この記述は、伝説・伝承も踏まえて解説しているため、真実ではないものも含まれています。
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吾妻氏の出自
○前吾妻氏(藤原吾妻氏-秀郷流)
藤原秀郷3代の孫に、兼光という人があり。長男を頼行、次男を兼助(淵名氏)、三男を幸則(太田氏)といった。頼行の子が兼行(淵名氏)である。淵名庄は上野国那波郡にあった大庄で、平安時代末期、前太平記によりと、淵名兼行、兼助、武行の三人は、源義家に従い、陸奥において戦功を立てたという。この兼行の子孫が淵名氏の嫡流であって、その子孫は下野及び東上野に大いに栄え、下野に足利氏、佐野氏、赤堀氏、上野に太田氏、山上氏、園田氏、大胡氏、林氏、佐井氏、大屋氏、吉海氏、などを出している。
二男系の兼助は本朝武家系図によると、吾妻権守、上野介を称しており、その子兼成も吾妻権守を名乗っていることから、この兼助という人が吾妻の地に移り住んで吾妻氏を名乗ったと思われる。権守とは国府の目代(国司の代理者)であるので、上野国府の在庁官人でもあって、上野介であったから事実上の国司の役を代行したものと思われる(上野野国は親王の任国であった)。兼成も同じく権守であることよりして、その盛威の程が伺われる。この時代に、初めて岩櫃城に在城したと伝えられているが、はなはだ疑わしい。たぶん居住した場所は、原町の館の地と思われる。
この兼成の二、三代目の子孫が吾妻太郎助亮という人があり、助亮の子が四郎助光という。この人が前吾妻氏最後の人である。またこの助光という人は、源頼朝が三原野に狩りに来たとき随行して案内したと言い伝えられている。「加沢記」の説によると、この前吾妻氏は承久三年(1221)六月の承久の乱に際し北条義時の幕下として宇治川の合戦で溺死してから急に衰退に向かったと述べている。また一説によれば、その晩年岩櫃山には、妖魔という化生が現れ、その祟りによって死んだともいう。その死については、謎に包まれており、その没年も墓も詳らかでない。
藤原吾妻氏-秀郷流系図
下河辺氏
下河辺氏は藤原秀郷の末裔で、下野国小山氏の一門であった。下河辺行義は源頼政の支援により、下河辺荘を成立させた。下河辺荘は非常に大荘で、後の時代古河公方存続に重要な土地となった。そのときに小山氏から独立した勢力になったようである。
行義の子、行平の時頼政が敗死した後は源頼朝にしたがいその勢力を残した。行平は下河辺荘の荘司であり、領土安堵をもらう。その領域は、渡良瀬川下流域の旧利根川に沿って広がる広大な領土であった。その範囲は、茨城県古河市、五霞町、埼玉県加須市にまたがり、平坦で低地が多かった。
行平以降は勢力を弱め、北条家(鎌倉執権)の御内としてその配下に下ったのではないかと思う。吾妻の地に来た下河辺行家は、行平の子で北条家の御内として同族である吾妻氏を継承したのか(実際継承したのは行家の子行重)?
「岩櫃山に妖孽が巣くっていて」というのは案外北条氏の敵対勢力が吾妻の地で力を付け始めていたのかも知れません。そこで、行平の子行家は北条氏の命にしたがい、御内(被官)として吾妻の地に鎮圧に来たとも考えられる。
この事は、行重の子吾妻太郎行盛の墓碑に御内と書かれていることでも、想像するに難しいことではないでしょう。
実際に記録がないのでなんとも言えないが、行平以降下河辺の姓が見えないのは北条氏に吾妻の地を与えられて御内として吾妻氏を名乗ったのが真実かも知れません。
下河辺系図
吾妻氏について
○騎馬戦と馬
弓馬の道といわれるが、古代より中世にかけて戦闘の主体は、騎馬戦であった。当時の武士団が馬を確保するのは、勝ち負けを決するに重要な要素だったろうと思われます。
藤原氏が利根川、吾妻川をを上りこの吾妻の地を求めた最大の理由は、優秀な馬の供給源を確保するためである。当時吾妻郡には中之条町に勅旨牧(朝廷経営の牧場)である市城牧があり、そこを横領し確保するためであろう。
○権守
本朝武家系図によると兼助、兼成が吾妻権守の官職にあったことは吾妻氏の強大を物語るものである。当時の地方豪族は、国府の政庁にも勤め、在庁官人の地位を保持していくことは、自己の地位を確保するためのは大事なことだったろう。兼助は吾妻権守の地位と上野介の官位を併せ持っていた。
上野の国は親王任国であったから、国司は京都に居たので上野介は次官を意味するので政治の実権はその手中にあったと思われます。権守も同じく次官の地位を意味するのでこの吾妻氏は、その地位は優れた馬と、開拓した農場からの収入によってますます強大と成ったと思われます。
○譜代の臣と小名
吾妻鏡を見ると吾妻氏は源氏の譜代の臣であり、小名であることが書かれています。吾妻氏は、遠い昔より清和源氏とはより深い関係で結ばれていたのでしょう。
また当時の武士は、館にあって平時は数多くの農民を、その館の内外で農耕に従事させた。領主は近世の武士と違い半農半武士であった。
郡の土地の開拓も、このころ、これらの農民をつっかってさかんに行われた。開拓された土地は「別符の名」と称して、国府の土地台帳に登録され特別地域に指定され、館の主人は別名の名主として、これらの地域から年貢を徴収し国府の税所に支払う役柄となっていた。これらの名地は別符といわれ、中でも数百町歩にも及ぶ別名も存在した。これらの領主を「大名」と呼び、ごく狭い別名の名主は、「小名」と呼ばれた。吾妻氏は、もちろん大名には及ばないが、小名の上の方だったと思われます。
(なほ、この大名小名は江戸時代のそれとは違います。)
前吾妻氏の事跡(吾妻鏡より抽出)
(1)吾妻八郎新馬を伊勢神宮に奉納
養和二年(1182)正月二十八日、大神宮に奉納する神馬、砂金を頼朝に納めた。その中に「一疋栗毛駮 吾妻八郎進」とあります。
(2)吾妻氏、木曾義仲の子、義高の伴類制圧のために信濃に向かう。
寿永三年(1184)に木曾義仲、範頼、義経の追撃を受けて戦死。その子義高は元歴元年(1184)四月二十六日入間川において殺された。その五月一日、義高の伴類が、甲州、信州の潜挙し、義高の脱出を聞いて挙兵するという風説が流れた。そこで、頼朝は、足利義兼、小笠原長清らを御家人とともに甲州へ、小山、宇都宮、比企、川越、豊島、足立、吾妻、小林各氏を信州の使わしこれらの凶徒の制圧に向かわせたとあります。この中の吾妻氏が吾妻太郎だと思われます。
(3)吾妻太郎助亮、頼朝の三原狩りに案内役を務める
建久四年(1193)四月一日源頼朝は三原野に狩りした。吾妻太郎はこの時頼朝を案内して鷹川に至ったと言い伝えられている。鷹川は現在の嬬恋村の袋倉にあり、頼朝の狩屋をもうけたところと伝えられている。
(4)吾妻太郎、頼朝の奈良東大寺供養に隋兵として従う。
治承四年(1180)平重衡の南都焼き討ちによって消失した奈良東大寺の落慶供養は、建久六年(1195)三月十二日後鳥羽上皇の御幸を迎えて盛大に執り行われた。そしてこの再建に多大な援助を惜しまなかった頼朝は数万の大軍を従えて威風堂々、政子をも伴って上京、この供養の式に参列した。そのときの随兵の行列三騎並びの八十列の十四列目に渋河太郎、吾妻太郎、那波弥五郎とありそのときの随兵の中に吾妻太郎も、参列していたことがわかる。
(5)吾妻太郎助亮の戦死
助亮は一説によると元久(1202-5)の頃より稲荷城より岩櫃城に移ったともいわれ、その後尾張国大井の渡しの合戦において戦死したとも伝わる。
ただし、この頃に岩櫃城があったとは疑わしい。
吾妻四郎助光
助光は太郎助亮の子(あるいは弟という説あり)であり、通称を四郎といった。まれに見る弓の名手で、立派な武将であったと吾妻鏡にある。
(1)助光、弓始めの選に預る。
元久元年(1204)二月十日、この日三代将軍源実朝臨場のもと弓はじめが行われた。この名誉のの選に預った六名に射手の中に吾妻四郎助光の名が見られる。
一番 和田平太胤長(相模) 榛谷四郎重朝(武蔵)
二番 諏訪大夫威隆(信濃) 海野小太郎行氏(上野吾妻)
三番 望月三郎重隆(信濃) 吾妻四郎助光(上野吾妻)
実朝は、この前年建仁三年(1203)将軍に就任したもので、将軍に着任して初めての弓始めであった。
(2)吾妻四郎助光鎌倉幕府出仕差し止めと成る
承元元年(1207)八月十七日、鎌倉鶴岡八幡宮において放生会の儀式が実朝臨場のもと厳粛に行われた。このとき四郎助光は無断で儀式に参列しなかった。そこで実朝は、行光(太田行光)を使わして、その事由を調べさした。行光は、助光に向かって、
「お前は、さしたる大名でもないのに、先祖代々源氏に使えてきた勇士であるという理由で、ここに参会させようとしたのである。これこそお前の名誉であり、面目と思わないのか。このように突然無断の欠席とはどのような理由があるのか。」と鋭い詰問をした。
助光は如何ともし難く、平謝りに謝って
「実は用意の鎧をねづみに食われて新調したのであるがまにあわなっかった」
旨をおそるおそる申し述べると、
行光は、
「晴れの儀式であるというので鎧を新調するというのは、武士として誠に倹約の趣旨に背くものである。随兵というのは、身を飾るというものではない。ただ将軍の警護に専念すべきものである。前将軍頼朝公の時譜代の武士は必ず、この大番役を努べき事を定められた。武士たるものが何で鎧一領を持っていないといえようか。もしいざ鎌倉というときににいたって先祖代々相伝の兵具を差し置いて、軽々しい新物を用いるとは何事であるか。これでは家代々の鎧等がないと同じではないか。特に本日は毎年恒例の神事であるぞ。その都度新調するということは武士の倹約に背くものである。」
きついおしかりを受けて、助光はその罰として将軍家へ出仕差し止めの謹慎を仰せつかってしまった。
このことからわかることは、助光はさしたる大名ではないこと。そして小名とまではいかないまでも中流の豪族であること。また鎧を新調できるような経済的に余裕のある生活ができる武士であって、さらに譜代のかつ累家の勇士であったことがわかる。
(3)助光、青鷺を射止め再出仕を許される。
承元元年(1207)十二月三日。雪の飛び散る憂鬱な日であった。この日鎌倉の御所においては酒宴がもようされていた。そのとき一羽の青鷺が進物所から寝殿に入ってきた。将軍は非常に不愉快に思って、この怪鳥を射止めるように命じた。ところがちょうどしかるべき射手がいなかった。相州はもしかすると出仕差し止めを受けている助光が御所の周辺におるかもしれないと申し上げて使いを遣わすと、折しも御所の周辺を警護していた。助光は早速参上し階隠野陰より狙ってこの青鷺めがけた矢を放った。矢は鳥に当たらないように見えたが、鷺はたちまち騒いで庭上に落ちてきた。助光が走り寄って、手に取ってみると左目より少し血が出ているくらいであった。しかし死に至るようなきづではなかった。助光があらかじめ計画して射たとおり、はたして生きながらこれを射止めることができたのである。
青年将軍実朝はこの光景を見て、いつもと変わらぬ助光の抜群の妙技に非常に感心し、もとのごとくそば近くに使えるようその謹慎を解かれ、その上剣まで下賜に成られた。
こことから、助光が衆に優れた弓の名手であったこと、さらに助光が将軍家のそば近く使えていた武士であったことがわかる。
(4)助光戦死
承久三年(1221)承久の乱が勃発すると助光は北条義時の命令によって幕府軍に加わり京に進撃し、宇治川の戦において激流に呑まれ、あえない戦死を遂げた。
また一説には、その晩年岩櫃城にようげつという化生があらわれ、その祟りによって死んだともいう。
その死についての実証はなく、また前吾妻氏については、墓地等など謎に包まれていて検証するものが後生に書かれた「吾妻鏡」「加沢記」等の文献に頼るしかなく、伝説の域を脱し得ない。
後吾妻氏
北条泰時執権の頃嘉禎年中(1235~38)岩櫃山に妖魔という化け物が現れ人々を殺傷した。一説によると吾妻助光もこの化生に取り殺されたといわれている。吾妻氏の一族である下総の下河辺行家は、鎌倉幕府の命を受けこの化け物を討伐することとなり家来とともに吾妻の地に来たりてこの妖魔を退治して、吾妻庄司行家と名乗った。そして、その嫡男行重が助光唯一の生き残りのである遺児の娘をめとった。その二人の間にできたのが、吾妻の地で伝説と成った人物吾妻太郎行盛である。この人物こそ吾妻の地で神とあがめられているその人である。
吾妻行家(下河辺行家)
後吾妻氏系図
前吾妻氏が滅んだ後、同じ秀郷流の一族である下総の下河辺行家が吾妻の地に来たり手吾妻氏を名乗った。
行家は、下総下河辺庄に土着し武士化した下河辺氏の下河辺行平の子であると思われる。
ようげつの退治
北条泰時執権の頃嘉禎年中(1235-38)岩櫃山にようげつという化生が現れて人々を殺傷した。一説に吾妻助光もこの化生に取り殺されたといわれている。下河辺庄司行家は鎌倉幕府の命を受けてこの化生を討伐することと成った。
岩櫃に来てみると全山がこの化生のすみかと成っており、夜な夜な障化をなし、その上得体の知れない悪病が流行し、城主助光はもちろん、その家族まで災いに遭い、男子はことごとく絶え、ようやく女子一人残すのみで前の吾妻氏はここに断絶した。諸人は恐怖のどん底にあえぎ、取り殺されるものも数限りなくいた。
この化生というのはあるときは、一つ目の人間と成って突然山中に現れ人々の肝をつぶしたり、あるいは山姥と成って十二の沢というところの岩穴に入るのを見たという人もある。またあるときはまむしと成って現れ、中野というところ麓でのたうちもわっていたといわれ、またあるときは三尺あまりの大猫と成って山中を歩き回るので、村人はこれは弧老野干しの仕業であろうとささやきあった。 行は知勇兼ね備えた立派な武将で、多くの家来に弓矢を持たせ、これを討伐しようとしたが、化生はあるいは隠れ、あるいは草木、岩石に身を変えてしまうので、どうしても討つことができない。行家は行沢観音に一心に祈願を込めたところ、早速観音の仏力によって感応を受けた。そこで大勢の家来は弓矢を帯して岩櫃山を山狩りしたところ、ついに山より化生を追い出すことができた。家来たちはそれ逃がすなと、追い打ちをかけいきをもつかせず追い打ちをかけ、弱ったところを行家が駆け寄り、この化生の首をかききった。ついに長年領民を苦しめたようげつも行家の武勇によって、これを射止める事がで来たのである。
行家はここにおいて晴れて岩櫃城に入城し吾妻郡をたまっわったので、下河辺氏に代わり吾妻氏を名乗り、その後吾妻庄司行家と名乗るように成ったのである。
ここにいう化生とは、たぶん山賊か何かのたぐいで岩櫃山を根城に吾妻地域で略奪などの悪さをしていたのではないかと思われる。また、行家が岩櫃城に入城したとあるが、年代的にまだ岩櫃城は築城されていなかったろうから、稲荷城のことだと思われます。
吾妻行重
行家の嫡男を行重といった。四郎助光の唯一の生き残りである遺児の娘をめとり、始め部屋住みとして平川戸稲荷城に居住し、嫡子吾妻太郎行盛はこの地において出生したとも言い伝えられる。後家督を相続し吾妻庄司(庄司副という説ありとなり岩櫃城に移った。父に劣らぬ無双の弓取りであったという。ちょうどこの頃は文永、弘安の頃で、我が国はあげて元寇の国難に遭い苦しんでいた時代である。
弟に朝村というものがあった。分家して吾妻の東の備えの城である岩井堂城に居住した。その長子を長広といい、このものは後足利尊氏に属し上洛したという。
吾妻太郎行盛
行盛の出生
行盛の出生は鎌倉時代末期北条貞時執権の時代、正応年間(1288-92)原町稲荷城下の館の内に呱々の声を上げがと伝えれれる。館の内とは今の原町吾妻警察署付近一帯の地である。
行盛の婚姻
長じて松井田城主(あるいは安中城主)斉藤悄基の姉(あるいは娘とも)を娶り二男子をあげた。長男は千王丸(後の岩櫃城主斉藤太郎憲行)といい、次男は小次郎憲重といって尻高を聞知して尻高城主となった。
行盛と鎌倉幕府
鎌倉時代上野の守護は得宗であった。得宗とは北条時頼-時宗-貞時-高時の嫡流をいい、家督としての強力な権力を確立していた。この家督のものを義時の法名にちなんで得宗といった。鎌倉末期この得宗の権力が増大し、諸国の内半分の国の守護を得宗が独占していた。従って得宗の家臣も大いに幅をきかせていた。
この得宗の家臣を御内の方、御内の人といった。行盛が御内であったことはその墓碑に明記されている。故に行盛は北条執権の御内として、おそらく吾妻庄の地頭をしていたのだろう。父は吾妻庄司副とあるので、行盛は庄司と地頭を兼務していたと思われる。
国人の一揆
この頃関東には国人と呼ばれる群小武士がおった。中先代の乱で見るように、諏訪・滋野両氏が共同作戦しても足利氏という大豪族を倒すわけにはいかなかった。地頭、御家人が独立を保つ方法として、これら群小武士はお互い同族あるいは地域的に一揆と称して集団組織を形成していた。
当時は鎌倉時代以降の惣領制が崩壊しきれず、その余命を保っていたので、主に同族のものが集団を作った。有名なものに北武蔵、上野の源氏の流れをくむ「白旗一揆」東毛を地盤として藤原秀郷の流れをくむ「藤家一揆」南武蔵の平家の流れをくむ「平一揆」等は有名である。
また南北朝時代は、国人、守護領国等、領地の再編成が行われた時代であり、この後述べる吾妻・里見両氏の争いはこのような情勢から、起こったといえよう。
吾妻太郎行盛の事跡
鎌倉時代から南北朝時代には、耕地面積は著しく増大した。この原因として、
1.土地の開墾が行われた
2.二毛作が行われるようになった
3.畑作農業が進んだ
4.観応の騒乱以降大きな内乱がなかった
5.農民の団結自立が進んだ
などが考えられる
また、王朝時代の官牧(牧場)が地方豪族などの横領により私牧化し、さらに各地に私立の牧場が設けられたのもこの時代だろう。また各地に市などが設けられ商業活動がっさかんになり、地方が豊になり各地の地方豪族も、経済的に豊かになったろう。また、工業も盛んになり鋳物師、鍛冶師などが育ったのもこの時代です。
吾妻の地も城下町平川戸に市が立ち、厚田地区にはカジヤ村ができ城主(吾妻氏)の需要を満たしていたと思われる。
また、行盛は社寺を深く信仰し、岩光山釈蔵院長福寺は弘安年中慶誘法印開祖の古い寺であるが、文保元年(1317)祐弁法印の時代岩井村に再建し菩提寺とした。また、徳治二年(1307)原町竜臥山に方三間の不動尊を建立し鬼門鎮護の守りとし、運慶の作と称する不動明王をまつり、寺領を寄進し、円覚法印を別当として瀧峨山金剛院と称した。
原町大宮岩鼓神社も郡中きっての古社であるが、この社に武蔵大宮の氷川神社を勧進して、吾妻氏の守護神としたのを始め、川戸の一宮、どう浅間神社、矢倉の鳥頭神社等を再建している。
里見氏の台頭
新田氏の一族里見氏(碓氷郡里見郷)の里見氏義が吾妻の川戸内出城にあったという。また、吾妻行重が吾妻庄司副であったところからして、この里見氏義が吾妻庄司であったかもしれない。あるいは、里見氏も中之条の「市城牧(牧場)」などを狙ってこの時代の少し前里見郷、倉渕を抜けこの吾妻の地に進出してきたのかもしれない。
行盛は、このような里見氏との所領争いもしくは、失地回復の戦いというか、このあたりに貞和五年の戦闘の謎が隠されているのかもしれません。
里見氏系図
貞和五年の戦・・・行盛の戦死
貞和五年(1349)五月下旬、新田氏の一族で碓氷の豪族里見義時は嫡子五郎左衛門尉とともに急に多数の兵を持って岩櫃の城に攻撃を仕掛けてきた。城主吾妻太郎行盛(吾妻氏第五代の城主)は不意を突かれ家老である秋間泰則・荒尾行貞・どう清長いかに命を下し、城下立石河原に迎え撃って激戦を展開したが武運つたなく敗戦となった。行盛は今はこれまでと立石の巨巌の上に駆け上り自刃しようとしたところ。秋間、荒尾兄弟及び二男小次郎が駆け寄って殉死しようとした。行盛はこれを押さえて「我が子千王丸(当時十二歳)は何も知らず榛名山房にあって修行の最中である。もし一族ことごとくここに滅び去ってしまっては、千王丸はどうなるであろうか。それこそ敵の思うつぼである。無念であろうがこの場を逃れ千王丸を助け後日里見を討って俺の恨みを晴らしてくれ」とはらはらと無念の涙を抑えながらの言葉に秋間以下自決を思いとどまり、榛名山を目指して落ちていった。
行盛はここにおいて立石の上に駆け上り切腹し、自らおのれの首をかききって投げたと言い伝えられている。時に貞和五年(1349、南朝の正平四年)五月二十五日の深夜、子の刻であった(子の刻とは現在の午前零時から午前二時をいう)ところが不思議なことに行盛の首は三百メートルもある吾妻川の対岸川戸の岸辺の枯れ木の枝に食いついて、夜な夜な異様な光を放つのであった。これは行盛の霊魂がこの世にとどまって、里見を呪っているのであると川戸村の農民たちは恐れおののいて、密かに一つの小さな祠をそこに建て、その霊を慰めた。この社が、首の宮である(現川戸神社)。胴体は後に矢倉の鳥頭神社に祀ったといわれる。
当時吾妻氏の菩提所は金井・岩井の境岩井村八幡にあった長福寺である。住職はこれを厚く葬って、一寸八分(約5.5cm)の主本尊を一緒に遺体を埋葬したという。そして自害より十八日後の六月十二日墓碑を建立した。
法名:長福院殿前吾妻太郎太守岩光行盛大居士
位牌には、
当院開基行盛殿上野刺史岩櫃城主長福円久大居士本不生位吾妻太郎藤原行盛貞和第五己丑五月二十五日とある。
吾妻太郎行盛墓碑
真ん中が吾妻太郎の墓と伝わる。
首の宮川戸神社
吾妻太郎行盛の首を祀っているという川戸神社。別名「首の宮」
・斉藤憲行(郡内旧記説)
吾妻太郎行盛が貞和五年立石河原に敗死した当時、長子千王丸は十二歳で榛名山房にあって学問にあるいは武術を山中にあって修行中、その悲報に接した。家老秋間泰則・荒尾行貞・どう清長等は命からがら榛名山にたどり着き、千王丸をいただいて日夜その復習の機を伺っていた。
千王丸は唯一頼りとする松井田城主斉藤梢其の養子となり、それから三年目の観応二年(1351)五月中旬岩櫃城奪回戦を企てたが、計画の齟齬により集荷敵せず失敗に帰したのである。
斉藤梢其は上野守護上杉憲顕のもとに千王丸を伴い、その援助を懇願した。斉藤氏に対して板鼻合戦以来格別の好意を持っていたので早速その請を入れ、七年後の延文二年(1357)四月二十五日、上杉氏麾下である長尾・禰津・小幡・和田・白倉・長野の西上州の諸豪をして三千五百騎の援兵をおくらしめ岩櫃城を急襲した。
これで晴れて岩櫃城に入城し、上杉憲顕の憲、吾妻太郎行盛(父)の行をもらい斉藤太郎憲行と名乗るのである。その後、斉藤梢其の子斉藤左近憲基(後の安中左近)の女を娶った。弟小次郎を尻高におらしめ、功臣荒尾氏に村上郷を与え岩井堂城にあって東の要とし、秋間氏は家老として川戸内出城にあって、斉藤氏の輔弼の大任に当たることとなった。
憲行はまづ岩櫃城に改修を加え、また父の祀ってある川戸首の宮神社を改修、再建し、本地生群地蔵を祀り、両脇に功臣秋間、荒尾の宮を末社として祀って長く岩櫃城鎮護の社とし毎年五月二十五日、九月九日を祭日と定めた。
これを持って戦国時代の斉藤氏・憲行-行禅-行弘-行連-基国続いて、基国の時代に武田氏(真田氏)によって滅ぼされたという。
・斉藤憲行(加沢記・斉藤氏系図説)
この説をとるならば吾妻氏系の斉藤氏は、滅んでしまったのか。理解に苦しむところである。このことについては、この吾妻の室町期の資料が、あまりにもないことから曖昧であるようである。
また一説によると藤原秀郷四代の孫助宗が初めて斉藤氏を称した。その後十五代を経て斉藤基国は南北朝時代斉藤越前の守と称して越前国に住していた。斉藤氏は平安時代末期以来越前国に住した土豪で、同国大野郡を中心に勢力を持っていた武士である。
基国の嫡子が憲行である。通称を斉藤太郎といった。前述した斉藤憲行と同姓同名の異人である。岩櫃に入城したのは応永十二年(1405)であるところから、前述した斉藤憲行が貞和五年(1349)十二歳とすると、この年は六十八歳に当たる年代になるので、全く別の人物であるようである。
越前の斉藤氏が碓氷(松井田)の斉藤氏と同じ秀郷流であること。また碓氷の斉藤氏がこの時代を最後に歴史から姿を消すことから、この両斉藤氏が何らかの関係があるのかもしれない。
○源氏吾妻氏
源氏吾妻氏系図
源氏吾妻氏は、室町時代初期に出された「義経記」にその名が出てくる。鎌田次郎正清の子正近が源氏を興さんとして源氏を数える条に、
「指を折って国々の源氏を数へける。紀伊国は新宮の十郎義盛・・・・・尾張国は蒲冠者、駿河国には阿野前司、伊豆の国には兵衛佐頼朝、常陸国には、志太先生よしのり、佐竹の別当正よし、上野国には利根・吾妻、これは国を隔てて遠ければ力及ばず」
とこの吾妻郡に藤原吾妻氏とは別に、清和源氏の嫡流が居ったことを示している。源頼信の末孫に吾妻五郎親基というものが居り、この人が「義経記」に出てくる人なのかも知れない。
この村上氏は、信濃の守護代で武田信玄に追われて上杉謙信を頼り、川中島の合戦の原因になった村上義清はその末孫である。
吾妻親基の子孫は後、九州種子島に下り種子島の島主となったと言われているがその後の事象は分からない。またこの吾妻親基が「岩櫃城」に拠ったかも分かりません。
○藤原吾妻氏(二階堂流)
二階堂氏系図
この説は前項で述べた藤原の北家、房前を元としている秀郷流ではなく、武知麻呂を祖とする藤原南家を発祥としている二階堂流工藤氏を吾妻氏のもととしている説であります。
武知麻呂-乙麿・・・・・為憲(二階堂氏)
この説は、鎌足の子不比等より三代乙麿七代の孫為憲が東国に下って二階堂氏の祖となった。武蔵国(現在の東京と埼玉)を領して、為憲より五代の孫維光の次男維元が、吾妻太田庄をたまわり、太田庄に居住し吾妻太郎と代々名乗り繁栄したが、維元より四代の孫助光の時、承久三年(1221)六月の承久の乱に北条義時の幕下として加わり宇治川の合戦で、溺死してから吾妻氏は急に衰えたとしている。(伝加澤記)
吾妻氏についての伝承は、秀郷流吾妻氏を中心に語られていますが、上に記した「源氏吾妻氏」「二階堂流吾妻氏」と二つの系流の吾妻氏が存在したと文献から確認できる。しかしその詳細は詳らかでは無い。ただし、吾妻というのは字名であるので、この地方に勢力があれば吾妻を名乗る可能性は高いので、可能性を否定することは出来ない。