「吾妻鏡」は、鎌倉幕府について語るのに一級の資料で、これにより鎌倉時代の事象について知る事が出来ます。此の資料の内容から、地方史の伝承・伝説について推測し、関連付けられれば新たな発見もあると思います。ここでは、群馬県関連の記述と、秀郷流吾妻氏との関連する下河辺氏の動向なども紹介していきたいと思います。

<参考文献>
群馬県史 新刊吾妻鏡(国立図書館コレクション) 現代語訳吾妻鏡(吉川弘文館)など

治承四(1181)年五月 下河辺行平「源頼政の挙兵」の噂を武衛(頼朝)に報告する

下河辺庄司行平が武衛(源頼朝)に使者を送り、入道三品(源頼政)が挙兵の準備をしている事を報告したという。

<解説>

 秀郷流の藤氏一族である下河辺行平が、早くから頼朝と繋がっていたのがわかる一文だ。この一族である、吾妻郡吾妻に本拠を置く吾妻氏の動向も気になる所でもある。これは推測にしか成らないが、恐らく吾妻氏も同じ上野の那波しも早くから頼朝と繋がっていたのでは無いか。これにより、吾妻氏は鎌倉幕府内に於いて小名とはいへ「御家人」という地位を確保できたと考えられる。

治承四(1180)年十二月 頼朝の新邸への引っ越しの供の中に、「山名義範」の名が見える。

治承四(1180)年十二月十二日庚寅(かのえとら)

 晴れて風は静かであった。亥の刻(午後九時から十一時)に前武衛(頼朝)が新造の御邸へ移られる儀式がたった。(大庭)景義を担当として去る十月に工事始めがあり、大倉郷に作られたのである。定刻に(頼朝は)水干を着て、馬(石和の栗毛)にお乗りになった。和田小太郎義盛が最前を行き、加々美次郎長清が(頼朝の)馬の左に付き、毛呂冠者季光が同じく右に付いた。北条殿(時政)、同(北条)四郎主(義時)、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同(千葉)太郎胤正、同(東)六郎太夫胤頼、(安達)藤九郎盛長、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同(佐々木)三郎盛綱以下が付き従った。畠山次郎重忠が最末に従った。寝殿にお入りになってから、御供の者たちは侍所(一八間)に参上し、二列に向かい合って座った。義盛はその中央にいて、そろった者たちを記録したという。出仕した者は三百十一人いたという。また御家人たちも同じく居館を構えた。これより以降、東国の人々は皆頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推載することになった。鎌倉は元々辺鄙(へんぴ)なので、魚師や農民以外、居を定めようという者は少なかった。そのため今この時にあたって、巷(ちまた)の道をまっすぐにし、村里に名前をつけた。それだけではなくでなく家屋が立ち並び、門扉(もんぴ)が軒をめぐらすようになったという。今日園城寺が平家のために焼失した。金堂以下の堂舎や塔廟(とうびょう)、それに大小乗の経巻や顕密(けんみつ)の聖教(せいきょう)がほとんど灰となってしまった。

<解説>
 これは、頼朝が鎌倉に館を構えたときの下りである。館に移動するときの随伴御家人の中に、足利義兼と共に山名義範の名が見える。新田一族である里見義成と山名義範は、新田義重より足利義兼に近かったと言われている。足利と共に早くから頼朝に従っていた。それに対して新田義重は、兵を館に集めすぐに頼朝のもとに参じなかった事から敵対を疑われた。このため足利義兼、里見義成や山名義範と信頼の度合いに差が付いてしまった。このため鎌倉時代を通じて足利、里見、山名各氏と差が生じてしまった。足利二万騎と新田五百騎と大きな差となった。これが原因で、建武の新政の足利対新田の構図になったのではないでしょうか。この記述に出てくる山名義範は、現在の群馬県高崎市の上野の国八幡荘山名郷を本拠としていた一族で、室町時代の応仁の乱で登場する山名宗全(持豊)の先祖に当たる。この頃からの足利家との関係で、室町幕府の四職の家柄となり得たのではないでしょうか。この「吾妻鏡」においても、新田氏よりも山名氏の記述は多く見られる。また、私が歴史を学んだとき「いいくにつくろう鎌倉幕府」と鎌倉幕府成立年を1192年と覚えたが、現在ではこの時をもって鎌倉幕府成立と捉える説もある。

治承四(1180)年十二月 頼朝の新邸が完成し、御弓始めが行われその射手に「下河辺庄司行平」の名が見える。

治承四(1180)年十二月 戊戌(つちのえいぬ)

(頼朝の)新造の御邸において、三浦介義澄が椀飯を献じた。その後御弓始があった。この事は事前に定められなかったものの、(橘)公長の二人の子息が特に巧みであるという話をお聞きになったので、その腕前をお試しになった。酒宴の時にその場で仰ったという。

射手

一番

下河辺庄司行平   愛甲三郎秀隆

二番

橘太公忠      橘次公成

三番

和田太郎義盛    工藤小次郎行光

今日御行始の儀式が行われた。(安達)藤九郎盛長の甘縄にある宅にお入りになった。盛長がお馬一頭を献上し、佐々木三郎盛綱が馬を引いたという。

<解説>

 頼朝の新居の落成祝いの出来事を期した記事です。吉事があったときには、必ず御弓始が行われた。この射手の一番に、下河辺庄司行平が載っているので取り上げました。頼朝に馬を献じた、安達藤九郎盛長は一時期上野の守護でもありました。橘公長は弓馬と知謀に優れ、元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。粟田口で当時源為義の家人であった斎藤実盛・片切景重と喧嘩になった際、頼朝の祖父・源為義が朝廷に訴えず斎藤・片切を諫めた事から、公長は源家への恩を忘れず、縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向って頼朝に従ったという。この記事は多分、その直後の記事であると思います。一説として関東の源氏は平氏に従い、関東の平氏は頼朝に従ったという事があります。すべてに当てはまる者ではありませんが、頼朝に従った多くの関東平氏がいたのも事実です。

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