加沢平次左衛門の墓

加沢記の成立

 「加沢記」は沼田真田藩第五代藩主、真田伊賀守信直(信利)の時代から、天和元(1681)年に改易される後までを費やし完成を見た。内容は、上野国吾妻・利根両郡を支配した真田家を中心に、戦国時代初期より武田家において台頭した真田幸綱(幸隆)に始まり昌幸、信幸(信之)の時代までの事象を吾妻郡の動向、利根郡の沼田氏、群馬郡白井城の白井長尾氏の記述など詳しく述べている。平次左衛門は江戸初、中期の人物なので、実際の戦闘の経験は無かったでしょう。恐らくは、戦闘を経験した古老の話や資料を集めまた、自分の足で現地を調査して書き上げたものであると思います。

加沢平次左衛門

 加沢氏の出自は、信濃国小県郡県村賀沢である。その地は真田氏と同族の海野、祢津、矢澤氏の本貫地と接している。賀沢氏はそこから発祥し、終始海野、真田氏に仕え戦国時代吾妻、利根に移ってきたと思われる。元々は、沼田真田藩の家老の祢津氏が主筋となるようだ。中之条町伊勢町、一場氏の子孫の家の「親類書之覚」という記録を見ると平次左衛門のことが記されている。これによると一場茂右衛門の母と平次左衛門が兄弟であったことが分かる。没年は、元禄7(1694)年である。この平次左衛門は、中之条町平の小林家(現矢澤家)より加沢家に夫婦養子となっている。この小林家と加沢家は、縁戚であったのでしょう。そして、一場家と小林家、加沢家は女系でつながる親戚である。加沢家は、信濃より吾妻利根に真田と共に来て吾妻、利根の郷士と関係を持ちつつ沼田真田藩士として地位を確立していったようである。加沢平次左衛門の墓は、利根郡上川田にあるが、吾妻郡中之条町平の矢澤家の墓にも真田昌幸、矢沢綱頼の供養塔と共に加沢平次左衛門の供養塔も存在している。

<参考文献:新釈加沢記 加沢記釈文 加沢記附羽尾記>

「加沢記附羽尾記」グーグルブックのリンク(下リンクをクリック)

https://play.google.com/store/search?q=%E5%8A%A0%E6%B2%A2%E8%A8%98&c=books

滋野姓海野氏御系図附けたり真田御家傳之事

 海野氏は清和天皇(第五十六代)の第五皇子貞元親皇より出た滋野氏を基にしている。正平年間貞元親皇は勅命を受けて関東に下るが、そのとき滋野の姓を戴き、信濃の国司に任命された。その位は四品、治部卿である。信濃の赴いた滋野氏は小県郡海野の勝に住む。法名を関善寺殿と言い、真言宗秘密の道場を建立している。そして海野家では毎年四月と八月の四日を「白鳥」と呼んで祭りをしている。新皇には男の子が一人有り、海野小太郎滋野朝臣幸恒と命名されて海野氏が始まる。ある時幸恒は三人のわが子を連れ、武石山中に狩りに出かけた。そして千曲川のほとりに立って、領地を三人に分けた。長男を海野小太郎幸明、二男祢津小次郎真宗、三男を望月三郎重俊といった。法名を長男から前山寺殿、長命寺殿、安元寺と呼ばれ、それぞれ真言宗の僧を招いて寺院を建てている。

 その後の幸明の系図を見ると、孫が幸盛でその弟が下屋将監幸房である。この人は吾妻郡三原という所に住んで、鎌原、西窪、羽尾の三氏を出している。太郎幸盛の方は玄孫が海野信濃守幸親とその弟海野弥四郎幸広で、二人は寿永二年に木曾左馬頭義仲の幕下には入り、平家追討の宣旨受けると備中国水島に駆けつけ、追手の大将を承るが、その年閏十月一日に戦死している。その功により嫡男は左衛門尉を襲名して海野幸氏となる。

 その子が信濃守幸継(中善寺殿)で、六人の子があり上から海野小太郎幸春、会田小次郎幸元、塔原三郎氏広、田沢四郎氏勝、狩谷原氏重、光六郎氏頼と名乗る。この六人はいずれも信州で地頭となっている。また刈谷原に三子あって、氏治、氏陸、氏截と言う。
 長男幸春からずっと下って十一代に兵庫守幸則があり、その長男が幸義、二男が岩下豊後守と言う。幸義三世の小太郎は、鎌倉公方足利持氏公から生前の名の一時をもらい持幸となる。

 持幸から三代の地に海野小太郎棟綱が現れる。この頃になると都も地方も不穏で、どこも兵乱が絶えない有り様となる。そこで棟綱は小県郡砥石と上田原に城郭を築く。棟綱には四人の子があり、長男は海野左京大夫幸義、二男を真田弾正忠幸隆、三男を矢沢右馬介綱隆(後の薩摩守頼綱)、四男を常田出羽守俊綱(武石右京進)と名乗る。棟綱は領地を譲るが、二男幸隆には真田、小日向、横沢、原の郷、荒井在家三百貫文の土地を配分し、臣下には矢野、川原付けて与えた。幸隆は武運長久と子孫繁栄の吉相が見えていた。まず真田村に甲田と言う家並みを整えている。甲田はこの郷の鎮守、白山台権現が鎮座する地であった。

 ここで白山大権現の縁起というのは、我が国の元祖にあたる伊弉諾尊をご神体として、これを白山大権現と言って敬ったのである。

 これは信州浅間山、吾妻屋山の権現と一体をなす物である。真田の白山は信州の鎮守の里宮で、上州では吾妻郡三原の郷に同じ里宮がある。その二つとも幸隆の祖先貞元親皇が建立した物と伝えられている。幸隆はこの地を領有すると、鎮守をあがめ、自分は由緒のある家名を相続したことを名乗ってから末の繁栄が約束された。

 幸隆には五人の子があり、長男は真田源五郎であり、後源太左衛門信綱となり二男は兵部介信貞(昌輝)、三男を喜兵衛尉昌幸、四男が隠岐守昌君と名乗った。幸隆は文武両道に勝れていた。当時、公方は義□公の時代で、公方の命令に従う物もなく、国々は兵乱の時代となっていたおりである。幸隆は所々の城に攻めかけ、合戦には勝利を収めないことはなかった。

 其の頃、信濃国では、数多くの地頭が支配していたが、なかでも村上義清や木曾義昌、諏訪頼重、小笠原長棟らは、かの国の頭領で、彼ら四大将は領地争いを続け、大身は小身をかすめ取り、小身は細工を労して他の領地を奪おうと、戦を挑むようなときであったので、滋野の一族はあげて村上殿の幕下に降伏し、人質を渡しておいた。

<解説>

 真田氏の祖滋野氏は、清和天皇の第五皇子貞元親皇が信濃守に任官し、任地に下って天皇より滋野の姓を賜ったと「加澤記」にあるが、おそらく遙任と言って任地には赴任せず、都に残ったまま任官したのではないのかと思います。上野国も新皇の任官することが多かった国で、やはり「遙任」上野介(国守の次官)が現地に代理として下っていたように信濃国も同じだったと思います。また、新皇が賜る氏は源氏、平氏など武家として有名な氏ですが、新皇が臣籍降下するときに賜る氏がいくつかあり「源」「平」などもそうであり、「滋野」もその一つだったのでしょう。その滋野の一族が、都より下り小県郡の開発領主として土着していったのでしょう。

 真田氏は滋野氏の出であると唱えている。松代真田藩の真田伊豆守信之は、「真田伊豆守 滋野信之」と名乗っていました。「加澤記」においては、滋野の直系海野棟綱の二男としているが、真田氏は中世から存在していたようである。真田幸隆は「弾正忠」を名乗っていたが、これは正式に名乗ったわけではなく箔を付けるために勝手に名乗っていたため正式に任官したわけではない。幸隆の通称は源太左衛門と言っていた。

 真田氏は海野の嫡流を名乗っているが実は幸隆は真田頼昌の長男として生まれて、真田源太左右衛門幸綱といったと今では定説となっている。母は、海野棟綱の娘だといわれていて、海野棟綱の母系の甥にあたる。また、幸綱の弟は祢津系の矢沢家を継ぎ矢沢源之助綱頼と名乗り、後真田家の有力な家臣となっている。兄弟とも「綱」の字が共通していて、おそらく海野棟綱の「綱」の諱をもらった物と思われる。通称には「源」の字が共通していて、これは真田家の共通する字だったのでしょう。幸綱の長男信綱(長篠の戦いで戦死)も源太左右衛門を名乗っているところから、真田家の惣領の通称だったと思われます。

 関東の動乱「結城合戦」の従軍者のなかに「実田」という者が見える。当時の文書には当て字が多かったので、「実田」は「真田」だと思われるので幸隆はこの文書にある「実田」の子孫であったのでしょう。もちろん、滋野一族であることは代わりありませんが。幸隆の弟が祢津家の一族「矢沢」を継いでいるところから、真田氏は祢津の分れではないのかという説もあります(矢澤系図)。

 真田の祖「源太左衛門幸隆」は五百貫文の領地といわれていますが、この領地は江戸時代の石高に換算しますと、信之が松代に移封されたとき一貫文3石と言われていますので3石として1500石前後の領地だったでしょう。兵力にすると五十人程度、多くても百人に満たない程度の徴兵能力だったでしょうから、滋野一族すべて合わせた数も五百人~八百人程度の勢力だったと推定されます。信濃が、一国を統一するような大勢力がなかったといっても北信の雄、村上氏とは敵対していたがはるかに村上氏の勢力が勝っていました。

真田右馬介綱吉

 永禄8(1541)年8月、武田信玄は家臣団に対して生島足島神社起請文を提出させている(参考:起請文にみる信玄武将)。この中に海野衆として、12名の連名の起請文に真田右馬助綱吉の名が見える。はて、この人はいかなる人物であろうか。広く知られている、真田幸隆(幸綱)の系図からはその名は出てこない。そもそも○○衆というのは、ある特定の地域の小領主がまとまって集団を作り、戦国大名に対して国衆と同じ発言権や軍役をこなす者である。海野氏関係の中では海野幸貞が単独で、幸忠、信守が2名連名で、そしてこの綱吉が12名連名の中に名を連ねている。これを見ると、幸貞が国人領主、幸忠、信守が準国人領主、真田右馬助綱吉を含む12名は、郷士連合というような位置づけになるのか。

 この、真田右馬助綱吉なる人物が真田弾正忠幸隆(幸綱)の兄、つまり近年の説で、幸綱の父と言われる真田右馬助頼昌の嫡男ではないかと言われ始めている。これは、東御市の深井家に伝わる文書などから「真田右馬亮綱吉」法名「嘉泉院眞相勧喜大禅定門」である。この人は、東部興善寺と高野山蓮華定院で元和9(1623)年庄村金右衛門によって供養されたと記録されている。

 深井家の過去帳によると、「真田馬之亮綱吉」の子は

 「真田馬之亮綱重」で法名「深井院寛誉宗眞居士」とある。

 この深井綱吉は真田右馬助綱吉であり、深井郷が本貫地であったのは間違いないようである。家紋は、六文銭である。

 以上の事例と、真田幸隆(幸綱)の武田家における信州先方衆以前の事象が分からない点など踏まえると。真田幸隆は、真田の嫡流ではなかった(もちろん海野の嫡流ではない)と捉える説が有力になる。そうするとこの深井(真田右馬助綱吉)綱吉という人物、真田頼昌から続く嫡流は綱吉につながる系統ではないかと感じさせるのである。

 昌幸に関しても、真田家の正統後継者ではなかったという説もある。

 ただ、真田一族の中で弾正忠幸隆(幸綱)が武田家において一番勢力があった人で、出世頭だったのはまちがいの無い事実であると思います。この事例は、今後の諸先生の研究に期待したいと思います。

 祢津宮内太輔覚直の一族に大塚掃部介幸実という人が居た。元を正せば祢津とは同族借谷源五郎の子孫で、そのとき水内郡大塚で地頭だった。幸実は村上頼平の頃から無二の村上の幕下であった。その年諏訪大社の参籠しては諏訪頼重に対面するなどの行動により、村上義清に怪しまれて、領地を没収されてしまった。

 幸実は小県郡に身を引いて浪人となる。これを見て村上義清は、この際滋野一族を退治しようとする。覚直はこれを聞いて、事態は容易ではないと村上方に先手攻撃をかける。まず葛尾を攻めることとなるが、海野幸象が惣領家にあたるのでこの事情を説明した。幸象は使いのおもむきを聞いて、「絶好の機会である。近年村上に横取りされて無念に思っていたが、どうしようもなく無力で是非もなかった。今こそ我にとっても好都合、舎弟幸隆は知謀の勇姿であるから意見を戴くこともできよう。」と、小草野孫右衛門を真田にやる。幸隆は上田まで出る。-そこに矢沢右馬介殿も来て、一族みんなで話し合った。

 天文十年二月下旬のことである。右京大夫幸義、宮内太輔覚直舎弟美濃守信直は二手に分かれ、先陣は弾正忠幸隆、本陣と前備矢沢右馬介、鞠子藤八郎、村上土佐守、後陣は小泉常田と定め、六連銭の朽葉四方の大旗に州浜の紋章、白地に日の丸を染めた大旗を真っ先に立てて進み、その勢力合わせて二千余騎が、葛尾へと押し寄せた。

一方義清のかねてからの用意の通り、高梨子信濃守を先陣に立て、石畳の紋を染めた大旗をかざして二千余騎の軍勢。義清は遙か後方に下がって進軍し、上田と榊の間に陣取ると、千曲川のほとりで備えを固めた。

 前の備えは室賀八代の率いる一党千五百余騎、後ろ備えは大室、清野、望月、覚願寺、小笠原、西条、下条4、松尾、芋川らが、また麓の備えは綿内、食品、草間、寺尾、赤沢、波浮、雨ノ宮、座光寺、八幡社主らが、後方に下がって、小丸山の方に陣を敷く。その軍勢はおよそ二千余騎、都合五千四騎が轡を並べて静まり替えている。

 先鋒幸隆は、敵陣丸山の状況について幸義に仰せになる。「村上方の備えを見れば、鶴が翼を広げたように兵を並べ、我が軍を包み込む配備を整えている。わが方の攻めをを待つように思われる。わが方が少しでもたじろぐようであれば、決って配備を崩し押し寄せるに相違ない。そのときはかねて山陰に隠しおく祢津の一勢で持て後を遮り、敵を討ち取ることができよう。我はそのときを見て、森の木陰から回り込み、義清の旗本へ攻め入り、有無勝負を決しよう。」と、軍法を定めあって備えをとき姿を消した。

 すると案の定高梨子はひるがえる旗の動きに戦況有利と見て、ホラ貝を吹き立てたので、戦陣後陣の兵はこの合図に「おう」とときの声を上げ、もみにもんで攻め立ててきた。大将幸義は辛抱強い方ではない。程なく引き返すが、村上はまだ本備えを固めて動かない。こうして幸義が誤算に気づいたときはすでに遅く、その結果高梨子と戦う羽目と成、激しく交戦してひとまず高梨子を山上に追いやるが、そこに後陣に回っていた室賀八代が、新手を繰り出してさんざん攻め込んできた。

 幸義の武運はそれまでであった。乗馬が堰溝に飛び込み、前膝を突き当てて倒れた。幸義は馬の後ろにどっと落ち、起き上がろうとしたが、多勢に重なり合って槍ぶすまを突き当てられ、脇下から乳のあたりを突き当てられた。

 幸義はこれまでとてにした槍を投げ捨て、太刀を抜き室賀の家臣芋川に挑み、真っ二つに切り裂いた。この勢いに敵はたじろぎ寄る者もない。そのうち見方の軍勢が駆けつけて敵を甥は追おうとするが、勝ちに乗じた敵兵は槍を突いて攻め立てるので、とてもかなわない。

 舎弟右馬介綱隆は、目の前で兄を討たれては末代の恥なりと高々と唱え、馬から飛び降り、海野重代小繋松の作と伝わる手槍をひっさげて立ち向かう。家臣の庄村、上原、山越、神尾も続いて、一気に攻めまくる。このとき綱隆は武勇無頼若者盛りであった。たちどころに付近の敵十三騎を打取って、気勢を上げたが、幸義はむなしく事切れていた。

 それより民家から板戸を借りてきて、春原惣右衛門、川原惣兵衛両人が遺体をかばって落ち延びた。

 一方山陰に隠れていた宮内太輔は、見方が敗れていた様子を見て幸隆に合流すると、一気に義清の本陣に押し寄せる。そこで幸義戦死の報を受けたのである。我ら生き残っては末代までの名折れと覚直は祢津相伝の橋返りの太刀を抜き払い、幸隆は、棟綱公より賜った三尺五寸もある厳物造りの太刀を真っ向からかざして、一文字に義清めがけて内かかっていく。

 これをみて、別府、小林、三宅なども続いて攻め立てる。村上方は一時危うく見えた。部下覚願寺信清は義清を討たせてはなる物かと、かけてきて立ちふさがり、綿内、大室、食品らの五百騎もこれに加えて互いに火花を散らせたが、夕暮れともなってどちらとも引き上げた。その日の戦いは終わった。幸隆は味方の軍勢を集める。その損害は一千余騎が戦死、残った大半も傷を負っていた。

 これは、海野平の合戦のことを書いていると思われます。滋野一族のもっていた海野平の地である滋野一族の領地を、村上義清はかねてからを狙っていてその機会を伺ってていたのでしょう。かねてから、北信の村上、高梨氏は領地争いを繰り返していたが、この頃和睦して村上氏の上田原侵攻の準備が整ったと思われます。しかしこの滋野一族の没落した戦は、史実では武田信虎(信玄の父)、諏訪頼重、村上義清の連合軍によって攻められて没落したようである。この記を書き残した加沢平次左衛門は沼田真田藩の藩士であり、真田氏のを誇張して書かなければならなかったでしょうから少し割り引いて考えた方がよいと思います。特に、真田幸綱(幸隆)については真田藩にとって元祖となる人物となるので、文武両道に勝れた名将という位置付けをしなければならなかったと思います。まあ、この真田幸綱(幸隆)については武田家の二十四神将の内に入っている人物なので名将には違いないとは思います。信憑性ということは、横に置いて海野氏没落の事が分かる記述だと私は思います。海野方の諸将の中には矢澤馬之亮、春原兄弟、祢津氏などは諏訪神社途の関係から許され地元に残り、海野棟綱や真田幸綱は上野国守護上杉憲政のもとに逃れます。上野守護で関東管領上杉氏は、信濃の一部にも領地がありましたのでそんなことが関係していたのでしょう。

真田氏の系譜諸研究の結果

真田氏の出自の見解は、「寛永諸家系図伝」がある。これは、松代真田藩の正式見解である。清和天皇の子、貞秀親王が滋野初代としている。貞秀親王の子、幸恒が初めて海野小太郎を称した事で海野の系譜が始まるとしている。幸経の弟、次男直家が禰津、三男重俊が望月を称した事で、滋野三家が始まる。

真田家については、幸隆(正しくは幸綱)が海野棟綱の孫、幸義の子としている。幸隆が真田荘に居住した事により海野から真田に改正したとする。しかしこの主張は、新井白石によって否定されている。まず、貞秀親王は存在しない事に疑問を持ち、白石が独自の論じている。延暦年間(782年~806年)、滋野東人の子尾張守家訳が滋野宿禰姓を賜り、弘仁14(823)年に家訳、貞主父子が滋野朝臣姓を賜ったと指摘したのである。貞主には二人の女子がおり、一人は本康親王を産み、もう一人は文徳天皇に嫁ぎ惟彦親王を産む。この惟彦親王は、清和天皇の兄に当たる。この両親王外戚としての繁栄を評価して、貞主を海野氏の祖と結論づけている。

また、前述の指摘を踏まえ真田家は「寛政重修諸家譜」の時清和天皇の第五皇子、貞保親王の孫善淵王が滋野姓を賜りこの人を祖としたのです。

しかし、最近の研究では貞観10(868)年から10年間信濃介なっていた滋野朝臣恒蔭、同12(870)年から4年間信濃守であった滋野朝臣善根に注目して、信濃滋野氏についての関係性を指摘している。そして、滋野惣領家は海野氏ではなく望月牧を管理していた望月氏ではなかったかと指摘している。(栗岩英治氏説)

「大日本史氏族誌」に於いて、伊蘇志臣東人の孫家訳とその子貞主が、桓武天皇の時滋野宿禰姓を賜り、嵯峨天皇の時滋野朝臣姓を賜っていて、海野氏はこの滋野朝臣貞主に始まるとしている。そして、滋野氏の中で信濃の官人となった人物として、滋野朝臣恒蔭、滋野朝臣善根、さらに天歴4(950)年頃、望月の牧官に任じられた滋野幸俊の存在も指摘している。(藤沢直枝氏説)

以後時系列にて、諸研究の論説を紹介したいと思います。

滋野氏の出自

 飯島、黒坂両氏は、それまでの研究を整理した。滋野氏の出自は、奈良時代大学頭兼博士であった樽原東人であるという。東人は天平勝宝元年(749)駿河守就任時、産出した黄金を献上し称えられ伊蘇志臣の姓を賜った。東人の孫家訳が延暦17(798)年、滋野宿禰を賜り、さらに弘仁年間(810から823年)滋野朝臣を賜った。そもそも姓というのは天皇家から授かるもので、現代の姓は俗に言う字名のことである。たとえば、鎌倉から室町の初期にかけての吾妻の有名人、「吾妻太郎行盛」は正式に名乗るとまず字名と通り名を名乗る。次に姓と諱を名乗るのである。つまり正式名は、「吾妻太郎藤原行盛」である。ちなみに真田信之は、「真田伊豆守滋野信之」である。話を戻します。滋野家訳の子に貞主、貞雄がいた。特に貞主は学者、政治家として名をはせその娘綱子は仁明天皇の妃となり、本康親王を産み奥子は文徳天皇の妃となり、惟彦親王を産んだ。滋野氏は、天皇の縁戚となっていた。そして、滋野氏と信濃の関係は信濃守善根の存在を確認できる。滋野氏は清和天皇の子、貞秀親王の子の善淵王となっているがこれは信濃守善根の音の転化ではないかと指摘している。

 黒坂氏は更に、善根を貞主の次男とし信濃介恒蔭を孫と推定した。当時は守は遙任と言って現地には行かず介、次官が現地に赴くことがよくあった。そして、滋野恒蔭は都の貴種であったので、現地豪族が娘をあてがって子供をなしその子を嫡子として出自をその貴種に求めるようなことが行われていた。群馬県吾妻郡東吾妻町にも、そのような伝説がある。日本武尊が東征のおり、この地の訪れた。そのとき原町上野の上野長者というものが娘を日本武尊にあてがい、子をなしたと伝わる物がある。地方豪族は、その子を嫡子とすることでその地方の支配を確立しようとしていた。この滋野三家も、恒蔭にその血筋を求めていたのかも知れない。ただし、滋野氏が清和天皇から出ているという説は、根拠を見いだせない。おそらく、信州の海野氏が滋野恒蔭が在任中にその出自の根拠を求めたのでしょう。これは、信州望月牧の支配を確立するための手段だったようにも思います。

真田氏の出自

 「信州滋野三家系図」を見てみよう。これは真田家が幕府に提出した「寛政重修諸家譜」と清和天皇-貞秀親王-善淵王-海野初代と同じであるが、鎌倉初期の海野の当主長氏の四男に、真田七郎幸春という人物が見られる。其の祖父幸氏は、「吾妻鏡」に上州三原荘の地頭という記述が見られる。この系譜を見ると真田氏は、鎌倉時代初期に海野氏から別れた庶流と言うことが言える。次に応永7(1400)年大塔合戦(大塔物語)に「実田」という記述がある。この時は、禰津遠光の配下として出陣しているようだ。その後永享12(1440)年結城合戦の時、信濃守護小笠原政康、持長、村上頼清に率いられて真田源太、源五、源六という記述がある。これらを状況証拠と捉えると、真田氏は鎌倉の始めに滋野三家から別れた家であると言うことも言えると思います。また一説には、宝亀5(774)年に大伴連忍勝という人物が小県郡にいたという説もあり、真田氏の祖はこの末裔ではないかとも言われている。大伴氏は淳和天皇が名を大伴と言ったため、名前を変え伴氏となった。平安時代この判一族は、軍事を司る役人であった。そのため平安時代には、各地の官牧を管理する役人として赴任していた。そのため、真田氏は伴一族のではないかという説もある。それでは、戦国時代の海野系図を見てみましょう。白鳥神社に残る海野系図では真田幸隆は海野棟綱の娘の子、というふうに書かれている。もう一つは、矢澤家の菩提寺良泉寺に残る矢澤系図では、矢沢綱頼は真田右馬佐頼昌の三男としている。この事を見ると真田幸隆(幸綱)は頼昌嫡男と言うことになる。つまり、海野棟綱の娘婿のこと言うことである。しかし、白鳥神社に残る海野衆起請文の中に、真田右馬佐綱吉という人物が存在する。これを総合的に状況証拠と捉えると、頼昌と棟綱の娘の子で嫡男が綱吉、次男が幸綱(幸隆)、三男が綱頼(以下続く)となるわけである。そして、三人とも海野棟綱の綱の字を偏諱として名乗っているのである。真田幸綱(幸隆)は、海野棟綱の外孫であると考えてもよいようである。ただし、この頼昌の記述は良泉寺矢澤家系図のみである。この家系図の成立は、元禄9(1696)年であるのでこれが正解かと問われても疑問が残る。ただ、これが現在では通説となっている。ただ、幸綱(幸隆)と海野棟綱の娘が婚姻していたという説もある。ここでは、幸綱は海野棟綱の外孫と言うことにしておきます。

幸隆公武略を以て討ち給う事

 幸隆公が常々心にかかるは、一度敵を討って幸義の供養をいたしたいと心に思い、武田に属し本領に復帰したけれど村上義清をそのままにしておくのは無念と思っていた。幸隆に二名の老臣有り、小草野若狭守と春原惣左衛門の兄弟は武勇知謀万人より勝れていた。幸隆兄弟を召し出し話した。「其の方先祖は武蔵国住人宣下天皇の末孫丹治姓で熊谷、青木、勅使河原、安保氏の丹党(武蔵七党)で、熊谷より別れた久下、熊谷、春原として兄弟三家に分かれた。世の中の浮き沈みにより、関東より当国に至り我らが先祖に属し、代々の家臣である。おのおの存知の通り、義清を討って左京太夫(幸義)殿のご供養を報じんと度々合戦に及ぶが、大名なれば中々討つ事ができず年月を重ねる事非常に無念である。兄弟の命を右京太夫殿の志に捧げてもらえまいかと問うと、我ら不肖と言えども代々の家臣である。その申し出にいかに逆らうべきもない。と申し上れば幸隆公大いに喜び、ならば手立てを持って討つべしと申された。春原兄弟はその後奉公も真面目にやらず、法度に背き、軍法を犯し適地に内通し、近国まで聞こえる悪逆を行った。幸隆公これに大変ご立腹なさり、一族ことごとく知行を没収し、追放した。

 兄弟まず関東へ浪人して続いて信州川中島の村上義清に仕えた。義清は最初、信用しなかったのであるが大敵真田の様子を聞かんが為、そのまま仕えさせていた。また、惣左衛門は小男であったが国中に聞こえた勇士であったが故そのまま抱えていた。兄弟粉骨を尽くして尽くし、昼夜の勤めも諸人より勝れ村上でも一二の忠功の人にて同心、与力も預かるほど信用されるほどとなった。なほ以て忠勤に励んでいたところ、村上に密かに呼ばれて、「其の方の先主真田を討って安堵したいと思う。兄弟のはかりごとを以て討ちたいので、相談したい。」と言った。ついに、願うところ思ったが、胸騒ぎがして返答に困った。惣左衛門が言う「それがしは砥石山の生まれにて、旧友も多い。真田の内情については書状などで知っている。密かに白山権現に参拝して、戸石城の内通の謀をしてきましょう。」と明日を遅しと、ただ一人小県へと出かけていった。かねてからのたくらみごとなれば、夜中に丸山土佐、川原、矢野方に内通すれば幸隆大いに喜び密かに対面した。惣左衛門は夜中に立ち帰る。さて、惣左衛門葛尾に帰り申した。「白山に参拝し、城中への通路を調べようとしばし社中にとどまっていると、権現様の引き合わせかもと同輩川原惣兵衛というものが参詣してきた。川原と申す者は武州七党の内の一族で、共に先祖は信州に来た旧友であった。拝殿にて偶然行き会った。互いに懐かしく、打ち解けてお互い語り合ったのであるが惣兵衛が言うには、「其の方も代々の老臣であるが、少しの事で簡単に追放された。我らと手危うきものである。丸山、矢野、深井、宮下などいずれも今日限りの奉公である。明日にも浪人して、村上殿を頼みたい。其の方に万事頼みたい。かねてより義清公も「各各幕下に加わるのであれば、望みの所領を与えよう」と常々申していたので惣兵衛喜んで、二心はなく、我らも幸隆に恨みがあるので兵をお出し下され。「夜中に幸隆を城中におびき寄せ、安々と討ち取ります。」と弁舌爽やかに述べれば義清大いに喜び、日日を選んで春原が娘を人質に取り小草野若狭守、春原惣左衛門を案内者にして勇兵を選りすぐり七百騎を以て真田の城に攻め寄せた。

 あらかじめ段取りの通り、戸石の木戸を開いて夜中に忍び入りにの丸にさしかかるとき、春原法螺貝を吹くとその先の門を閉じて弓、鉄砲にて物陰より攻撃を受け七百騎の兵の内五百騎が討ち取られた。残る百五十騎余りは、巳の刻逃れ落ちた。義清、春原兄弟を信用した事を後悔したが、もはや遅い事であった。春原兄弟の人質を牛裂きにしたが、五百騎の精鋭を討たれた義清はさすがに抗しがたく熊坂峠を経て、越後の景虎を頼り落ちて言った。これより残る領地を景虎に相渡し、春日山に居住する事となった。幸隆公の武略、春原兄弟の働き武田晴信公に聞こえ大いに喜ばれた。幸隆公に夫具不例の感状があり、春原兄弟も召し出されそれぞれ百貫文ずつあてがわれ、武田家直参となった。幸義公の御跡は、海野太郎と申して海野郷に小身ではあるが残っていた。永禄年中、義清越後に浪人して景虎を頼っていれば、毎年信州へ出陣していたが折しも海野これといった働きもなかったのを、晴信公お聞きにになり御誅伐した。しかし高家の跡なればと、晴信公のご実子御聖道という盲目におわすを海野殿になされ、春原が兄小草野若狭守を彼の陣代とした。

<解説>
天文二十(1551)年五月二十六日「戸石の城を真田が乗っ取る。」高白斎日記に知るされている。この「加沢記」の記述は、村上勢を戸石城に誘い込み多くの兵を討ち取ったという事です。と言う事は、戸石城を幸綱(幸隆)が手に入れた後という事になるので、天文二十年より後という事だ。それ以前の天文十五(1546)年三月の記録には「晴信公信州戸石に於いて村上義清と合戦御勝利。首百九十三人、栗原左衛門手に於いて首二十二討ち捕り晴信公に感状を賜わる。」と記されている。この時には武田晴信は、村上勢と戦い勝利を収めているようだ。


 天文十九(1550)年には、
「八月二十四日、砥石の城(村上義清の属城)見積りに今井藤左ヱ門、安田式部少輔同心申す。辰刻に出て酉の刻に帰る。
八月二十五日、砥石の城見積りに又、大井上野助(信常)、横田備中守(高松)、原美濃守(虎胤)指し越さる。長窪の陣所の上、辰巳の方に黒雲の中に赤雲立つ。西の雲先なびく気にて。八月二十七日辰刻、長窪を御立ち。未刻、海野口(筑摩川西岸)向の原へ御着陣。鹿一陣の中をとおる。
八月二十八日、砥万の城際、屋降地(不詳)号に御陣すえられる。
八月二十九日午刻、屋形様敵城の際へ御見物なされ、御出て矢入れ始まる。酉刻、西の方に赤黄の雲、五尺ばかり立ちて紅ひの如くにして消える。
九月大朔日申刻、清野(村上一族)出仕。
九月三日、砥万の城ぎわへ御陣寄せられる。
九月九日、酉刻より砥石の城を攻める。敵味方の陣所へ霧ふりかかる。未の刻晴れる。
九月十九日、?須田新左衛門誓句。
九月二十三日寅刻、清野方より注進。高梨(政頼)・坂木(坂木城の村上義清)和談半途に於いて対面、咋日寺尾の城へ取かけらるるの間、真田(弾正宰隆)方は助けとして越られ候。勝沼衆虎口を一騎合同心始終存じ候。
九月二十八日、雨宮(現更植市・村上の幕下)と坂木は退出仕るの由注進。子刻(二十九日)真田弾正帰陣。
九月晦日、御馬納めらる可く之御談合。
十月一日、卯刻、御馬入れらる。御跡衆(殿軍)終日戦う。酉刻敵敗北。其夜望月の古地御陣所。終夜雨。
十月二日、峠(大門峠)を越えて諏訪へ御馬納めらる。酉刻、湯川(現茅野市)へ御陣所。
十月三日、上原に於いて万事を聞し召し合わせられ、方友へ御状つかわさる。
十月六日、上原を御立。
十月七日、府中へ御馬納められる。」


天文十九年八月二十四日~十月七日に記されていることが、俗に言う「戸石崩れ」と呼ばれる出来事のことか。十月一日に撤退し、殿軍に多大な損害が出た。「高白斎日記」には具体的な戦死者の名前は記されていないが、「勝山記(妙法寺記)」ではこの戦いに於いて横田高松が戦死したとある。戸石城の村上方の城兵は五百名、その内半数は天文十六(1547)年に晴信により攻められた志賀城の残党であったという。ここの城将は、「甲陽軍監」では、小県の国衆である楽巌寺雅方と布下仁兵衛の二名が見える。「村上家伝」には幸綱の弟、矢沢綱頼も村上方として戸石城に籠もっていたという。真田幸綱が、戸石城を手に入れるのはその翌年の、天文二十年である。志賀城の残党が砥石城の半数で士気は高かったというので、翌天文二十(1551)年の時は小県の国衆楽巌寺雅方、布下仁兵衛と矢沢綱頼を調略したものでしょう。この「加沢記」の記述は、この天文二十(1551)年~「四月九日、葛尾(村上の本城)自落の由申の刻注進。屋代、塩崎出仕。」とある天文二十二(1553)年の間のことと言うことになる。ただし、「高白斎日記」「勝山記」共にこの「加沢記」に記述されているものの関連する項目は出てこない。「加沢記」は、真田家のために書かれた物であるので、この記述を鵜呑みには出来ないが幸綱が戸石城にあって、村上義清追い落としの一翼を担っていたのはまちがいの無いことだろう。春原兄弟の内兄の小草野若狭守は海野の寄騎、弟の春原惣左衛門は幸綱の寄騎となったと言うことか。ただし、生島足島神社に奉納されている起請文の中には両名の名は無い。そこで考えられるのは、武田の直臣ではなく小草野若狭守海野信親(武田竜芳)の幕下、春原惣左衛門は真田幸綱の幕下と言うことかも知れません。

真田弾正忠幸隆公并祢津美濃守信直法体の事

 天文二十年辛亥二月十二日、甲府において武田信濃守源晴信公御法体、法性院大僧正磯山信玄と御改名されたことにより、幸隆公もその節御相伴のため法体となって一徳斎良心と御名を改め入道となられた。嫡子源五郎信綱は信玄公近臣になっていたが、源太左衛門尉と名乗りを変えた。御舎弟矢澤右馬介は薩摩守と官途を賜り、勝頼公より諱の字を賜り頼綱と名乗った。祢津美濃守は村上合戦の時幸隆公と一緒に上州へ落ち延びたが、甲府へも一所召し出されたが、法体となり松鷂軒入道と名乗った。甲州没落の後徳川殿に召し出されて甲州、駿州に三百五十貫の領地を拝領したという。

<解説>

 武田晴信公が天文二十年甲府で出家とあるが、実際は永禄二年(1559)の事で甲府の長善寺住職を導師として、「徳栄軒信玄」と名乗ったようである。「加沢記」では、「法性院大僧正磯山信玄」と記してあるが、名前も年代も違っている。弟矢澤右馬介頼綱の頼は勝頼の頼を偏諱されたものだと書かれている。始めの名前が、綱頼と名乗っていたことから初名海野棟綱の偏諱、武田家が勝頼に移ったことにより、勝頼の頼を偏諱として賜って綱と頼を逆さまにして頼綱としたものでしょう。

 「高白斎記」に拠れば祢津元直は、天文十一年(1543)に 武田に臣従したとある。同年十二月十五日には元直の娘、祢津御寮人(祢津元直二男、正直の妹)が信玄の側室となる。信玄と祢津御寮人との間には、武田信清(米沢上杉藩家臣として存続)が生まれている。元直嫡男勝直は早世。二男正直(松鷂軒常安)が祢津の家督を継ぐ。この正直の正室は、武田信虎の娘である。三男信忠は真田幸綱の妹と婚姻を結んだが病弱のため、潜龍斎と号して真田昌幸に召し出され岩櫃城下、巌下山潜龍院(修験寺)を開く。以後、修験寺として江戸時代を通じて存続している。祢津勝直の嫡男月直は天正三年(1575)五月二十一日、長篠の戦いに於いて戦死している。松鷂軒常安は、真田家と共に武田家のもと上州攻略に力を発揮している。松鷂軒常安は天正十年(1582)には信濃国飯山城代に着いていたため難を逃れ、生き残っている。

 武田家滅亡後の天正十一年((1583)松鷂軒常安は甥、祢津昌綱(潜龍斎の子)と行動を別にして、本家をこの昌綱(信光)につがせ自身は徳川家康に臣従した。この時姓を「禰津」から「根津」に改姓している。祢津昌綱(信光)は天正壬午の乱で、真田昌幸同様徳川、北条、上杉と主君を転々と変えた。同時期真田昌幸と祢津昌綱(信光)は北条方と徳川に分かれ、正行を小諸において二度にわたり昌幸軍を撃退している。この功により、北条氏政より本領安堵と甲斐手塚一千貫文、同清野で二千七百貫文の領地を与えられた。さらに、海野領より四千貫文の加増を約束されている。しかし、天正壬午の乱の収束を以て北条、徳川の和睦がなり、甲斐の領地を失う。それを持って北条から徳川へ、この時寝返った。真田昌幸が徳川に付くと、祢津昌綱は昌幸を嫌い上杉景勝に従う。最終的には、景勝の説得により天正11年(1583)九月五日真田昌幸に同心して三千五百石の家老として仕える。また支藩の沼田藩でも、千五百石の家老を務めた。吾妻では、祢津志摩守幸直と伝わる。江戸中後期の松代藩家老河原綱德が記した「本藩名士小伝」には幸直は元直二男と書かれている。しかし元直二男は、宮内大輔政直で祢津常安のことである。これは記述が合わないので、昌綱(信光)というのが信憑性が高い。「上田戦記」の上田城本丸で昌幸と将棋を指していた祢津長右衛門信秀は昌綱(信光)の子息で真田家次席家老小山田茂誠の娘を娶っていた。この家系は、松代真田藩の家老や目付を代々していた。

 一方祢津常安の上州豊岡では、もう一人の甥である根津信政が継ぎ1602年には五千石加増され一万石の大名として「上州豊岡藩」となっている。その後信政嫡男政次が後を継ぐが、子がなく二男吉直があとを継ぐが、1626年吉直も若く死去して、無嗣断絶となる。以後連なる一族は幕臣となり、「鷹匠元締」となった。

 ここで調べて分かったことは、祢津家本家、真田家家老祢津家共に「祢津潜龍斎(信忠)」祢津の嫡流元直の三男系が残ったという事みたいです。