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戦国時代の貨幣価値
中世日本においての経済活動は、第一次産業であった。つまり農業を基盤として、林業や漁業、それに付随する形で商業活動が行われていた。そこで、当時の貨幣価値と現代の貨幣価値の違いを米の値段に換算してみよう。当時米一石は、二俵である。つまり、一俵60kgなので120kgと言う事になる。ただし、当時は籾のまま保管していたので、150kg位だったろう。現在売られている米は、白米が主流なので一石120kgと言う事で計算していく。当時は、一石で一貫文(1000文)と計算される事が多いのでその計算でいくと、米1kgが6文~7文と言う事になる。現代の貨幣価値で米1kgは500円前後となる。これはあくまで目安で、真田信之が上田から松代に転封になるとき貫高制から石高制に変更した。そのときの換算は、一貫文3石と計算したという。同じく小諸の仙石氏は、一貫文2.5石という計算で変更したという。これは各大名で違うので、ここではあくまで一般的な換算で計算していきたいと思います。そうすると一文の価値は現代に換算すると、60~70円ぐらいになります。これを踏まえて説明していきます。
戦争にかかるお値段
まず戦場に向かう人達は、戦闘員と非戦闘員に分れます。戦闘員にはまず武器が必要になり、戦闘員と非戦闘員には共通で食料が必要になります。まず、太刀と打刀。
太刀=500文=3~4万円程度
打刀は更に安い。
槍=一貫文=6~8万円程度
歩行武者鎧=4貫600文=30万円程度
騎馬武者=16~17貫文=110万円~120万円程度
馬=3貫文=20万円程度
鉄砲=8貫500文=50万円~60万円程度
これらの装備を合計すると、鉄砲を除けば10貫文ぐらいで50万円~60万円ぐらい。鉄砲まで入れると20貫文ぐらいで、130万円ぐらいとなる。これを踏まえて、1000人の兵卒を用意するとかかる費用は、10億円にも上ることとなる。大変な出費となる。すべて大名の負担ではないが、戦にいくには1000人程度の兵力で数億円とは大事です。そのほかにも食料、馬の餌、陣地を築く資材なども必要になるのでその費用はさらにかさんだことでしょう。そして、普段から備蓄品として用意しておかなければならないことも当然です。普段から備蓄品の調達でお金が掛かり、戦を起こせばまた莫大なお金が掛かると言うことです。
戦に向かう兵の数
永禄3(1560)年、織田信長が今川義元をと戦った桶狭間の戦いでは信長公記に「信長軍2000人が今川義元軍4万5千人を破ったと書かれている。しかし当時の今川の領国の広さから割り出した兵力は、2万5千人程度であったろうと言われている。そこで、今川が尾張まで進軍するには、今川の城が当時30程あったと言われているのでその城に兵力置いておく必要があり、実際遠征に率いる兵力は5千人程度が妥当と言うことだ。その中には陣夫も含まれているので、実際の戦闘員の数は2000~3000人であろうと言うことが近年では言われている。その頃、信長は尾張をほとんど統一していた。そして、織田軍は自国に今川軍を引きこんでの戦ですので、織田軍は遊軍だけでも1500~2000人用意できたのではないでしょうか。今川軍が3000人、織田軍が2000人とすると、どちらが勝つとも分からない。織田軍は、十分今川軍に対抗しうる勢力を確保できていたと言うことです。これを金銭で比較すれば、2億円と3億円の戦いになります。一回の戦いで、大金が掛かると言うことがおわかり頂けよう。ただ、すべての金を大名家で負担するものではなかった。次に家臣の兵役を、見てみましょう。ここで、他家ではあるが後北条家の例を見てみたい。後北条家では、5貫文で1人の兵役と決められていた。つまり、5貫文の領地を持った武士は自分ともう一人、合計2名で出陣するのだ。もちろんこの2名分の軍装と腰兵糧(3日分)は自前である。そしてその後北条家の動員数は、家臣数560人で領国は7万2千貫であったと言うことで戦闘兵力は1万人前後、非戦闘員である陣夫(百姓)を合わせれば数万人は動員できました。これで考えると、後北条氏は一つの戦で戦闘員数千人、非戦闘員を合わせれば2万人ぐらい徴集できたことになります。武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な川中島の戦いで、武田勢2万人と上杉勢1万8千人の戦いも実際の戦闘員は、5千人程度だったろうと言われている。
戦国大名の戦にかかる費用
中世では、兵糧自弁が原則であった。大名の言い分としては、そのために領地を家臣に与えていると言うことだ。しかし、戦国時代の後期ともなれば、戦争の大規模化が徐々に進みそんなことも言っていられなくなってきた。兵力の大規模化や籠城戦の長期化などが進むと、大名すら自弁が難しくなってきた。例をあげれば、永禄4(1561)年、北条氏が伊勢神宮の門前大湊(三重県伊勢市)から米を緊急に買い付けている。これは、越後の長尾景虎が越山し、小田原城に大軍で押し寄せたためである。だだし、これはあくまで緊急的処置であった。永禄7(1564)年、北条氏と房総里見氏が下総国府台でぶつかったさいには支給ではなく兵糧を兵達に貸与している。大名も兵糧の備蓄が、豊富ではなく時として購入をしている。よく「乱暴狼藉」という言葉にあるように、適地で兵糧を略奪することもあったが、勝利後のことを考えるとリスクが高すぎたのも事実である。羽柴秀吉が三木城を攻めたとき、秀吉が用意した米は36石で銭18貫文、毛利氏が用意した米は300石で150貫文である。150貫文を現在の金に換算すると、およそ1000万円という所か。また、比較的裕福な家臣から米を借りる場合もあった。また、享徳の争乱の時など、長く戦が行われ時寺社領などから半地召上と言って、寺社領の上がりの半分を兵糧として出させることなども行われていた。
略奪と乱取り
戦時に於いてなるべく穏便に事を押さえようとしていたが、略奪や人取りがしばしば行われていた。領地を持った士分は手柄を立てれば恩賞もあったが、徴兵された足軽達は何もメリットがなく、唯一略奪や人取りが自分たちを富ます唯一の手段であった。つまり、攻め入った適地の村から、鍋や釜などめぼしいものはすべて略奪していたのである。また、足弱と呼ばれる女子供をさらい自国に連れ帰り奴隷として売っていたのだ。永禄9(1566)年2月、関東へ侵攻していた上杉輝虎は、常陸国小田城(茨城県つくばし)に籠もる小田氏治を攻め、落城させている。その後城下では人身売買が行われ、20~30文で取引されたという記録もある。武田晴信においても、例外では亡かった。天文4(1546)年、信濃国佐久郡の志賀城に武田軍が攻め入ったときも、大規模な乱取りを行っている。
乱取りされた人の値段
乱取りされた人々は、親類などに身代金(身請け)を払ってもらえば解放された。その相場は、2貫文~10貫文であったと「勝山記」にはある。現代の価値にすれば10万円~70万円ぐらいであろう。身代金が払わなければ当然人々は、奴隷(下人)として売り払われたろう。当然その値段は、20~30文で現代の貨幣価値では、1000円~1500円です。ずいぶんと人の値段の、安いのがわかるでしょう。また、天正の頃になると、「人々を乱取りしてはならに」軍法で定める大名も出てくる。天正18(1590)年、徳川家康は駿府を出陣して小田原に向かうとき軍法を制定した。その中に「下知無くして男女を乱取りしてはならい」との規定がある。これを制定した家康の意図は、現代人からすれば人道的な行為ともとれるが、そうとも言い切れない節がある。雑兵達が、乱取りに夢中になり戦を真面目にしなくなることもあったのだ。豊臣秀吉が「惣無事令」を出した後は、徐々に戦時の非人道的行為は少なくなっていく。
戦国大名の収入
収入には幾つかあり
・年貢 農林水産、牧畜業への課税
・公事 朝廷の行事に必要な物資や労働への課税
・段銭、棟別銭など 建物などへの課税や軍事費の徴収
・関銭、律料 道路や湾口の利用に対する課税
・守護銭 守護が徴収する税金
・軍役、陣夫役、普請役 いずれも労働奉仕
ただしこれらは、見返りがほとんど無く、収奪や搾取と言われることもしばしばあった。
1.年貢
戦国大名が持つ一番の収入源は、年貢であった。基本的には領内に居住する百姓から、1年ごとに定められた量の収穫物(米)の一部を徴集するものである。それでは、南北朝時代の軍事費調達について見てみよう。各地の守護達は、この戦費はどのように調達していたのだろうか。当然ながら自分の任国のも、国人領主が居りそれぞれが領地を持っていた。守護はこの国人に対して、領地安堵を約束することで、緩い主従関係を結んでいたのです。これを、寄子寄親制度と呼んでいます。守護達も守護領があったが、そんなに多くのものではなかった。更にその守護領から上がる一部を、「守護出銭」という形で幕府に納めていた。南北朝が統一される前の守護達は、どうやって膨大な軍費を調達していたのだろうか。これは、南北朝の時代の戦い、応仁の乱や関東の享徳の争乱などでも同じ軍費の調達の方法がとられていた。これは、「半済」という制度である。寺社領や荘園から、戦費として軍事費として年貢として半分徴集したものである。最初は戦時の臨時処置というものであったが、内乱が収束しても「下地中分」といってなし崩し的に徴集されるようになった。つまりこれが、領地横領である。室町幕府に力がある内は許されなかったが、戦国時代ともなるとどんどん行われることとなる。こうして力を付けた国人や守護達が、戦国大名となって来るのである。
2.公事
初めは、朝廷の行事や建設に関わる工事などの人夫出しのことや物資の供出のことを言った。しかし、戦国時代ともなれば城の建設や修理など労働力の提供も公事として課せられるようになる。これは、普請役とも重なります。また水路の建設整備、川の整備(信玄堤など)なども労役として課せられていました。
3.段銭・棟別銭
段銭は、一反につき何文と年貢の他に軍事費として徴集される税である。棟別銭は、建物に対して掛けられる今で言う固定資産税にあたるもので、これも軍事費として徴収されるものです。いずれも臨時に軍事費として徴収されていたものだが、戦国時代となればこれも常態化していったようである。棟別銭は、戦乱が続き戦費がどんどん必要になればば「人」に掛けられたり、間口一間あたりいくらというふうに掛けられるようになった。この名残りが、商家の鰻の寝床のような建物の造りに現れている。つまり、間口が狭ければそれだけ棟別銭が安く済むのである。これが、庶民の知恵というものだと思います。
4.関銭・律料
これは、関所や港にかける税のことである。中世までこの権利は、寺社仏閣が持っていた。有名なところでは、比叡山延暦寺である。北陸から京に入る荷は、琵琶湖を経由しこの比叡山の麓を通っていたのである。ここから上がる通行料と港の律料は、膨大な資金源であった。大阪本願寺のあったところも、京に上る荷から上がる通行料と港の律料は膨大な額になっていた。こういうことを見ると、織田信長が延暦寺を焼き討ちし、本願寺と10年に及ぶ戦をしていた原因が分かると思います。吾妻の例をあげると、田辺善導寺がなぜ切沢へ移動させられたか。田辺に善導寺があったとき、鎌倉光明寺と共に関東二大檀林としての寺勢があったとうたわれていた。それは、田辺橋の通行料もその一役をになっていたと思われる。真田を先方として、武田がこの吾妻に攻めてきたとき善導寺を切沢に移転させたのはその関銭を奪うためではなかったのか。この永禄の頃から、寺社仏閣から関銭・律料が戦国大名へ移っていったのではないでしょうか。
5.守護銭
これは、各国人に課す税である。これは、各小領主(国人領主)が領民から上げる年貢の内から2割程度徴収したものです。これも戦の時の、臨時税だったものが常態化していったもののようです。しかし、あまり強引に徴収するとしばしば国人から反発を食らった事例もありますので、慎重に事を行う必要もあったようです。
6.軍役、陣夫役、普請役
軍役、陣夫役は戦場に向かうときの労働奉仕、普請役は城の建設、修理その他を行う労働奉仕になります。軍役はその名の通り戦支度を行う兵士(戦闘に携わる者)で、陣夫は軍役を補佐する者です。戦が大規模になると、腰兵糧では間に合わず兵糧を戦場まで運ばなくてはなりません。馬がいれば、馬の餌も必要でしょう。また、馬の口取、鎧持、槍持、生活用品の運搬係、弓持や矢の運搬係なども必要になります。大体戦闘兵力の3~4倍が、陣夫役だったようです。例をあげると、今川義元と織田信長の桶狭間の戦い。今川軍が全体で2万5千人、織田軍が2千人と言われています。しかし織田軍は自国内での戦闘なので、腰兵糧で足りてしまいます。たいして、今川軍は遠征隊です。今川義元の本隊は、5千人と言われています。遠征隊の陣容を考えると、今川軍本隊の戦闘部隊は1千5百人ぐらいになってしまいます。よく、今川の大軍を織田信長が寡兵ながら奇襲を以て破ったと言われているが、織田信長軍が尾張国内の戦いなので、2千人がすべて戦闘兵力。今川義元の本隊が5千人、内戦闘兵力1千5百人とすると織田軍の方が兵力に於いて勝っていることになります。と言うことは、兵力で勝る織田軍が寡兵の今川軍を破ったことになります。こんな事を見ると、歴史の見方も変わってくるでしょう。
次から、実例をあげて戦国大名の経済事情を考えていきたいと思います。