戦国大名の経済事情

戦国時代の貨幣価値

 中世日本においての経済活動は、第一次産業であった。つまり農業を基盤として、林業や漁業、それに付随する形で商業活動が行われていた。そこで、当時の貨幣価値と現代の貨幣価値の違いを米の値段に換算してみよう。当時米一石は、二俵である。つまり、一俵60kgなので120kgと言う事になる。ただし、当時は籾のまま保管していたので、150kg位だったろう。現在売られている米は、白米が主流なので一石120kgと言う事で計算していく。当時は、一石で一貫文(1000文)と計算される事が多いのでその計算でいくと、米1kgが6文~7文と言う事になる。現代の貨幣価値で米1kgは500円前後となる。これはあくまで目安で、真田信之が上田から松代に転封になるとき貫高制から石高制に変更した。そのときの換算は、一貫文3石と計算したという。同じく小諸の仙石氏は、一貫文2.5石という計算で変更したという。これは各大名で違うので、ここではあくまで一般的な換算で計算していきたいと思います。そうすると一文の価値は現代に換算すると、60~70円ぐらいになります。これを踏まえて説明していきます。

戦争にかかるお値段

 まず戦場に向かう人達は、戦闘員と非戦闘員に分れます。戦闘員にはまず武器が必要になり、戦闘員と非戦闘員には共通で食料が必要になります。まず、太刀と打刀。
太刀=500文=3~4万円程度
打刀は更に安い。
槍=一貫文=6~8万円程度
歩行武者鎧=4貫600文=30万円程度
騎馬武者=16~17貫文=110万円~120万円程度
馬=3貫文=20万円程度
鉄砲=8貫500文=50万円~60万円程度
これらの装備を合計すると、鉄砲を除けば10貫文ぐらいで50万円~60万円ぐらい。鉄砲まで入れると20貫文ぐらいで、130万円ぐらいとなる。これを踏まえて、1000人の兵卒を用意するとかかる費用は、10億円にも上ることとなる。大変な出費となる。すべて大名の負担ではないが、戦にいくには1000人程度の兵力で10億円とは大事です。そのほかにも食料、馬の餌、陣地を築く資材なども必要になるのでその費用はさらにかさんだことでしょう。そして、普段から備蓄品として用意しておかなければならないことも当然です。普段から備蓄品の調達でお金が掛かり、戦を起こせばまた莫大なお金が掛かると言うことです。
戦に向かう兵の数

 永禄3(1560)年、織田信長が今川義元をと戦った桶狭間の戦いでは信長公記に「信長軍2000人が今川義元軍4万5千人を破ったと書かれている。しかし当時の今川の領国の広さから割り出した兵力は、2万5千人程度であったろうと言われている。そこで、今川が尾張まで進軍するには、今川の城が当時30程あったと言われているのでその城に兵力置いておく必要があり、実際遠征に率いる兵力は5千人程度が妥当と言うことだ。その中には陣夫も含まれているので、実際の戦闘員の数は2000~3000人であろうと言うことが近年では言われている。その頃、信長は尾張をほとんど統一していた。そして、織田軍は自国に今川軍を引きこんでの戦ですので、織田軍は遊軍だけでも1500~2000人用意できたのではないでしょうか。今川軍が3000人、織田軍が2000人とすると、どちらが勝つとも分からない。織田軍は、十分今川軍に対抗しうる勢力を確保できていたと言うことです。これを金銭で比較すれば、20億円と30億円の戦いになります。一回の戦いで、大金が掛かると言うことがおわかり頂けよう。ただ、すべての金を大名家で負担するものではなかった。次に家臣の兵役を、見てみましょう。ここで、他家ではあるが後北条家の例を見てみたい。後北条家では、5貫文で1人の兵役と決められていた。つまり、5貫文の領地を持った武士は自分ともう一人、合計2名で出陣するのだ。もちろんこの2名分の軍装と腰兵糧(3日分)は自前である。そしてその後北条家の動員数は、家臣数560人で領国は7万2千貫であったと言うことで戦闘兵力は1万人前後、非戦闘員である陣夫(百姓)を合わせれば数万人は動員できました。これで考えると、後北条氏は一つの戦で戦闘員数千人、非戦闘員を合わせれば2万人ぐらい徴集できたことになります。武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な川中島の戦いで、武田勢2万人と上杉勢1万8千人の戦いも実際の戦闘員は、5千人程度だったろうと言われている。

戦国大名の戦にかかる費用

 中世では、兵糧自弁が原則であった。大名の言い分としては、そのために領地を家臣に与えていると言うことだ。しかし、戦国時代の後期ともなれば、戦争の大規模化が徐々に進みそんなことも言っていられなくなってきた。兵力の大規模化や籠城戦の長期化などが進むと、大名すら自弁が難しくなってきた。例をあげれば、永禄4(1561)年、北条氏が伊勢神宮の門前大湊(三重県伊勢市)から米を緊急に買い付けている。これは、越後の長尾景虎が越山し、小田原城に大軍で押し寄せたためである。だだし、これはあくまで緊急的処置であった。永禄7(1564)年、北条氏と房総里見氏が下総国府台でぶつかったさいには支給ではなく兵糧を兵達に貸与している。大名も兵糧の備蓄が、豊富ではなく時として購入をしている。よく「乱暴狼藉」という言葉にあるように、適地で兵糧を略奪することもあったが、勝利後のことを考えるとリスクが高すぎたのも事実である。羽柴秀吉が三木城を攻めたとき、秀吉が用意した米は36石で銭18貫文、毛利氏が用意した米は300石で150貫文である。150貫文を現在の金に換算すると、およそ1000万円という所か。また、比較的裕福な家臣から米を借りる場合もあった。また、享徳の争乱の時など、長く戦が行われ時寺社領などから半地召上と言って、寺社領の上がりの半分を兵糧として出させることなども行われていた。

略奪と乱取り

 戦時に於いてなるべく穏便に事を押さえようとしていたが、略奪や人取りがしばしば行われていた。領地を持った士分は手柄を立てれば恩賞もあったが、徴兵された足軽達は何もメリットがなく、唯一略奪や人取りが自分たちを富ます唯一の手段であった。つまり、攻め入った適地の村から、鍋や釜などめぼしいものはすべて略奪していたのである。また、足弱と呼ばれる女子供をさらい自国に連れ帰り奴隷として売っていたのだ。永禄9(1566)年2月、関東へ侵攻していた上杉輝虎は、常陸国小田城(茨城県つくばし)に籠もる小田氏治を攻め、落城させている。その後城下では人身売買が行われ、20~30文で取引されたという記録もある。武田晴信においても、例外では亡かった。天文4(1546)年、信濃国佐久郡の志賀城に武田軍が攻め入ったときも、大規模な乱取りを行っている。

乱取りされた人の値段

 乱取りされた人々は、親類などに身代金(身請け)を払ってもらえば解放された。その相場は、2貫文~10貫文であったと「勝山記」にはある。現代の価値にすれば10万円~70万円ぐらいであろう。身代金が払わなければ当然人々は、奴隷(下人)として売り払われたろう。当然その値段は、20~30文で現代の貨幣価値では、1000円~1500円です。ずいぶんと人の値段の、安いのがわかるでしょう。また、天正の頃になると、「人々を乱取りしてはならに」軍法で定める大名も出てくる。天正18(1590)年、徳川家康は駿府を出陣して小田原に向かうとき軍法を制定した。その中に「下知無くして男女を乱取りしてはならい」との規定がある。これを制定した家康の意図は、現代人からすれば人道的な行為ともとれるが、そうとも言い切れない節がある。雑兵達が、乱取りに夢中になり戦を真面目にしなくなることもあったのだ。豊臣秀吉が「惣無事令」を出した後は、徐々に戦時の非人道的行為は少なくなっていく。

戦国大名の収入

 収入には幾つかあり
・年貢 農林水産、牧畜業への課税
・公事 朝廷の行事に必要な物資や労働への課税
・段銭、棟別銭など 建物などへの課税や軍事費の徴収
・関銭、律料 道路や湾口の利用に対する課税
・守護銭 守護が徴収する税金
・軍役、陣夫役、普請役 いずれも労働奉仕
 ただしこれらは、見返りがほとんど無く、収奪や搾取と言われることもしばしばあった。

1.年貢

 戦国大名が持つ一番の収入源は、年貢であった。基本的には領内に居住する百姓から、1年ごとに定められた量の収穫物(米)の一部を徴集するものである。それでは、南北朝時代の軍事費調達について見てみよう。各地の守護達は、この戦費はどのように調達していたのだろうか。当然ながら自分の任国のも、国人領主が居りそれぞれが領地を持っていた。守護はこの国人に対して、領地安堵を約束することで、緩い主従関係を結んでいたのです。これを、寄子寄親制度と呼んでいます。守護達も守護領があったが、そんなに多くのものではなかった。更にその守護領から上がる一部を、「守護出銭」という形で幕府に納めていた。南北朝が統一される前の守護達は、どうやって膨大な軍費を調達していたのだろうか。これは、南北朝の時代の戦い、応仁の乱や関東の享徳の争乱などでも同じ軍費の調達の方法がとられていた。これは、「半済」という制度である。寺社領や荘園から、戦費として軍事費として年貢として半分徴集したものである。最初は戦時の臨時処置というものであったが、内乱が収束しても「下地中分」といってなし崩し的に徴集されるようになった。つまりこれが、領地横領である。室町幕府に力がある内は許されなかったが、戦国時代ともなるとどんどん行われることとなる。こうして力を付けた国人や守護達が、戦国大名となって来るのである。

2.公事

 初めは、朝廷の行事や建設に関わる工事などの人夫出しのことや物資の供出のことを言った。しかし、戦国時代ともなれば城の建設や修理など労働力の提供も公事として課せられるようになる。これは、普請役とも重なります。また水路の建設整備、川の整備(信玄堤など)なども労役として課せられていました。

3.段銭・棟別銭

 段銭は、一反につき何文と年貢の他に軍事費として徴集される税である。棟別銭は、建物に対して掛けられる今で言う固定資産税にあたるもので、これも軍事費として徴収されるものです。いずれも臨時に軍事費として徴収されていたものだが、戦国時代となればこれも常態化していったようである。棟別銭は、戦乱が続き戦費がどんどん必要になればば「人」に掛けられたり、間口一間あたりいくらというふうに掛けられるようになった。この名残りが、商家の鰻の寝床のような建物の造りに現れている。つまり、間口が狭ければそれだけ棟別銭が安く済むのである。これが、庶民の知恵というものだと思います。

4.関銭・律料

 これは、関所や港にかける税のことである。中世までこの権利は、寺社仏閣が持っていた。有名なところでは、比叡山延暦寺である。北陸から京に入る荷は、琵琶湖を経由しこの比叡山の麓を通っていたのである。ここから上がる通行料と港の律料は、膨大な資金源であった。大阪本願寺のあったところも、京に上る荷から上がる通行料と港の律料は膨大な額になっていた。こういうことを見ると、織田信長が延暦寺を焼き討ちし、本願寺と10年に及ぶ戦をしていた原因が分かると思います。吾妻の例をあげると、田辺善導寺がなぜ切沢へ移動させられたか。田辺に善導寺があったとき、鎌倉光明寺と共に関東二大檀林としての寺勢があったとうたわれていた。それは、田辺橋の通行料もその一役をになっていたと思われる。真田を先方として、武田がこの吾妻に攻めてきたとき善導寺を切沢に移転させたのはその関銭を奪うためではなかったのか。この永禄の頃から、寺社仏閣から関銭・律料が戦国大名へ移っていったのではないでしょうか。

5.守護銭

 これは、各国人に課す税である。これは、各小領主(国人領主)が領民から上げる年貢の内から2割程度徴収したものです。これも戦の時の、臨時税だったものが常態化していったもののようです。しかし、あまり強引に徴収するとしばしば国人から反発を食らった事例もありますので、慎重に事を行う必要もあったようです。

6.軍役、陣夫役、普請役

 軍役、陣夫役は戦場に向かうときの労働奉仕、普請役は城の建設、修理その他を行う労働奉仕になります。軍役はその名の通り戦支度を行う兵士(戦闘に携わる者)で、陣夫は軍役を補佐する者です。戦が大規模になると、腰兵糧では間に合わず兵糧を戦場まで運ばなくてはなりません。馬がいれば、馬の餌も必要でしょう。また、馬の口取、鎧持、槍持、生活用品の運搬係、弓持や矢の運搬係なども必要になります。大体戦闘兵力の3~4倍が、陣夫役だったようです。例をあげると、今川義元と織田信長の桶狭間の戦い。今川軍が全体で2万5千人、織田軍が2千人と言われています。しかし織田軍は自国内での戦闘なので、腰兵糧で足りてしまいます。たいして、今川軍は遠征隊です。今川義元の本隊は、5千人と言われています。遠征隊の陣容を考えると、今川軍本隊の戦闘部隊は1千5百人ぐらいになってしまいます。よく、今川の大軍を織田信長が寡兵ながら奇襲を以て破ったと言われているが、織田信長軍が尾張国内の戦いなので、2千人がすべて戦闘兵力。今川義元の本隊が5千人、内戦闘兵力1千5百人とすると織田軍の方が兵力に於いて勝っていることになります。と言うことは、兵力で勝る織田軍が寡兵の今川軍を破ったことになります。こんな事を見ると、歴史の見方も変わってくるでしょう。

 次から、実例をあげて戦国大名の経済事情を考えていきたいと思います。

戦国大名の事例

中国地方の覇者大内氏

1.大内氏の財源

 大内氏は平安時代後期、周防国に土着して国衛の在庁官人となったのがはじまりと言われている。鎌倉時代になると、地頭としての地位を確立した。南北朝の時代になると、北朝の足利尊氏に従い長門や北九州の一部を軍事的に掌握していった。そして、1360年頃になると室町幕府から周防、長門の守護に任命される。そして、領内の国人領主を取り込んで中国の覇者としての地位を確立した。南北朝の戦乱の中、周防国内荘園の半済として戦費にあげ長門、豊前、筑前の南朝に味方した領主から奪った所領を直轄領としてその勢力を確立していった。そのほかにも周防、長門の守護となったことも大きかった。そこには守護役という権利(軍需用途)がつき、それは恒常化していったのである。段銭、関銭なども当然の権利となって使えるようになるのである。大内氏は、こう言う税のことを「公用」と呼んでいた。我々は公の存在で、税を徴収する立場というのを強調したかったのであろう。応仁の乱以降、九州北部を制圧するとその正当性を主張するため朝廷に太宰大弐や太宰少弐任官を強く求めたり、律令制の文書様式で自領内に命令を発したりしていた。戦が併発すると、兵糧を「半済」という形で領内の寺社領からしばしば臨時税という形で徴収した。こういった臨時税などは、強制的には徴収するには無理がある。そこで、大内氏は官職(天皇から任命される役職)を称することでこれらの行為を正当化していったのである。

2.公用の徴収

 大内氏の領内では、公用を徴収するための使節(本使)が巡回していた。16世紀の初めには、その日当は一日50文か米5升と決められていた。この日当は誰が払ったのか、これは受け入れ側負担したのである。最も使節が到着してもすぐに年貢やそのほかの税の準備が出来るわけでもない。使節が到着し税が支払われるまでの滞在費は、30日を限度に「自堪忍」と言って受け入れ側の負担となっている。つまり、お代官様と越後屋の関係である。しかし、このような関係は賄賂が発生する確率が高くなる。過酷な徴収などすれば、場合によってはその地域の人々が他国に逃げて行ってしまうこともある。これは、「逃散」と言う行為である。このような行為がしばしば起これば、大名は財源確保も怪しくなってしまうので、財源確保と領民の生活の安定は諸刃の剣のような関係であった。

関東の覇者北条氏

1.小田原北条氏誕生

 ここでは新興領主の代表である、小田原北条氏について見ていきたい。初代は伊勢新九郎盛時で、室町幕府政所執事を世襲していた伊勢市の一族で、伊勢盛定の子だという。盛時は、若い頃将軍足利義尚の元政所請者という立場で駿河の今川氏の担当であったようである。また姉の北川殿が駿河の守護、今川義忠に嫁いだことで今川家と縁が生まれた。今川義忠の死後、家督をめぐる争いが今川家に起こった。北川殿の子竜王丸(今川氏親)が嫡子であったが、幼かったため今川庶家の小鹿範満を竜王丸元服までの守護とすることで決着する。これは、幕府の意向を受けた伊勢盛時仲裁によるものである。事を収めた盛時は、一度京に戻っていった。氏親元服の後、小鹿範満が今川の家督を返さないのに困った北川殿は、再び弟の伊勢新九郎盛時にたよったのである。盛時はすぐに駿河に下向して、小鹿範満を討ち竜王丸を元服させ氏親と名乗らせ、駿河の守護とした。そして氏親は、叔父である盛時に駿河興国寺城を与え、後見としたのです。その頃、関東では古河公方と関東管領で享徳の争乱が続いていた。将軍足利義政は、関東に幕府の影響を残すため弟の足利政知を関東に下らせた。しかし、鎌倉に置くのはあまりにも危ないので伊豆堀越に御所を建てて関東管領上杉氏川の公方としたのである。延徳3(1491)年、この政知が死去すると内訌が興る。正人のの庶子茶々丸が、正室の子である弟とその母を殺害したのである。伊勢盛時は、幕府の意向と今川の助けを借り茶々丸を討ち、茶々丸を放逐した。これでついに、1国を手に入れたのである。盛時は、堀越に近い韮山に本拠を構えそこに移動した。嫡男氏綱に北条氏の末裔と言われた堀江氏(鎌倉公方申継衆)から正室を迎え、北条氏を名乗らせた。1490年代には相模小田原の大森氏を排除し、ついには三浦半島の三浦氏を滅ぼし相模国を統一し関東進出の基盤を築き、家督を氏綱に譲っている。これが、小田原北条氏のはじまりであった。
 小田原北条氏は関東には何も基盤がなかったのが特徴で、そのため恒常的な財源を確保するために旧領主の体制を排除し、新たな統治体制を作り出すという方法をとった。そのため多くの文書が残されており、北条氏研究が進んでいる。

2.小田原北条氏における検地

 これを検証するには、「小田原衆所領役帳」というのが残されていて大変参考になる。各出版社からこれの研究書などが発刊されているので、一読するのも面白いと思う。伊勢宗瑞(盛時)は、永正3(1505)頃から、検地をした事例が出てくる。新たに攻め取った所領に於いて、検地を行ったのである。その検地の範囲は、始め小田原周辺から始まり所領拡大に伴い武蔵、上野にまで及んでいた。また寺社領の安堵の最も、検地を行った上で「所領安堵」を行ったのも小田原北条氏の特徴でもある。これをもとに徴収される年貢は、ほとんどは金銭で徴収された。もちろん戦の兵糧などに使う米などの食料も、備蓄しておかなければならないので金銭ばかりではなかったでしょうが。戦国時代になると、一つの土地に複数のけり保有者が存在するようにになる。これらの権利をいったん白紙にし、検地を経た上で新たに所有権を設定することで余計なトラブルを避けたのではないか。これは、全く、基盤がない小田原北条氏だから出来た政策かも知れません。

 検地と言えば、豊臣秀吉の「太閤検地」が有名であるが、各戦国大名も検地を行っていた。基本的には国人領主の自己申告制であったが、新たに攻め取った所領に関しては検地が行われていた。具体的には土地資産価値の再評価、利害関係の整理、新たに開発されていた新田や隱田と言われている隠された土地の発見なども行われている。また、水害や戦乱などで荒廃した土地などの確定などの作業も行われていた。ほとんどの場合、指出検地と呼ばれる旧来の帳簿を提出させることで終わっている。本格的な検地を行う場合は、代替わりなどした場合などに行われることもあった。それらをもとに、「文銭」と呼ばれる評価額が決定される。北条家においては、田方が一段(360歩)で500文を基準とし、畠方は同じく165文を基準としていた。しかし、この金額が年貢の額ではない。実際には作柄によっても異なり、諸役負担も免除されていたのである。これは「公事免」と言われ、貫高の十分の一と固定されていた。それではこの金額を、現在の価値に置き換えてみよう。500文は現在金銭に換算すると、大体3万円ぐらいである。米の取れ高は1段(10アール)で517kgだという(農林水産省の発表)。現在の米の卸価格は、1kgで500円程度なので517kgでは258,500円となる。この収入に対して、税は3万円だとすると10%強となりそんな過酷な年貢とは言えないのである。しかし、米も相場がある。相場変動によるリスクを、多くはらんだ制度とも言えるのではないか。家臣達の兵役についても、この貫高を基準に決められていた。しかし、この制度は大名、家臣、領民の間に常に緊張問題をもたらしていたのである。

 この検地であるが、多くは大名の代替わりの時に行われていた。目的は、隱田の摘発や開墾による田畑の増加など、荒廃した土地などの調査などである。また、検地は領民側から見て新たな負担もあるが、後背地の公認などによる負担軽減にもつながる制度でもあったとも言える。税制はこんな形で成り立っていたが、時には税率を変える場合もあった。天文19(1550)年4月に北条氏康が抜本的税制改革を行っていたことが知られている。氏綱から氏康に家督が移ったとき不作や戦が続き、領民の生活が逼迫するという事態となった。そのときは、「公事赦免令」をだして「段銭」「棟別銭」を免除した。この赦免令のとき、「諸役」も免除されたようである。赦免前の労働奉仕は、普請の場合は貫高10貫文に付き1人を年10日間、陣夫(戦争の時かり出される人)1人に付、戦争1回あたり貫高40貫文に付10日~20日間だった。これは戦争が続くと領民にとって、かなりの負担となっていた。こういったことが大名にとって、悩みの種ともなっていた。税を上げれば領民の反発を食らい、税を下げれば戦争が出来ないと言うことに大名達は常に頭を悩ませていたのです。領民の反発では、「逃散」といって聚落ごと逃げ去ってしまうこともあったのである。領民がいなくなってしまっては、年貢も段銭も徴収できず戦争も出来ないと言うことになってしまう。戦費をまかなえなければ、敵に攻められても反撃も出来なくなってします。後の徳川家康のように、「百姓は生かさず殺さず」と言ったように非常に難しい政策を行わなければならないと言うことも、必要になってきます。戦国時代というものは、何をするにも大変な時代であったものです。

3.北条氏康の減税政策

 天文19年の税制改革では、段銭は貫高の10%(50文)だったものを20%の減税で、1段40文へ、棟別銭は1間50文から30%の減税で35文へ減税している。段銭、棟別銭の税収が2~3割も減ったことになる。これは、かなり思い切った減税である。しかし、その頃小田原北条氏は所領を拡大中であった。氏綱の時武蔵江戸城まで進出し、氏康は河越城を奪いさらに領土を拡大していたのである。そして、河越夜戦で勝利してからは松山城までも奪い、ほぼ武蔵を手中に収めようとしていた。そして、戦乱が落ち着く弘治元(1555)年には、また増税に転じる政策にと変わっていった。労働奉仕は、天文19年に一斉免除となると、戦時など緊急時の制度となっていった。戦時以外の労働奉仕は、1年あたり貫高の8%の「夫銭」へと変わっていった。これは、小田原北条氏が耕作時の労働力の減少を防ぐために行った政策であるとも言えるでしょう。そして、年貢(田に課税する税)の他に畠に課税する「懸銭」と屋敷に掛ける棟別銭で小田原北条氏の課税システムが完成したのである。

尾張織田氏の財源

1.織田氏の出自

 織田信長の織田氏のもとは、越前と尾張の守護職斯波氏の被官で、越前織田剣神社の神官であったという。のち、尾張に於いて斯波氏に下で守護代となる。織田信長はその一族であるが、傍流の一家であった。信長の祖父の信定は清洲3奉行の1人で、勝幡城を本城として津島港を抑えそこから上がる収入をもとに基盤を築いた。父信秀の代に熱田神宮のある熱田港を抑え、尾張国内で揺るぎない地盤を築き上げたのである。織田信長は祖父信定、父信秀の築いた基盤を継ぎ永禄3(1560)年桶狭間の戦いに於いて東海の雄、今川義元を破り尾張においての覇権を決定ずけた。

2.織田家の財源

 通常大名、国人領主や小領主の財源は土地から上がる年貢である。戦国時代、斯波氏は尾張での影響力を失っていた。おそらくではあるが、織田の一門で領地を分けて統治していたのではないでしょうか。では、なぜ守護代家でない傍流、織田信長の家系が尾張を統一できたのか。それは信長の祖父、信定にさかのぼる。信定の時、勝幡城を本拠としていた。そこの近くに、木曽川に面した津島が存在していたことが大きい。そこに商業課税をしていて、その膨大な資金をもとにしていたのだろう。後に信長が、堺に奉行を置くことや比叡山焼討、本願寺との抗争などはその地の商業利権が絡んでいたと思われる。信長の父信秀はさらに、熱田を抑える。熱田は、熱田神宮を抱える門前町だが同時に、伊勢との海上交通の拠点でもあった。信秀が何度も美濃まで攻め寄せ、今川と三河で何度も戦った戦費は、この津島と熱田から上がる膨大な上納があったからでは無いか。織田家は財源に於いて、商業から上がる上納で有り余る戦費をまかなえたのではないか。ここに、信秀の豊富な資金が有ったのが伺える事例がある。天文10年9月、朝廷に内裏修理料として4000貫文という大金を献上している。現在の価値にして、1貫文は6~8万円と言われているので1貫文7万円とすると、実に2億8千万円という大金である。直轄領から上がる金はたいしたことは無いが津島、熱田から上がる上納は莫大な額であったと思う。

3.織田信長の土地政策

永禄6(1573)年、信長は小牧城に本拠を移した。この時出した政策が、「国中闕所」である。これは、中世の利権を全否定した政策と言われている。つまり、荘園やそのほかの利権をすべて白紙にして、信長に一元化すると言うことだ。これにより直轄領も増え、家臣や寺社の領地を再配分することにより権力が集中することが出来た。そして、大幅な収入増につながり、戦費に回せる金が増えたのである。信長権力を支える「国中闕所」政策を象徴する言葉に「一職」と言うのがある。これは家臣に、地域内の統治一切を任せるものである。闕所地を接収したり、残存勢力掃討など一切を家臣に任せることにより自身の権力も増大させていく。信長はしばしば革新者と言われるが、旧秩序を完全に破壊した上で自身の地位を確立していった。これ故、寺社などと激しくぶつかったのではないか。寺社の特権は、旧秩序の代表的なものであったのだ。ただし、この「一職」も例外があり、その中には信長の直轄領もあったり信長の直臣への所領の付与など、命ぜられたときは「一職」を与えられた家臣はその執行が義務づけられていた。それは、完全に独立した大名ではなかったのである。