○序章

A.陣触(じんぶれ)

 敵国が攻めてきたとき、攻めるとき、領主、朝廷や幕府からの要請によって軍を発するための最初の行動を陣触と言う。近くの臣下においては、太鼓や鉦を鳴らす。離れた臣下などを徴集するときには、早馬を飛ばし口頭及び触状と呼ばれる書状をもって徴集をかける。

 小田原北条氏の到着状を確認すれば、戦の内容を予想して軍装を細かく指示することもある。また、資材の調達を加えて集まることもある。

「甲陽軍監」にある

「景虎家中侍大将を召し寄せ。当十月八日に信州へ出、武田晴信と弓矢を始申べく候間、陣触仕候へ。始めて晴信とはたへをあはするなれば、人数多して六ヶ布候。八千よりうへは堅無用と陣ふれなり。」

 とあるように人数を制限して、精鋭ばかりを集めさせることもあるようである。

 この陣触状は、近世になり書式が整えられ中世、戦国時代においては各大名によって違っていたようである。

B.陣触をもらった家臣

 主君より陣触をもらえば、臣下は直ちに軍装を整え主君のもとへ早く出仕しなくてはならない。これは中世、戦国時代の寄子寄親制の時代でも同じである。寄親から「領土安堵状」等をもらっている寄子は、寄親からの陣触に対して即座に対応する義務が発生するのである。

 「吾妻鏡」によると、正治二年(1201)四月、越後国から城小太郎資盛賀も反したとき。鎌倉幕府は越後の近国の佐々木三郎兵衛尉盛知に追討使任命の御教書(将軍の書状)を送った。盛知は門前で受け取りその場で開き、直ちに馬を支度させ越後に走り兵を募り城氏を攻めた。

 天慶の昔(939)、平将門が「新皇」を名乗り関東独立国を目指し隆起したとき、当時の朝廷は慌てて宇治民部卿忠文に追討使の命が下った。勅使(天皇の使い)が来たとき忠文は食事中であったが直ちに箸を置き、勅使にあった。そして、直ちに参内して節刀(勅命で討伐をする時のしるしとして刀剣を賜る)を受け、直ちに出征した。

 武士の心得として古来より、追討の命を受けたら時間をおかず出発するのがならいであった。

 時代がくだり、小田原北条氏の陣触では軍装を細かく指定されるようになる。ただし戦国時代においては、戦が日常であったので軍装をいつも用意しておき直ちに出陣しなければならなかった。

C.一領一匹・一領具足

 一領は甲冑、一匹は馬一頭のことである。半士半農であった戦国時代初期においては、陣触があると直ちに城主のもとへ、甲冑をまとい馬に乗りつけることが義務であった。この制度は江戸時代になっても残っていた。

 土佐国の長宗我部家は、この一領具足の制度でもって四国に勢力を張った。この制度は、土佐に山内一豊が徳川家康によって領地をあてがわれた後も残っている。旧長宗我部の下級の郷士と呼ばれる人達である。かの幕末の坂本龍馬も、この郷士と呼ばれる下級武士であった。普段は被官、下人を使い農事を行いやりに結わえ付けた具足、刀を畦に立てて野良仕事をし、陣触があるとその場で甲冑をまとい駆けつけた。

 これは、土佐藩だけで無く熊本の細川藩でも、甲冑一領と馬一匹というか達で残っていた。戦国の世の吾妻においても、吾妻七騎等の諸氏はこの一領一匹という形で真田氏に雇われていたのでしょう。恩賞は、土地ではなく金や刀など手柄を立てた戦場で大将自ら与えられていたと思われる。これが近世の封建制が固まり、幕藩体制になるとこのような小さな耕作地を持った郷士は、現在自衛隊の予備役のような役割になっていったと思われます。例えば、沼田藩からは俸禄をもらっていないが自分の僅かな田畑の耕作を許され、その代償として「いざというときには沼田藩に武装して駆けつける」というようなものであったと思われる。こう言う制度は土佐藩、熊本藩に限らずどの藩にも存在していたように思います。

D.兵糧米と荷駄馬の徴発

 「腰兵糧」という言葉がある。戦に対して陣触を行えば、兵士の食料、馬の餌など各消耗品などは自己負担が原則であった。戦国大名のおいては、戦があれば常に領土を増やしていかなければならない宿命があった。寄子は戦に帯しての食料など消耗品は自前であるので、戦があれば必ず恩賞がなければ赤字となってします。恩賞がなければやっていけないので、裏切りも起こってくるのである。

「太平記」には新田義貞が鎌倉幕府から後醍醐天皇方へ倉が選ったのも、原因が病を経て帰陣してしまった義貞に対して、「出兵を命じる代わりに五万貫(近世で言う15万石の土地の一年分の生産量)を鎌倉幕府から命じられたため、北条氏に叛旗をヲ決意することになった」と記されている。虚偽的表現であるが、陣触とは出兵する諸氏にとっては非常に負担の大きいことであったのが確認できる。

 そのため戦国時代以降になると、荷駄隊を編成する必要があった。兵糧奉行、荷駄隊は戦において勝敗へも影響する重要な役割があった。その食料などの徴発は、適地戦場での青田刈り、略奪などにも及んでいた。また、この荷駄隊にも夫丸として陣夫が徴集された。この米穀の徴集は、大大名であっても非常に難しいことであった。また、戦場になった付近の村々では、土地が荒らされたり略奪、人取り(人をさらって奴隷として売ってしまう)なども日常的に行われていたのである。

 この食料の調達の難しさは、後の豊臣秀吉の「小田原征伐」においても、食糧が不足気味であったというような文書も残されている。つまり、小田原北条氏の籠城がもう少し長く続けば危なかったとも言える。徳川時代になっても、徳川と豊臣の最後の戦い「大坂の陣」において近年の発掘で「イルカの骨」が見つかっている。大阪城の包囲の中で、やはり食料が足りず海でイルカを捕まえて食っていたと言うことである。武田家の文書の中にも、「自領(武田家)にしたがっている国人、郷士の領地においても米以外の穀物であれば略奪しても良い」と言うのがある。これは食料調達がいかに御難しかったかがうかがえる物である。また、義将上杉謙信の関東遠征に関しても人取り(人さらい)、略奪も確認されており、そのときは越後が不作であったという記録もある。つまり、どんな戦(大義名分のある)でも食糧不足に悩まされ、略奪が行われていたと言うことだと思います。

 こんな例を見ると、荷駄隊の編成とかされていて兵士への食料が行き渡っていたというのは疑問附を打たなければならない。徴集した全兵士に食料を行き渡らせることがいかに難しいことであったかが分かると思います。

E.陣夫(夫丸)の徴集

 三河国において天正一七年(1589)十一月の古文書を見れば、当時徳川家の記録に拠れば二百俵の米の生産地から駄馬(荷を運ぶ馬)と馬の口取り一人(夫丸)を出すような規定となっている。俵は生籾で五斗であるから二俵で一石、二百俵で百石である。これを戦国時代の一貫文に換算すれば、一貫文は1000文で現在の価値に換算すれば15万円ぐらいである。関東で、江戸時代に石高に各大名が直した。真田家は一貫文を3石、仙石家は一貫文を2石5斗として石高換算をした。真田家では一貫文は、米俵六俵、仙石家では米俵5俵と言うことになる。この馬の口取りが夫丸で、この夫丸に一日あたりの扶持米が玄米五合、馬に大豆一升を国人が自己負担で持たなければならない。馬を出せないときには夫丸2名を出すことになっていたので、戦国時代の夫役はかなりきついものであった。
 また銭納の農民は百石に当たり四十一石を治めた。これが通称で「四分一」と言った。これで夫丸代行者の費用に充てたのである。これらの食い扶持(一日玄米五升)も国人が持ったのである。

 戦場においてこの夫丸がころされても、その負担は村にのしかかり農民にとって戦は非常に悲惨な物であった。「落穂集」の記述を見ると

「農人百姓どもの儀も、戦国の節は、軍役の近在夫など申儀、繁々にあたり候を以、農業を勤め候いとまもなく、其の上、毎度の戦場に於いて、足軽・長柄・旗持等、其他雑人の族、戦のため討たれ相候を以、其跡交りなくては叶わずといへども、乱世には下人奉公を仕る牢人とてもまれに候を以、大方は知行所の村々へ割懸、百姓どもの中にて、手足もすこやかなる者共をば、理不尽に召出して、戦場の供につれて行たる跡に於いて、老たる親、妻子のなげきの程思いやるべし」

 この文書でも分かるように、早く小は非常に理不尽に扱われ悲惨な状況であったようである。それ故、軍役を、銭で雇った代理人に頼むことも多かったという。

F.陣夫の役割

 中世の陣夫(夫丸)の記録は非常に少ないが、意外に重要な役割を担っていた。本業が鋤鍬を持ち農耕に従事する陣夫は、戦場に於いて荷駄役に止まらず土木工事、建築工事にも携われた。戦場においての道づくり、陣地の構築、などにおいて活躍したのである。そのほか様々な職種の陣夫が必要に応じて徴集され、活用されていた。「吾妻鏡」には次のようなことも記されている。

 文治五年(1189)奥州藤原泰衡追討のおり、

「入夜、明暁可攻撃泰衡先陣之由 二品内々被仰合于老軍等 仍重忠召所相具之疋夫八十人 以用意鋤鍬令運用土石 塞件堀敢不可有人馬之煩 思慮巳通神歟」

 これは鎌倉幕府による奥州藤原泰衡討伐の時、畠山重忠が連れてきた疋夫八十人に突撃のための道を作るため、持参した鋤鍬で堀を埋めさせたという物である。

 このように戦場に於いて、工作兵とも言える「疋夫(戦国時代の夫丸)」連れてきて工事をさせていたと言うことである。