鉄砲1名の従者が15名、総勢16名の戦列である。百石増えると供侍が1名増える。平時は主人の世話などし、警護などするのでこの1名増えたことにより大分戦力が上がっていると言うことです。ただ、この供侍の甲冑と武具は主人がそろえるので、負担は大きかったようです。一応譜代の臣下であるが、俸禄は安く3両一人扶持と言うことなので最下位のぶしそうである。これはよく時代劇で、浪人や下級武士のことを「サンピン」と呼んでいるのを聞いたことがあると思うが、これが語源である。江戸時代の1両の価値は、大体13万円程度であると言われているので、「サンピン」の年収は39万円程度と言うことになる。戦力としては、主人と侍4名なので合計5名である。ただし、このクラスになると弓足軽、鉄砲足軽、槍足軽を15名~30名位預けられるので、供の者(4名)はあくまでも、主人の護衛と主人の働きの協力者である。桃山時代あたりから、必ず馬の口取が着くようになる。それ以前は、身分の高い者しか着かなかった。これは威容を誇るため、つまり平たく言えば自分を大きく見せるために着けたのである。

八百石級の着到(約267貫文~160貫文)

 供揃えの内訳は侍4名、甲冑持2名、槍持2名、馬の口取2名、小荷駄2名、草履取1名、挟箱持1名、立弓1名、鉄砲1名、沓箱持1名の17名である。主人と合わせると16名の戦列になる。戦闘兵力は、主人と侍の計5名であるから七百石級の戦闘兵力と変わらない。このクラスになると甲冑持が2名になる。これは予備の甲冑が増えたためである。そして新たに沓箱持が増えた。当時馬も草履を必要としたし、草鞋も一日で履き尽くしてしまうため大量の草履が必要であった。通常は主人が履く、毛靴を持つ者である。しかし、従者が増えれば専用の草履運搬人が必要になるほど消費していたことがわかる。

九百石級の着到(約300貫文~180貫文)

 侍5名、甲冑持2名、槍持2名、馬の口取2名、小荷駄2名、草履取1名、挟箱持2名、立弓1名、鉄砲持1名、沓箱持1名の合計19名の供揃となる。侍と挟箱持1名ずつ増えた。侍が5名と言うことは、主人と合わせて槍が6本と言うことで直接戦闘能力のあると供は、立弓1名、鉄砲持1名で合計8名と言うことになる。槍は主人の予備が1本で、計7本となる。戦闘補助員は甲冑持2名、馬の口取2名の4名で非戦闘員は小荷駄2名、草履取1名、挟箱持2名、沓箱持1名の合計6名です。このクラスから、鉄砲を備えるようになる。鉄砲には弾薬が必要になる。鉄砲は1丁なので、弾薬は鉄砲持が腰にぶら下げる程度で間に合ったのではないか。この弾薬などを持つのに挟み箱を持ったのかと言うと、本来挟み箱は衣類を入れるものである。戦国時代では、衣類は竹に挟んで運んでいたという。箱形式になったのは、桃山時代あたりだとしている。

千石級の着到(約334貫文~200貫文)

 侍5名、立弓1名、鉄砲1名、槍持2名、甲冑持2名、草履取1名、長刀持1名、挟箱持2名、馬の口取2名、押足軽1名、沓箱持1名、小荷駄2名で従者の合計は21名である。このうち主人用の武器は、槍、立弓、鉄砲、長刀で戦いにより一つを選ぶ。戦闘兵力は主人と徒侍の6名で、九百石級とかわりはない。押足軽は、足軽頭のことで甲冑持、槍持、長刀持、草履取、挟箱持、馬の口取を束ねるものである。本来であれば侍が足軽で戦闘員の最下層であり、そのほかは非戦闘員であるが侍を最下層の武士という考え方もある。押足軽は、非戦闘員であるが時には、戦闘補助員とみなされ主人の危機の時などには戦闘に参加する場面もあったようである。

千百石級の着到(約367貫文~220貫文)

 侍5名、立弓1名、鉄砲1名、槍持3名、甲冑持2名、長刀持1名、草履取1名、挟箱持2名、馬の口取2名、押足軽1名、雨具持1名、沓箱持1名、小荷駄2名で従者の合計23名のとも揃え。一千石級と比べると、槍持が1名増えさらに雨具持1名が増える。戦闘補助員1名と非戦闘員1名が増えたことになる。戦闘能力は、一千石級と同じとなる。

千二百石級の着到(約400貫文~240貫文)

 侍6名、立弓1名、鉄砲1名、槍持3名、甲冑持2名、長刀持1名、草履取1名、挟箱持2名、押足軽1名、馬の口取2名、沓箱持1名、雨具持1名、小荷駄3名で計25名となる。千百石級より侍1名と小荷駄1名増える。つまり戦闘員1名と非戦闘員1名が増えたことになる。

千三百石級の着到(約434貫文~260貫文)

 侍6名、立弓1名、鉄砲1名、槍持3名、槍持手明1名、甲冑持2名、長刀持1名、草履取1名、挟箱持2名、挟箱手明1名、押足軽1名、馬の口取2名、沓箱持1名、雨具持1名、小荷駄3名で合計27名、千二百石級と備えは同じで挟箱持と槍持の予備の人員が1名ずつ増えただけである。

千四百石級の着到(約467貫文~280貫文)

 侍7名、立弓1名、鉄砲1名、槍持3名、槍持手明1名、甲冑持2名、長刀持1名、草履取1名、挟箱持2名、挟箱持手明1名、押足軽1名、馬の口取2名、沓箱持1名、雨具持1名、小荷駄3名で合計28名。ここでは戦闘員(侍)が1名増えた。

千五百石級の着到(約500貫文~300貫文)

 侍7名、立弓1名、鉄砲2名、槍持4名、甲冑持2名、長刀持1名、草履取1名、挟箱持3名、馬の口取2名、沓箱持1名、雨具持1名、押足軽2名、小荷駄3名で計30名になる。戦闘補助員である鉄砲持1名と槍持1名が増えたことになる。槍持手明と挟箱手明がいなくなり、それぞれが槍持と挟箱持となり非戦闘員の数は変わらない。

千六百石級の着到(約534貫文~320貫文)

 侍8名、立弓1名、鉄砲2名、槍持4名、甲冑持2名、長刀1名、草履取1名、挟箱持3名、馬の口取2名、沓箱持1名、雨具持1名、押足軽2名、小荷駄3名で計31名。侍が1名増えて、主人を含め戦闘員が9名となる。

千七百石の着到(約567貫文~340貫文)

 侍8名、立弓1名、鉄砲2名、槍持5名、甲冑持2名、長刀1名、草履取1名、挟箱持3名、馬の口取2名、沓箱持1名、雨具持1名、押足軽2名、小荷駄4名で計33名。槍持1名と小荷駄が1名ずつ増えた。つまり戦闘補助員が1名、非戦闘員が1名増えたが戦闘能力は千六百石級の着到と同じと言うことである。

千八百石の着到(約600貫文~360貫文)

 侍8名、立弓1名、鉄砲2名、槍持4名、手替1名、甲冑持2名、長刀1名、草履取1名、挟箱持3名、馬の口取2名、乗換馬の口取2名、沓箱持1名、沓箱持1名、雨具持1名、押足軽2名、小荷駄4名で合計35名。千八百石乗え馬を用意するようになる。この、乗換馬の口取が2名増えた。

千九百石の着到(約634貫文~380貫文)

 侍8名、立弓1名、鉄砲2名、槍持4名、手替1名、甲冑持2名、長刀1名、草履取1名、挟箱持3名、馬の口取2名、乗換馬の口取2名、沓箱持2名、雨具持1名、押足軽2名、小荷駄4名で計36名。非戦闘員の沓箱持が1名増えた。基準としては、百石につき2名増員と決まっていたようである。