ここでの記述は、この地方に残る伝説や伝承も含まれています。

室町中期から戦国時代(真田氏侵攻以前)

 斉藤氏系図

 斉藤憲行

 吾妻太郎行盛が貞和五年立石河原に敗死してから三年の後、千王丸は叔父である安中の斉藤梢其(すえもと)の養子となり叔父の助けを借りて岩櫃城奪回のを企てたが、計画の齟齬(そご)により失敗に帰した。
 その七年後の延文二年(一三五七)関東管領山内上杉憲顕(のりあき)の援助により、長尾、禰津、小幡、和田、白倉、長野各氏の援軍あわせて三千五百騎で岩櫃城を急襲した。
 里見父子は急をつかれ城を落ちたが捕らえられ、処刑された。千王丸は、晴れて八年の歳月を費やし父の敵を討つことができたのです。

 かくして千王丸は上杉憲顕の一字「憲」をいただき、父の行盛(ゆきもり)の「行」をもらい斉藤太郎憲行と名乗った。
 その後斉藤梢其の女を娶り、弟小次郎を尻高郷に、功臣荒尾氏を東の要岩井堂の要害に、秋間氏を家老とし川戸内出城を与えたのだった。まず、敵の居た岩櫃城は不吉であるとし大いに改修し、父の霊を祀る川戸神社首の宮を改修、再建して本地将軍地蔵を祀り、両脇に功臣秋間、荒尾の宮を末社として祀り長く岩櫃城鎮護の社とし、毎年五月二十五日、九月九日を祭日と定めた。
 さらに里見氏を監視するため里見城を見下す中室田の兵陵湯殿山に延文年中湯殿三山の社を建立し、修験者を置いて道場とした。また、城内に耳成不動尊を祀って城の鎮護とするなど、誠に信心深い領主であったと伝わっている。

斉藤氏の郡内旧記と加沢記の違いについて

 室町時代の岩櫃城は憲行の子孫が代々城主となり、憲行-行禅-行弘-行基-行連-基国となり基国の時に武田氏に滅ぼされている。これは、郡内旧記によるところだが加沢記、斉藤氏系図では、斉藤憲広が最後の領主と成っている。今となっては、どちらともいえないが加沢記を参考にすることにします。現在の所では、こちらの方が信憑性があると思われるので、主に加沢記、斉藤氏系図を基にして説明したいと思います。この事については、確たる記述のある文書が見つかっていません。

 斉藤憲行

 藤原秀郷四代の孫助宗が始めて斉藤氏を称したとある。その後十五代を経て斉藤基国は南北朝時代斉藤越前守と称し越前国に住していた。基国の嫡子が憲行である。この憲行が越前国より吾妻の地に移り、岩櫃城に入城したのであろうか。ここら辺については、つじつまが合わず理解に苦しむところである。

 吾妻三家

 斉藤憲行は応永十二年(一四○五)岩櫃城に入城して、六人の子を各地に分地し、吾妻郡東部を領有した。長男憲実は岩櫃城に、二男幸憲(中山次郎)は中山城に、三男威実(荒巻三郎)は荒巻館に、四男基政は山田に、五男憲基(大野次郎)は原町稲荷城に、六男行連は岩下城に各分地し、吾妻氏の子孫を川戸内出城に押し込め、その盛威は盛んであったという。
 
ところが永享の乱の前後、中之条町を中心に勢力を持っていた塩谷氏はだんだん勢力を伸ばし、中之条伊勢町の和利の宮城にあって地頭となり、斉藤氏の一族である大野氏は原町稲荷城にあって主家をしのぐ勢力を蓄え、家老秋間氏は太田城(川戸内出城)二の曲輪にあって川南一体を領有してそれぞれが地頭となって互いに争うようになった。
 
文明の初年、新田郡金山の城主由良国重が隆起して、上野国が乱れると、この乱に乗じて三家は三つどもえと成って相争い、大野氏はついに秋間氏を討って川南一体を領有するようになる。かくして斉藤氏の旧領は、吾妻川を挟んで南北にその臣塩谷氏と大野氏の勢力争いの地と吾妻地方は成るのである。そして斉藤氏の嫡男憲実も大野氏の配下と成って行動するのもやむなき事態と成っていました。

 文明四年(一四七三)北郷(現在の中之条町高山村の一帯)の雄塩谷氏に内向が起こった。時の和利の宮の領主塩谷掃部介秀治で、折田「仙蔵の城」には甥の源二郎元清をおいたが、一人娘をこの元清に嫁した。ところが程なく夫婦仲は不仲となり、娘は腹に元清の子を宿したまま和利の宮城に帰ってきたのであった。秀治は娘のわががまに怒り城に入れなかった。娘はやむなく、秀治の宿敵である大野氏を頼ったのであった。大野氏は思わぬ人質が向こうから飛び込んできたので、大いに喜びマロウド殿(賓客の意)と称し、もてなし座敷を新築しその子の生まれるのを待ち望んでいた。ところがこれがなんとしたことか生まれたのが男子であったので、大野氏はその名前を市場二郎とし自分の二男としたのである。
 かくして塩谷氏は、一度に娘と孫を人質に取られてしまったので、力なくついに無条件降伏をしたのでした。しかし大野氏は秀治を生かしておけばいかなることになるかわからないと言うことで、塩谷氏の一族の蟻川、池田、尻高の各氏、家臣である割田、佐藤、中沢等各氏と内通し、ついに秀治を殺してしまった。
 ここにおいてついに大野義衡は一郡を平定し、新田の由良氏に服属して一門は大変栄え、岩櫃城に入城したのです。

 大野氏三代

 義衡は大野二郎憲基の孫に当たり下野守義衡と称した(これは叙官したのではなく戦国時代の各地方の地頭は、自分に箔をつけるため寄親に許可を得て勝手にに名乗っていた)。法名を善福寺殿といっていることから山田善福寺の中興の旦那であったろうと推測される。 義衡の子息には四人おり、長男治部大夫憲賢といい二代目の城主となった人である。二男を大戸二郎憲仲といい大戸に分地し、三男を基勝と言って尻高郷をあたえ、尻高の城を与え沼田方面の備えとした。この人が尻高左馬介と称する人物である、四男を基秀といい、通称二宮五郎と称した。憲賢の後をその長男越前守憲直が継ぎ一郡を思いのままにして、斉藤、蜂須賀の両氏が家老格で諸事を取り仕切っていた。

 大野氏の滅亡と斉藤憲次

 太田庄植栗城主はこの頃吾妻太郎の一族である植栗河内守元吉であった。太田証の領地を領してすこぶる盛んであった。

 あるとき、些細なことから大野氏と争うようになった。大野は重心岩下城主斉藤憲次に植栗氏の討伐を命じた。憲次は元吉と親しい間柄であったので、追討の命を受けると居城岩下城に帰り、家臣富澤基幸と相談し、植栗の館を攻めると見せかけて、実は元吉と共謀し、反転し急に大野氏を岩櫃城に包囲した。

 大野は虚を突かれ、なすすべもなく城郭に火を放ち自刃し、一門ことごとくその中に飛び込んで滅亡した。

 憲次は、大野氏を滅ぼすと岩下城に帰り、城に引きこもった。そして郡内の地侍である鎌原、湯本、西窪、横谷、浦野
氏以下一門並びに外様の氏へ使者を出し、主君大野氏を滅ぼした事情を詳細に通報し、以後憲次の幕下に属せんことを要請した。

 元々憲次は知謀に優れた武将であったので、一郡の諸氏はみなその配下と成ることを誓った。そこで憲次は威風堂々と岩櫃城に入城し、大野氏に変わって一郡を統治し、平井の上杉管領家に属した。

 大永年間(一五二一-二七)岩下城は空城になったので、憲次は家臣富澤基光(基幸の子「加沢記」には基幸)の与え、当地方を知行させることとした。富澤氏は後に唐沢家と分家し二家に分かれるが、この両家は斉藤氏の家老格として重きをなした家柄である。

 憲次は斉藤越前守と称し、孫三郎とも言った。弟則定は折田に住し佐藤将監と称した。男子一人、女子一人有り。嫡男は憲広といい斉藤太郎、越前守とも称し、後入道して一岩斎といった。一女は大戸の城主大戸真楽斎に嫁した。

吾妻に残る文書による斎藤氏6代

 

吾妻軍記による戦国吾妻の斉藤氏六代(原町誌参照)

 伝説によると、室町時代岩櫃城には斉藤氏が関東管領上杉氏に属し、原町の地のみならず吾妻郡の大部分を支配していたようである。この斉藤氏は吾妻太郎行盛の子千王丸が母方の姓を名乗り、斉藤太郎憲行を名乗った。
 この憲行を初代に、二代行禅(ゆきすけ)、三代行弘、四代行基、五代行連、六代基国と六代続いたが、六代基国の時に武田氏によって没落しているとしている。初代憲行は、飽間斉藤梢基、上杉憲顕の助勢により里見氏を破り岩櫃城を回復した。本領回復の後功臣に賞を行い秋閒九郎泰則に川戸内出城を、荒尾金剛兵衛に岩井堂城を、弟金剛左衛門葉これを寵用して仕えしめた。以下前項の解説と重複するので、省略します。そして里見氏監視のため、現湯殿山の上に湯殿山三の社を建てたとある。ということは、そのときの憲行の領土は、現在の倉渕の方まで食い込んでいたのかも知れません。

 次の二代行禅の代に柳沢直安を娘婿として柳沢城に迎えた。そのとき家老秋閒氏が、「嫡子行弘公の直轄領が減る」と言うことで行禅に諫言したという。

 三代が行弘で、柳沢城の解説の「柳沢城夜討」を行った人である。

 四代が行基、五代は行連で、この人は非常に信心深い人で、矢倉行沢の観音堂を建立し、祈願所滝峨山金剛院不動堂を再建して、同院別当頼盛法印をして大峰山に代参せしめたとある。

 六代基国は著しく傲慢になったらしく、三島根小屋要害を攻めて地頭江見下野守を滅ぼし、三原の鎌原氏を攻め二百貫文の領地を横領し、その勢力著しく盛んに見えたが甲斐の武田氏に攻め滅ぼされたとある。

 この吾妻戦記による斉藤六代と、斉藤系図、加澤記による記述、または吾妻郡内旧記による吾妻三家の争いなど同時代と重なるいくつもの記述については、つじつまが合わなく、伝承、伝説の域を出ない。どれが正しくどれが違うのかは今後の研究の課題といえるでしょう。

斉藤憲広と鎌原氏

 斉藤憲広が家督を継いで岩櫃城主となった時期は不明であるが天文年間であたろうと考えられる。妻は不詳であるが四人の子供があり、長男をを斉藤太郎憲宗、二男を四郎大夫憲春(または弾正左右衛門)次は女子で三島の地頭浦野下野守に嫁したが、のち羽尾治部入道に嫁いだ。末子を城子丸といい武山城に居らしめた。

 初めは、関東管領上杉憲政に属したがこれが滅びると上州は群雄割拠の状態になり憲広も四方に領土を広げるようになる。この事が、沼田氏との不仲、鎌原氏とのいざかい、真田氏(武田氏)の侵略につながっていくことになる。

 三原庄の鎌原氏は、滋野一族で室町の中期ぐらいからこの三原庄を領地としていた。これは、四阿山を奥宮とする白山信仰を信州と共有する西部吾妻に勢力を張った。鳥居峠を挾み長野側が山家神社、群馬側が今の宮とその信仰の拠点があった。隣の羽尾の領主海野氏同じ滋野一族であるが斉藤氏と共同で、領土問題で鎌原氏と争っていた。追い詰められていた鎌原宮内小輔は、同じく同族である信州小県郡の真田幸隆を仲介して、武田信玄の幕下と成って援を乞うた。信玄は、よくその刺を受け入れて、斉藤を討つ内示を出した。

 ここで少し、解説を加えておく。よく、滋野氏が清和天皇から別れたと言われていることから、滋野源氏という表記も見られる。しかし、源氏ではないという捉え方もある。まづ天皇の子は○○親王を名乗り、親王の子は○○王を名乗る。この王の子は、天王より姓を賜り、臣籍降下するのである。源姓は、この臣籍降下に使われるもっとも多い姓であったようである。あくまで姓というのは、天皇家より下される物であり、普段我々が名乗っているのは字名であると言うことを理解しておいた方が良いと思います。例をあげますと、吾妻太郎行盛は吾妻太郎藤原行盛と名乗ります。吾妻が字名、太郎が通名(普段呼ばれる名前)、藤原が姓、行盛が諱です。そして諱というのは、署名でも普段の呼び名でもほとんど呼んだり署名しない物と理解して下さい。こう言う事を踏まえると、なかなか諱が分からない人が居ると言うことも理解できると思います。

 それを知って驚いた斉藤憲広は、羽尾入道と語らって鎌原城を攻めたが鎌原一族よくそれを守ってついに落とすことができず、和睦となった。そこで鎌原氏は子息越前守を甲府に人質に送って信玄の意向を聞きながら善後策を講じたのでした。

信玄は好機到来と大いに喜び、真田、甘利両氏に三千の兵をつけて大戸、三原の両口より岩櫃城を攻撃した。憲広は急をつかれ、援軍とてなく戦意を全くなくし「信玄にうらみなし」と言って善導寺の僧を中に立て和睦し、信玄の軍門に下ったのです。

 永禄四年十月下旬憲広は、羽尾道雲、海野幸光、富沢庸運、湯本善大夫、浦野下野守等、鎌原の一族を味方に誘い、六百騎を持って鎌原の城を攻めた。鎌原の兵は三原の赤羽の台に出撃してよく守ったが、大戸真楽斎の二百騎が万騎峠を越え、狩宿へ進出してくるという情報に接し、常林寺の僧を仲介に降伏した。

 永禄五年(一五六二)三月、信玄は倹史をだして羽尾、鎌原の境界を赤川、熊川の落合を限りと定めた。憲広はこの検地に満足の意を表したが、羽尾道雲は数代相伝の所領である古森、与喜屋が鎌原領に成ったことに対して不満の色をを示し、憲広に訴えた。憲広は、その旨鎌原に伝えたが応ぜず、十月に成って鎌原氏は突如同地を引き払って信州佐久郡に落ちて信玄に苦渋を訴えた。そこで信玄は小県郡浦野領内において同高の地を与えた。

 かくして鎌原の所領はそのまま羽尾の手中に落ちたのであった。

 鎌原・羽尾合戦

永禄五年六月、羽尾道雲は万座の湯に湯治に出かけた。武田信玄の命を受けた真田幸隆は、その隙をうかがって居館を攻めこれを奪還してしまった。道雲は帰るにその家はなく仕方なく信州高井郷に落ちていった。

 道雲は同郷にあって、吾妻に帰還することを日夜画策し、ついに鎌原の老臣(親戚)の樋口二郎左右衛門を味方につけ、同年九月上旬五百騎をもって上信国境を越え三原庄には入り、米無山、石津の辺で戦ったが敗戦を喫し、憲広を頼って岩櫃城か平川戸に落ちていきました。

 かくて鎌原氏は武田、真田両氏の庇護を受け再び自分の居館に帰ることができた。

 信玄は謙信の憲広を助けるを非常に警戒し、信州より祢津、芦田、甘利の衆を派遣し、鎌原、長野原の二砦を堅く守らせ、ここを前線基地とした。かくして羽尾氏亡き後は鎌原、斉藤両氏の争いと成るのである。

 斉藤憲広、上杉謙信とよしみを通じる

 これよりさき道雲が信州高井郡へ落ちていった際、憲広はこのままの情勢ではとても信玄という大きな勢力に対抗できないと思い、上杉の一族である白井の長尾氏を通じて、越後の上杉謙信の配下となりその庇護の下信玄に対抗しようとした。

 そこで憲広は、白井城主長尾憲景の所へ、善導寺の僧、甥の斉藤弥三郎則実、唐沢杢之助の三人を遣わして、吾妻の現況を訴え、謙信に援助してくれるよう求めたのであった。
 長尾憲景はこれは謙信の吾妻にくさびを入れる好機であるとして、配下の中山城主中山安芸守景信に命じて謙信へ早速連絡するよう命じた。
 謙信は好機到来と非常に喜んで、斉藤憲広へ親書を遣わした。

( ここで注目してもらいたいのは、長尾配下中山安芸守の存在である。おそらくであるが、中山、尻高両氏は長尾の寄子となっていたのである。その後の真田の攻防を見ると、横尾八幡城あたりが昔からの境の地で吾妻領と白井領の分かれ目だったと考えられる。そして中山氏は没落していき、尻高城の尻高左馬介は最後まで真田に対抗して猿ヶ京の宮野城でついに命事切れることになる。現在の中山城跡を見れば、北条式の築城方式があちこちで見られる。つまり、尻高と中山は白井長尾氏と共に上杉、北条と主を変えたことがうかがえます。地形を見ながらそんなことも考えながら、歴史を見ても面白いと思います。)

 かくして斉藤、鎌原の争いは、上杉、武田の代理戦争と成っていったのであった。

 長野原合戦

 永禄六年(一五六三)九月下旬、武田の最前線基地長野原の要害には真田幸隆の弟常田新六郎俊綱を将として、信州勢が加勢として守備していた。

 憲広は白井長尾氏の援軍をえて八百騎の兵力を持って斉藤弥三郎、羽尾、海野を将として、大城山及び暮坂峠越しの二道より、この要害を責め立てた。ちょうど、城は農繁期であり、農兵はみな城をくだりて家にあったため、常田は意のごとく兵を動かすことはできなかった。城将常田はこらえきれず諏訪明神の前まで出陣し、須川、琴橋を切り落としてこれを防いだ。一方斉藤軍は大城山より大きな材木を切り落とし、須川を埋め立て攻め立てたのでついに常田は防ぎきれず戦死してしまった。城兵は、たまりかねて城を捨て鎌原の城に集結を余儀なくされた。

真田氏の出自

 真田氏初代藩主「伊豆守」はその正式名(文書に署名する名前は)「真田伊豆守 滋野信之」と言った。この滋野氏が真田氏の祖であると真田氏は唱えている(滋野氏嫡流)。江戸時代のほとんどの大名は「源・平・藤・橘」の日本四大姓を称しているのに対して、滋野氏にこだわっているのは特質である。古代紀伊国造を祖とする滋野氏が存在するのは事実で、平安初期に滋野貞主という儒学者として有名な貴族が居てその一族が信濃守や信濃介に任官していた。しかし、上野の守護のように親王が上野守に着任するようなこともあり、守は地方に赴任せず京にいて「遙任」という形をとることもあるので、信濃国に赴任したかは定かではない。

 また、滋野一族の誰かが「望月の牧」の牧監になり根を下ろしたという説がある。その一方で大伴氏の一族だったとする説などもあります。これは、吾妻の「市城の牧」にも牧監は大伴氏の一族であるという説があり、この説は大伴氏が平安時代初期に軍事を司る立場にいたことなどから発した説のようです。いずれにしても滋野氏は小県郡、佐久郡で勢力を張りその代表的氏族に滋野三家、海野氏、禰津氏、望月氏です。真田氏の祖はどうも禰津氏のようなので、ここで禰津氏の説明をすることにする。

 この禰津氏は「鷹」匠としてもしられており、小県郡「新張の牧」をその基盤としていた。禰津貞直の時諏訪一族の嫡流大祝氏と縁を結び、諏訪一族とも同族の関係を深め、代々「神平」を称した。殺生禁断の仏教が日本に伝来して以来、肉食、狩猟は廃れていき鎌倉幕府は鷹狩り禁止令(狩猟禁止)を出した。しかしながら、諏訪大社の御贄狩りだけは適応外とした。当時の武士は鷹狩りにおいた武の修練を積み、合戦の準備とした。また、農作物においても害獣の被害など深刻な問題があり、鎌倉幕府の御家人たちは積極的に諏訪大社の分社を勧進しそれに対応した。日本各地にある諏訪神社は、この頃の物であるだろう。この吾妻の地にもいくつも諏訪神社と名の付く物があるが、鎌倉時代の地方の気持ちなどを思うと感慨深い物がある。

 鎌倉幕府の諏訪大社に対する信仰は善光寺と共に厚く、狩りの神事にも参加などしていた。禰津氏の場合、牧・馬→狩猟→鷹→神事・呪術のプロセスを辿て鷹匠「禰津流」となり、一方信濃で巫女、山岳の修験者などを支配したと言われていた。それはしのびの頭みたいな物で、禰津氏はしのびだったとの説もある。

 真田氏は海野氏嫡流を唱えているが、実は禰津氏系等ではないかと言うことで禰津氏の説明をしてみました。この滋野氏の一族は、吾妻の地にも海野氏の系統で、羽尾の海野氏、三原の鎌原氏、望月氏の系統では草津の湯本氏、松尾村の横谷(よこや)氏、禰津氏の系統では大戸の浦野氏、三島の浦野氏などの多くの地頭がおりました。また、真田氏が武田家が滅ぶ少し前勝頼公を迎えるために岩櫃城下古谷地区に建てた潜竜院に一族である禰津潜竜斎(長右衛門)が院主としたとあることからも、真田氏が禰津氏の出であると言うことも十分考えられることです。

真田氏の系譜の研究

 滋野氏の起源を見てみると、奈良時代までさかのぼる。奈良時代に大学頭兼博士出会った樽原東人に行き当たる。東人は駿河守着任当時、金を朝廷に献上して「勤しき哉」とたたえられ伊蘇志臣を賜った。その後、延歴17(798)年、東人の孫家訳が滋野宿禰姓を賜り、さらに弘仁年間(810~823)に滋野朝臣を名乗ったとされる。家訳のこの貞主、貞雄がおり、とくに貞主は娘の綱子を仁明天皇に、奥子を文徳天皇に参内させ子をもうけている。

 そして滋野氏と信濃のつながりは、信濃守善根と信濃介恒蔭が関係してくると思われる。恒蔭が信濃介在任中、信濃の有力豪族と婚姻関係を結んだと想定されている。寛弘6
(1089)年に、滋野善根と恒蔭と関係が深いと考えられる善言が、朝廷への貢馬の処置を行っている。そのことから、この善言が馬寮と関係していた事が伺える。この事から、滋野氏は信濃の代表的な牧の一つである、望月牧などを管理する望月・祢津・海野氏と早くから婚姻関係を結んでいたのではないかと思われる。また、滋野三家も中央の貴種とのかかわりを持ち、その子孫を称することで東信濃にその基盤を築いたのではないのでしょうか。

 「寛永諸家系図伝」の中に、鎌倉初期の海野当主海野長氏の四男に真田七郎幸春という人物が記述されている。当時真田藩では、この幸春を海野の嫡流としているがこれは作為性を感じさせる。この祖父幸氏という人物が、鎌倉時代に作られた「吾妻鏡」の中に散見される。この人物は、上州三原の地頭ということである。この人物については、源実朝将軍就任の弓初めで弓の名手としてその大役を担っているのである。ここには、吾妻四郎助光もそこに名を連ねている。上州吾妻の地から、2名の者が出ているのは特筆すべきことである。

 時代は下り、応永(1400)年の大塔合戦を記した「大塔物語」の中に、大文字一揆に参加した禰津遠光配下に「実田」という記述があることから、これが真田氏ではないかといわれている。この中には、桜井、別符、小田中、横尾、曲尾なども参加している。これは戦国期に海野衆として確認できるひとびとである。さらに永享12(1440)の結城合戦において、信濃守護小笠原正康、同持長、村上頼清に率いられて参陣した武士で、真田源太、同源五、同源六が見え、直接真田氏の祖と思われる一族を確認することができる。

武田氏の岩櫃城攻略と斉藤氏の滅亡

 永禄六年(一五六三)八月下旬、憲広は一族郎党を城中に集めて重要作戦会議を開いた。

 「最近における鎌原氏の動きを見ると、武田信玄に接近し、その援助を受けわが岩櫃城の攻略を画策している。更に大戸、浦野氏も鎌原と同調して信玄によしみを通じているようである。かくなる上は積極的に宿敵鎌原氏を、攻め滅ぼして吾妻郡を統一しなければならない。よいことにこの頃信玄は、北信濃(長野県北部)、駿河(静岡県)方面に信仰し二面作戦を進行中である。吾妻の地に兵力をさく余裕は現在はあるまい。この際上杉系の長尾氏、沼田氏の援助を受けて多年の願望を成し遂げねばならない。」と衆議は一決した。

 しかしながら、利根郡の雄、沼田氏との間は良好ではなかった。おそらくお互いの領土問題の紛争が解決していなっかたのだろう。そこで、一族の中山城主中山景信(ちょっと前項の解説と矛盾するが文書通り解説)を沼田にやり、沼田万鬼斎、憲泰との和睦調整に当たらせた。交渉は運良く成功し、さしあたりの敵は三原の鎌原氏(背後に武田信玄)だけとなり、白井、沼田の援助も取り付けたのであった。

 この報に鎌原宮内は大いに驚き、すぐに信玄に報告した。信玄は多難な時期であるにもかかわらず、甲府より武藤喜兵衛(幸隆の三男後の真田昌幸、信玄の近習として使えていた。)、三枝松土佐守を倹使として、真田幸隆を総軍の将とし、真田信綱(幸隆の長男)矢沢頼綱(幸隆の弟)鎌原、湯本、横谷等三千騎の兵を付け岩櫃城攻略の軍を起こしたのであった。これが、第一次岩櫃城攻略戦である。このときは、牽制のみで合戦に至らなかった。

 第二次岩櫃城攻略戦

 永禄六年九月中旬、信玄の命を受けた幸隆は横谷・雁ヶ沢口、大戸口両方面より岩櫃城攻撃の火ぶたを切った。これが第二次岩櫃城攻略戦である。 一方九月上旬沼田の加勢は沼田憲泰の弟朝泰が五百騎を引率し到着し、白井勢も長尾憲景が家老牧、矢野を将として二百騎同じ頃岩櫃城に到着した。

 憲広はこれに大いに力を経て、まず雁が沢口に沼田勢五百騎、斉藤則実、中山、尻高両氏、荒卷氏、その他に三百騎を添えて山々谷々の天険を利用して待ち伏せていた。大戸口の配備は二男の憲春、植栗氏を将として八百騎、白井の二百騎を合わせて一千騎を当てた。
 これに対して真田軍は一千騎、一族禰津、矢沢を将として須賀尾峠を越えて大戸城に進んだ。大戸真楽斎は弟、権田の地頭但馬守を人質にだして降伏した。

 九月十五日早朝、岩櫃をたった斉藤軍は大戸城を攻めたが、真田軍は裏山、榛名山居鞍嶽を越えて山上より大戸城に向かって進んだので、これに敵することができず、かえって茶臼の橋(長須橋を言う)及び郷原十二の森、三島四戸、生原に兵を引いて、守勢にたたらざるおえなかった。

 雁が沢口の斉藤軍は地の利を得て善戦した。真田軍は長子真田信綱を将として、長野原より間道火打ヶ花、高間山を越えて松尾の奥、南光の谷に進出して、その側面を突く勢を見せたのである。別働隊である昌幸、三枝松の軍を長野原より須川を渡り暮坂峠を越え、佐藤将監の守る仙蔵の城を一挙にほおむってここに西窪氏をすへ、昌幸は有笠山に陣取って、その形成を見ていた。この仙蔵の城の失墜は岩櫃城の背後を脅かし、それと同時に末子城子丸の守る武山城(末子城子丸及び池田佐渡守重安の守備)に対してくさびの役となった。

 幸隆は長野原より林、諏訪ノ森に本陣を前進して総軍の指揮に当たったが、必ずも真田軍の有利とは成らず、信玄の援軍も期待できなかった。

 そこで正面力責めの攻撃の不利を悟った幸隆は諏訪の別当大学坊、雲林寺の僧を使者として、善導寺の僧を中に立てて和議の話を進めることとした。善導寺の僧は憲広にあってその旨を伝えると、元々信玄公に何も恨みはないこと、敵は鎌原氏にあるので早速気のよい憲広はこの和議に同意してしまった。

 この和議の条件は、一つに仙蔵の城を斉藤氏に返還すること。二つに大戸、鎌原、浦野の人質を憲広に渡すこと、三つに沼田、白井の援兵を撤兵することの三箇条であった。

 鎌原宮内小輔は和議が成立するや早々岩櫃城に来て憲広にあった後、甥の斉藤弥三郎則実との密談に入った。その要旨は信玄の岩櫃城攻略は必至である。もし則実が内応するならば吾妻郡の本領は安堵されるであろうから尽力してほしいというものであった。また一方、幸隆は自らの一族である海野左馬允を斉藤氏の重臣である海野長門守、海野能登守の兄弟の元に遣わし、密かに内応工作に入った。一同は善導寺に密会して互いに連絡を取り、九月中旬矢倉鳥頭神社へ参拝と称して内応の連判起請文を整えて幸隆の弟矢沢頼綱に手渡したのであった。
これは真田の常套手段である内部崩壊を狙った老獪な策謀であった。

 第三次岩櫃城攻略戦と斉藤氏の没落

 幸隆は十月中旬、突如岩櫃城攻撃を再開した。これが、斎藤氏を没落に導いた第三次岩櫃城攻略戦である。このたびは長男信綱に二千騎を与えて暮坂峠に進出せしめた。主力は武藤喜兵衛(昌幸)五百騎大戸真楽斎二百騎の計七百余騎をもって、大柏木より三島の裏山をこえて類長が峰に出て本陣を構え、岩櫃城を望んだ。また別働隊を萩沢のあたりに配置して、箕輪の長野氏の備えとした。

 そこで斉藤方は、城の大手番匠坂に斉藤弥三郎則実、植栗氏に三百騎、搦手切り沢口には富沢氏を将として二百騎配置した。岩鼓の出城(柳沢城)には長子の斉藤越前太郎、尻高氏の兵三百騎を配置し、本城には憲広一千騎をみづから掌握し、海野兄弟、白井勢も組み入れて籠城の体制を整えた。

 裏切り者の則実は、角田新右衛門という忍者を敵陣昌幸の本陣に派遣して、岩櫃城内の配備を細かく密告し、昌幸から「帰ったら岩櫃城に放火せよ。」と命ぜられ金十両を褒美として受けとって岩櫃城に帰城した。角田は騎乗すると則実と連絡を取って、ついに十月十三日夜半本丸に放火した。

 昌幸(武藤喜兵衛)はこの火の手を合図に夜襲を決行、則実は木戸を開いて真田軍を城内に招き入れ、二の門に迫った。斉藤憲広は狼狽し自決しようとしたが、出城の岩鼓の要害(柳沢城)より帰陣した長子太郎に「今は自決するより、越後に落ち延びて謙信を頼り再起するが得策である。」と説得され越後に落ちていたのであった。ここでついに岩櫃城は真田氏のものとなり、そのまま江戸初期まで真田の領地と成ります。

 武山合戦並びに海野城代時代

 斉藤氏を越後に追い落としたので、信玄は大いに喜び幸隆を吾妻守護に任じ、鎌原宮内少輔、湯本善大夫、三枝松土佐守の三人を城代とした。
 武田方に寝返った内応の武士の処遇は、斉藤弥三郎、海野長門守、海野能登守の妻女を岩櫃城の天狗の丸に人質としておいた。後、下曽根岳雲軒の館に置くこととした。

 かくて、斉藤弥三郎にはわずか川戸上村にて斉藤憲広の直轄地の五分の一の土地を与えられたのみで、海野兄弟も真田に預けられ、信州佐久、小県郡においてわずかの土地を与えられただけであった。

 武山合戦

 武山において越後へ同行できなかった末子城子丸は、重臣池田佐渡守、同甚次郎、山田与惣兵衛以下諸氏がこれを守護し、一門である中山、尻高両氏も援兵を送り上杉謙信に属し、再起の時が訪れるのを待っていた。そして、度々真田氏と戦闘を交えたが、戦局に進展はなかった。よく永禄七年三月雪解けと共に謙信は、柴田、藤田の両将に二千騎を与え三国峠越しに兵を進め、武山城を援護した。

 驚いた幸隆はすぐにその刺信玄に伝えたので、信玄は川中島決戦の最中であったにもかかわらず、川中島城主清野刑部左衛門、曽根七郎兵衛尉に一千騎の兵を率いさせ幸隆救援に向かわせた。戦いは膠着状態であった、五月下旬、信玄は更に松井田城主安中越中守憲家並びに三河衆に三百騎の援兵を与え兵力を増強した。

 幸隆は長子信綱に五百騎の兵力を与え、沢渡・伊賀野山に控えさせ、禰津以下の諸武士に兵七百騎を率いさせ岩櫃城に急行させた。

 かくてこの年も何事もなく暮れた。翌永禄八年(一五六五)十月下旬、斉藤憲宗は上杉氏の加勢並びに、白井・中山・尻高・小川各氏の加勢二千騎を引率し一挙に岩櫃城奪還をはかったのである。これに対して幸隆は岩櫃城責めの教訓を生かし、まず、斉藤憲宗と和議を整えた。ここにおいて上杉の加勢二千騎に余る兵力を帰らせることに成功したと同時に、斉藤氏の内部崩壊の方策として十一月十日武山の重臣池田重安を引き抜いて岩櫃城に連れ帰った。

 十一月十七日、幸隆は鎌原・西窪・横谷氏を先兵として、まず武山城を指呼の間に望む折田仙蔵城を奪取し、五反田の台において斉藤軍と交戦、双方とも相当の戦死者を出すに至った。夜に入って斉藤軍は武山城に籠城した。この籠城は斉藤軍が地の利を得たつもりだったが、狭い岩山の城内に閉じ込められる結果となり、かえって真田軍を有利に導いたのである。

 幸隆は同夜武山城を包囲夜襲に転じたので斉藤軍は逃げ場を失い、憲宗・城虎丸以下一族郎党は四周より攻撃を受け壊滅的損害を受けて憲宗、城虎丸以下自決し、女子供は岩より飛び降りてことごとく自ら命を絶つ凄惨なものであった。この戦いで、斉藤氏の吾妻奪回戦は幕を閉じ、斉藤氏は自滅した。

 永禄九年(一五六六)武山戦も終了したので、幸隆親子は信玄に海野長門守、海野能登守両氏を推薦して岩櫃城代とした。しかし、鎌原、湯本、横谷氏の所領はこれを除き吾妻七十余騎のものを与力としたのである。その後は武藤喜兵衛尉昌幸が年一度岩櫃城に出張して政務を見ることとした。

真田氏の統治時代

海野長門守幸光と能登守輝幸の誅伐

海野兄弟吾妻郡代として活躍

 海野兄弟は、信州滋野の流れで真田氏の一族です。父は、羽尾景幸と言い三原の庄羽尾に住し、同羽尾城主であった。兄弟は五人有り長男は幸世(羽尾入道幸全)、二男を海野長門守幸光、三男を同能登守輝幸、四男を郷左衛門、女は同じ滋野の一族である大戸の大戸真楽斎(浦野氏)の妻となった。

 海野兄弟は剛勇で知られていて、特に輝幸は強弓を引き、荒馬を乗りこなし、更に新当流の使い手であったようである。若い頃上原能登守と名乗り武田に仕え、晩年羽尾に帰ったと伝わる。

 兄弟は、永禄の頃より斉藤憲広に仕え岩櫃城ないで屋敷を与えられていた。現在の殿屋敷と呼ばれているところは、長門守の屋敷跡だと言われている。

 真田幸綱(一徳斎幸隆)が武田の先陣としてこの城に攻め寄せたときに、鎌原、湯本、西窪、横谷、浦野、植栗などの諸将と共に海野兄弟は武田に与し、真田幸綱が岩櫃城を落とすと永禄九年に吾妻郡代となった。その配下は、前記の諸氏を除く地侍七十余騎を従えていた。吾妻郡代になった時海野長門守幸光は、五十四歳であったと伝わる。その後約十六年間真田のために、その生涯を捧げたのである。

 この約十六年間は、上杉、武田、北条の相剋の時代で、その間に信玄、謙信、幸隆の死等もあり、まさに激動の時代であった。

 武田勝頼は岩櫃城の戦略上の地位を重要視し、兄弟が堅固にこの岩櫃城を守ったのでその信頼も厚く、年頭の挨拶も免除したほどであったという。また、真田昌幸からも信頼が厚かったようである。

修験者としての長門守

 長門守は修験道を納め、その名を福仙院と号した。金剛院(現在原町の瀧峨山金剛院不動堂の院主)に師事し、祈願の道場を城中平沢に建て、永十貫文の土地を寄進している。厚く大峰(奈良県)を信仰し戦陣の間にも、鎧甲の上に頭襟(ときん)、鈴繋衣(ずずかけ)、袈裟を帯し馬上にあったと言われている。また、幸光は深く仏教に帰依して、敬神の念も厚かった。

 その事跡は

 一.長野原町雲林寺、羽尾宗泉寺の建立。

 一.鳥頭神社に鰐口奉納

 一.行沢観音堂の改修

 一.郷原薬師堂 幸光が持病の眼病平癒のため建立。

 一.郷原虚空蔵堂

 一.生馬観音堂、矢倉笹原薬師堂など

 また、切沢善導寺とも関わりが深く、幸光の娘を善導寺に葬ったようである。

海野兄弟没落の原因

 天正九年、沼田城に北条方が食指を伸ばしてきたのであった。このようなとき、昌幸は海野兄弟が岩櫃、沼田の両城を堅く守ってくれるならば吾妻一円は兄弟に与えると約定したのであった。

 ところが昌幸はその約定に反して郡内の諸処を給人に与えた。同年夏、長門守は違約であるとして家老渡利常陸介、佐藤豊後を使者として上田の昌幸に抗議した。昌幸は、鎌原、植栗、池田、浦野、西窪、横谷の七氏の領地を除き、その他の知は知行地として与える旨を約定してきた。

 同十一月上旬、鎌原、湯本両氏は海野兄弟が北条氏に与して逆心のあること顕著である旨、前記七名の連判を持って昌幸に訴えた。昌幸大いに驚き、叔父矢沢頼綱に相談の上誅伐することに決めた。海野能登守の長男は、矢沢頼綱の娘をもらい三人の孫が居たが、「すぐに誅伐するべきである」と進言したようである。

 海野兄弟は、勇猛の士ではあるが態度が非常に尊大で、吾妻の諸氏の間で非常に評判が悪かったようである。多分、この訴えを起こした連署の諸氏に嫌われていたのではないでしょうか。また、海野兄弟は態度が非常に尊大であったと言われている。海野を名乗っているので、自分こそ滋野の嫡流という意識が強く、真田を始めその他の庶流は自分よりも下であるという意識が心の中にあったのかも知れません。武田が滅んだ後は昌幸にとって家臣団の確立を目指していたと思われ、旧武田家より寄子として付けられた諸氏を自分の家臣として再編成するときに旧態依然の意識を持った海野兄弟を許せなかったのかも知れません。この「北条に内通」というのはでっち上げというのが、本当のことのように思う。昌幸にとって、武田家滅亡の後自分の管理地を自領とし体制を整えていた節もあり、旧態依然の考えを持った海野兄弟のことが許せなかったのではないでしょうか。

海野兄弟誅伐

 天正九年十一月二十一日、昌幸は弟壱岐守信尹に鎌原以下の諸将百八十騎と雑兵一千余人を付けて岩櫃城に向いしめた。同日正午頃岩櫃城に着陣し長門守の屋敷を包囲した。

 長門守幸光は老衰で目が見えなかったが、憤然として居間をのかず、すぐに鎧に身を固め、座敷にくまなく麻がらを散らし、乙のする方へ三尺五寸の太刀を振って奮戦し、十七名にも及ぶ敵兵を切り伏せたが、衆寡敵せず、居館に火を放って腹十文字に書ききって自刃した。

 幸光の妻(三十五歳)娘(十四歳)は越後が本国であったので、渡利常陸介はその場をのがすべく努力はしたものの、敵が十重二十重と取り囲んでいたので、なすすべもなく無情にも刃に掛けて殺害してしまった。

 岩櫃城落城伝説のところで述べている姫の宮伝説ですが 、基国公の時のことではなく海野長門守幸光の岩櫃城落城の時のことのようです。いつの頃か、伝説として間違って伝わったのではないのでしょうか。

 信伊は岩櫃の城に池田、鎌原、湯本をおいて同日夕刻吾妻を発って沼田の能登守を討つべく兵を進めた。能登守はこの事を察知して、無実を訴えようと子息中務太輔行貞と共に沼田城を脱出し、迦葉山に向い無実を訴えようとした。しかしその途中十二の森(女坂)において包囲され奮戦の末、父子差し違えて壮絶な討ち死にを遂げた。時に輝幸七十二歳、行貞三十八歳であった。

 この真田昌幸の海野兄弟誅伐は、封建制への移行期に起きた出来事で戦国末期の悲惨な事件だと思います。多分海野兄弟は、真田氏に従っていたが旧態依然のままの関係を維持しようとしていたのではないでしょうか。つまり半独立勢力として、吾妻の領主という立場を確保しようとしていたのかも知れません。この頃の諸氏は、被官化が進みこういう勢力が存在することが許されなかったのかも知れません。こういう時代の流れが分からなかった、海野兄弟の悲しい事件だったのかも知れません。また、海野能登守の長男行貞の子は、後上原を名乗り沼田真田藩の家臣となっています。

長篠の戦いと真田氏

 話は少し前後するが、天正元年(一五七三)四月、武田信玄が没するとその家督は勝頼が継いだ(正確には家督は勝頼の嫡男信勝で勝頼は後見役)。そしてその翌二年二月十九日その後を追うように真田幸隆も没した。真田家の家督は、嫡男信綱が継いだ(家督は幸隆が没する前に継いだようだ)。信州上田と吾妻の地は信綱の支配下に置かれたのである。

 信玄と幸綱の台頭は、吾妻の歴史にとって大きな変化をもたらした。また、中央でも織田信長が台頭し日本の歴史も変革期を迎えていた。

 勝頼は信玄の意志を継ぎ、正常して天下に号令しようとする大きな目的を持っていた。そしてまず、天正三年四月二十一日徳川家康の部下奥平信昌(信玄存命の頃は武田家に臣属)の三河長篠城を包囲した。ところが予想に反して城はなかなか落ちずついに、織田、徳川の連合軍と設楽が原に対陣するに至った。この戦いは言うまでもなく有名な、武田の騎馬隊と、織田の鉄砲隊の戦いである。武田軍はこのとき一万五千騎、長篠城の押さえ五千騎、織田、徳川の連合軍三万八千騎、このとき長篠の押さえの砦鷹巣砦を徳川軍に急襲されて退路を断たれてしまった。そこで、決戦を挑んだが大敗をしてこれが原因で武田家滅亡の原因の一つになった。

 この時織田信長が、一気に武田を滅ぼさなかったのは武田に力が残っていたからなのではないでしょうか。この長篠の戦いでの敗戦により、武田勝頼の評価は低かったのですが近年見直されてきました。まず、武田の最大版図を築いたこと。長篠の戦いまで、敗戦がなかったこと。そして長篠の敗戦の後も、侮りがたい勢力を持っていたことなどが理由に考えられる。木曾義昌など、何名もの造反が出るまで七年の歳月を、武田家滅亡に掛かったことを考えれば勝頼が愚将ではなかったのが分かると思います。「甲陽軍監」にも、勝頼のことを「強すぎる大将」と書かれています。

 このとき馬場信春、山縣昌景など多くの重臣が討ち死にした。

 真田家及び吾妻の諸氏も討ち死にした武士が多くいた。

 まず、家督を継いで二年余の真田信綱、以下真田、吾妻の諸氏を列記する。

 真田信綱 真田昌輝 禰津元直 禰津月元 望月甚八郎 常田永助 河原正良

 河原正忠 河野通秀

 吾妻の諸氏は

 戦死 鎌原重澄 湯本善大夫 富沢勘十郎 富沢治部 他

 重傷 植栗河内守 横谷左近 他

 ここで真田家の家督は、惣領信綱の戦死、三男の昌輝の戦死により武田氏が衰退に向かうなか武藤喜兵衛を名乗っていた真田昌幸が勝頼の命により真田家の家督を継いだのです。

 天正三年(一五七五)長篠の役後、昌幸は勝頼の命により、主に岩櫃城に在城していた。信玄亡き後、小田原の北条氏、越後の上杉氏など吾妻、沼田地区を虎視眈々と狙っていた。昌幸は引き続き岩櫃城に海野長門守幸光、同能登守輝幸を城代としておいたが、海野氏は更に積極的に上杉の占領地区沼田を攻めんと狙っていた。

白井の長尾左衛門入道は元亀以来信玄のためその領土を横領されていたので、謙信の命もあって、好機到来と、真田の最前線基地である岩井堂城、柏原城に侵入して海野氏との間に小競り合いを繰り返していた。

 当時の真田昌幸の諸城の配備を見ると

 岩櫃城主  真田昌幸

 岩櫃城代  海野幸光 海野輝幸

 柏原城   植栗河内守 湯本左京進 荒卷宮内少輔

 岩井堂城  富沢伊代守 塩谷掃部介 割田下総 佐藤将監 富沢豊前 唐沢玄蕃
       山田与惣兵衛  割田新兵衛

 大戸手子丸城  大戸真楽斎

 三島及び厚田  一場太郎左衛門 浦野中務

 大戸越蟻川岳要害  蟻川入道 同庄左衛門 新保佐左衛門

 武山城  池田佐渡守 桑原大蔵 町田 鹿野

 天正六年三月十三日、上杉謙信が没すると御館の乱が起こった。景勝(父長尾政景)と景虎(父北条氏政)が争い乱が起こった。景勝が上杉の家督を継ぐまで一年の歳月がかかり、新発田重家の反乱等で越後統一に更に時間がかかった。それに乗じて北条氏邦が沼田城に攻め入り落とした。上杉方の沼田城代藤田信吉だったが降伏し引き続き沼田城代となった。北条氏は更に明徳寺城をも傘下に入れ、利根川より東は北条の支配地となった。これにより、北毛地区は北条、上杉、武田の三つどもえの戦いの地となっていった。

 昌幸は、まづ中山、尻高、川田、名胡桃の諸城を攻略した。北条軍は、五千の兵力で名胡桃城を攻めたが、真田軍の善戦でこれを抜くことはできなかった。昌幸は更に兵を進め、天正八年正月には岩櫃城より前進基地を、名胡桃城に移し明徳寺城を攻め占拠した。北条軍は、小川城を攻めたがこれも失敗しついに氏邦はあきらめて兵を武州鉢形城にのいたのであった。此処に昌幸は、念願であった沼田城に入城した。勝頼は、投降した藤田信吉を本丸、二の丸には海野能登守輝幸、北条郭に金子美濃守、保科郭には西山市之丞をおいて守備させた。

 天正八年八月、最後まで上杉に忠を尽くした尻高左馬介義隆は、一人猿ヶ京宮野城を守って真田氏に抵抗していた。しかし、海野輝幸に攻められあえなく敗れ、後閑の怒林寺において自刃し尻高氏は此処に滅びた。かくして、昌幸は吾妻と沼田の地を平定したのであった。

 また、その翌年天正九年三月、沼田平八郎景義が会津芦名氏の援をうけ、沼田城奪還を企てるが昌幸の謀計により敗れて、此処に利根の名門沼田氏は十四代三百三十四年にして滅亡したのであった。

 天正九年六月昌幸は諸将を利根郡に配置した。

 中沼須城  藤田信吉

 長井坂砦  恩田能定

 米野砦   須田加賀守

 鎌田城   加藤丹波守

 阿楚砦   金子泰清

 小川城   北能登守

 名胡桃城  鈴木主水重則

 上川田城  発知為信

 下川田城  山名義季

 上杉に対する防備は、荒卷 箱崎 大居、中山、尻高の諸城を固めた。

真田昌幸武田勝頼を岩櫃城に迎えんとする(古谷舘跡)

 天正十年三月武田氏がまさに滅びようとしていたとき、真田昌幸は武田勝頼を岩櫃城に迎えようとしていた。そのときに建てたのが、古谷地区にある字御舘にある潜龍院跡(古谷舘跡)です。ここの遺構を見てみれば、まさに舘城と言った造りになっています。東に郷原城が有り、西二の方は入口が細くなっていて、旧道を行くと崩れた石垣の後があります。ここには神社があったと伝わっていますが、まさにこの館跡の西側を守っていたと思われる石垣の遺構です。

当時の様子

 天正三年五月織田信長、徳川家康連合軍と戦った長篠の戦いの後、多くの重臣をなくして武田家の威勢も陰りが見え始めていた。この戦いの後、駿河、遠江に兵をだして戦ったが戦況は好転しなかった。累代の家臣もこの戦況を鑑みて、離反する物も現れ始めた。

 天正十年正月、ついに信濃木曾の豪族木曾義昌は勝頼に離反した。勝頼は長子信勝、信豊と共に一万五千人の兵を率い木曾氏追討に向った。同二月三日これを機に織田信長は、武田討伐軍を起こした。織田信長は木曾口より、信忠は信濃口より、徳川家康はするが口より、北条氏政は関東口より、金森長近は飛騨口より押し寄せてきた。勝頼は甲斐に撤退して迎え撃つ準備をしようとしていた。

 しかし多くの武将が離反してついに頼みの綱、弟仁科信盛も高遠城に於て討ち死にし四面楚歌の状態となってしまった。ついに勝頼の姉婿にあたる穴山信君にも裏切られて、まさに滅びるのを待つような状態となっていった。

昌幸武田勝頼を岩櫃城に迎えようとする

 勝頼は信州諏訪に於て軍議を行い、長子信勝はあくまで主戦を唱え、小山田信茂は自身の岩殿城に勝頼を迎えようと進言した。そのとき真田昌幸が進み出て、「岩櫃城は東に沼田城、西に上田城、南に箕輪城、小諸城が守備しており、北は上毛の三山が自然の城壁をなしている。本城は天険の要害で有り、三千の兵、三、四年の兵糧も十分である。それがしは旗本となり、忠信を尽くし今一度御運を挽回いたしたい(加澤記)」と声涙と共に勝頼の袖にすがった。そこで勝頼はその義を入れ、まず昌幸を吾妻に帰らしめた。武田信豊も内藤修理も主命によりそれぞれ居城に帰って城を守備することとなった。

昌幸、岩櫃城の搦手古谷に御殿を急造する

 天正十年二月二十八日早朝、昌幸はその日のうちに岩櫃城に到着して直ちに鎌原、植栗、湯本、池田などの一郡の諸将を徴集した。御殿の材木は榛名山、四万、沢渡、山田の山中より材木を切り出し、日夜工事を急いだので三日の内に御殿は完成した。ところが固執より急使が来て、勝頼公は小山田の策を入れて甲州に向ったという報告をもたらした。昌幸は驚き、箕輪の内藤に連絡して二千五百騎の兵を集め、その日のうちに上田に到着した。昌幸は上田城に於て、次々に武田軍の敗報に接し、「このような自体になったのであれば、予は上州吾妻に下らないで、勝頼公のそばに居ればよかった。信長百万騎来ようとも、小山田がいかに逆心を企てようとも、わが命ある限り、暗々と御生涯などさせなかったものを」と大声を上げて泣いたと言われている。

武田氏天目山に滅ぶ

 小山田信茂は昌幸が上州吾妻にたった後勝頼に、「信茂は武田氏累代の家臣で有り、昌幸は父幸隆以来の家柄である。郡内は安全であって、岩殿城はとても吾妻岩櫃城とは比較にならない堅城である。また吾妻は遠く上野にある。境を越えていくのは武人の最大の恥辱である」と進言し、二月二十八日昌幸が岩櫃城に向ってたった日、勝頼は信茂の策を入れて、諏訪から居城にしてわずか二ヶ月しかたっていない新府城へ本陣を移したが、つかの間三月三日、新府城を焼き払い、信茂のいる郡内岩殿城目指して逃避行に移った。

 この間、長坂長閑、跡部大炊介などの重臣は逃げてしまった。従う者はわずか四十一人、それに女房子供等五十人の哀れな隊列であった。かくして勝頼は三月七日笹子峠の麗鶴ヶ瀬にたどり着き、人をやって岩殿城を偵察してみると、信茂は関を閉ざして発砲してきた。「信茂離反」と聞いて勝頼は驚き、いかにしても上州吾妻に赴かんと焦っても従う者もわずかでどうすることも出来ない。ここに進退窮まり天目山に入らんとして田野村に於て、滝川一益、川尻秀隆の兵に包囲されてしまった。満作尽きた勝頼は妻北条氏(相模の方)、長子信勝と共に自刃して果てた。

 時に勝頼三十七歳(三十九歳だったとも)信勝十六歳であった。従う者四十一人と五十人の上﨟は共に殉死を遂げた。時に天正十年三月十一日。甲斐の名門武田氏も二十八代にしてついに滅んだのであった。

御殿の跡潜龍院になる

 昌幸の麾下に一族である祢津潜龍斎昌月(長右衛門)なる者があった。昌月は二君に使えるのは武士の恥であるとし、この御殿の跡をもらい受け山伏寺にした。これが名刹潜龍院の始まりである。この寺は奇しくも沼田真田家断絶の翌年、天和二年(1682)炎上したが、再建されその後護摩堂は明治十七年原町顕徳寺に移され同院は廃された。

織田信長の配下としての真田氏

武田氏滅亡後の真田昌幸

 天正十年(1582)三月武田氏は滅び、武田領の内駿河は徳川家康が領有した。甲斐、信濃、上野の旧武田領は織田の領有となり上野には、滝川一益が同年四月五日に甲府をたって厩橋城に着任した。このとき多くの書籍などに於て関東管領となったように書かれているが、一益が関東管領に就任した事実はない。このとき関東の諸将は、こぞって一益の元へ伺候したようである。このとき上信二国にまたがる領地を持っていた真田昌幸も、一益の元へ出仕してその幕下となったのである。このとき吾妻郡の諸将の内で、厩橋城の一益の元へ伺候したものは、大戸城主大戸直光(真楽斎と思われる)が見えるのみである。吾妻の諸将はおそらく大戸氏を除き、昌幸の幕下となっていたと思われる。

 この頃「加澤記」で、沼田城は北条氏が横領したように書いているが、武田の沼田城代であった藤田信吉は越後に逃亡していることから、上杉景勝の物であった可能性がある。一益は甥の滝沢義太夫益氏を沼田城代とし、三国峠にて景勝軍と戦ったが敗れた。この頃昌幸は岩櫃城にいたようである。池波正太郎の「真田太平記」はこの頃のに、物語が始まっています。

 また近年放送された、「真田丸」でも岩櫃城がクローズアップされ、オープニングで岩櫃山が毎回登場するのには私としても感慨深かった。ただし、火坂雅志氏の「真田三代」が取り上げられなかったのは残念であった。

本能寺の変における関東

 天正十年六月二日の明智光秀による謀反で、織田信長が殺された訃報は、同六月七日に関東に届く。滝川一益はこの事を諸将に知らせ、今後の援助と協力を諸将に頼んだ。滝沢一益は軍を西上させようとし、途中北条氏邦と戦ったが六月十九日神流川の戦いで北条氏直の援軍に敗れて軍をまとめて本領である伊勢桑名に引き上げていった。昌幸は信州佐久郡に真田信幸、禰津元直、矢沢頼綱の三将に兵を率いさせて一益の撤退軍を援護させた。一益はこの昌幸の厚意に感謝しつつ信州を去って行った。

 沼田城は、一益関東撤退によって空き代同然となっていた。それをいち早く察知した昌幸は、真田信繁(幸村)、真田信伊を出陣せしめ沼田城を取り戻した。

昌幸武田の遺臣を召し抱える

真田昌幸は、武田氏滅亡後遺臣を多く召し抱えているその遺臣は、

 小山田壱岐守(昌幸婿)
 原隼人の子 原三左衛門、原監物
 板垣修理
 内藤修理の子 内藤五郎左衛門
 瀬下若狭守;
 大熊五郎左衛門
 加茂
 安中左近
 白倉武助
 丸山土佐守
 来福寺左京(原仁兵衛)
 丸子三右衛門
 浦野源太郎
 室賀兵部少輔
 青柳清庵
 桜井勘左衛門
 小泉源五郎

・出浦対馬守

 信州更級郡坂城出浦の出身。村上一族で更級郡上平の城主となる。初め武田に仕え、その頃多くの忍びを預かる。武田氏滅亡後、海津城主森長可に仕えた。天正十年頃は上総守と言って功労があったという。天正十一年真田家に仕えるようになった。その後対馬守と名乗り、天正十八年の小田原の役には忍城攻めにて武勲を立てた。後吾妻郡代、岩櫃城代など勤める。現在岩櫃城後の殿屋敷の東側に出浦淵(でうらふち)という地名有り、そこが出浦氏の屋敷跡と伝わる。原町顕徳寺(専念寺)はこの出浦氏建立の寺である。そこにある一番古い墓は、この出浦氏の側室の墓と言われている。

・半田筑後守

 初め越後箕冠城主。長野信濃守の一家。次いで武田信玄に仕え、父は羽田治部右衛門と言い甲州のでである。武田滅亡後真田家へ仕える。若い頃長野采女と名乗り、信之に仕えた。後吾妻郡代となる。

・禰津

 禰津一無斎は小県禰津城主であって、真田氏と一族である。武田氏滅亡後、昌幸の旗本となった。子孫は真田家重臣となる。その子七左衛門(後の伊予)が惣領で、二男が志摩守である。岩櫃城跡平沢の志摩小屋の地名の所は、禰津志摩守の屋敷跡と伝わる。志摩守室は信之のお局である。志摩守の惣領主水は、大阪の役にて討ち死に。

 上記の面々が、後の昌幸股肱の臣となり領国経営などに尽力したのは言うまでも無いが、昌幸が偉大な武将であり、知勇兼備の人であったのが伺えると思います。

真田昌幸と善導寺

 真田昌幸が切沢善導寺に参詣したことが、加澤記に書かれている。利根攻略が一段落した天正九年(一五八一)九月、昌幸は岩櫃城でゆるりとしていた。岩櫃城代海野長門守幸光は、その当時善導寺は川戸田辺(反辺)から霧沢に移転していて、岩櫃城の西の一角を形成していた寺への参詣を勧めた。。この当時の善導寺も、談義所であったという。

 天正九年九月十三日に、昌幸は霧沢善導寺に出かけた。その警備は物々しいもので、まず岩櫃城の留守居役は海野能登守、池田佐渡守、春原(すのはら)勘右衛門が当たり、城の大手番匠坂には、浦野中務以下足軽百名。

 善導寺の表門には、川原左京以下足軽百名。裏門の警戒には小草野新三郎以下足軽五十名という多くの武士が警戒に当たっていたようである。昌幸は、同日は終日酒宴をして帰城した。

 御相番役は、大戸真楽斎(大戸城主)、植栗河内守(植栗城主)、北能登守(小川城主)、海野長門守(岩櫃城代)、鎌原宮内少輔(鎌原城主)、湯本三郎右衛門尉(長野原城主)、浦野義見斎(修験)、徳蔵院(修験金剛院)が当たり、配膳係には木村渡右衛門、出浦上総介等四人の郡奉行級のめんめんと、御酌、御給仕にも川原左京(真田一族)、田沢主殿などがあたるという仰々しい物であったという。

 住職(上人)は山門まで出迎え、昌幸も山門にて下馬して進んだ。住持は本尊礼拝の後、善導寺開山の物語をしたという。当時の住持はおそらく第十二世空眼上人であろうと思われるが、その僧はなかなかの知識者であった。

 浄土宗西山派代々の上人の物語、善導寺開山の識阿上人のことや、道阿上人(おそらく第二大円光上人のことであろう)の母が明徳四年(一三九三)四月八日榛名の沼に入水した物語、六の宮榛名満行権現、伊香保沼のこと等細々と説明したとある。

 昌幸はそのお礼として、甲府の勝頼公に申し上げ善導寺に川戸の内、寺領十六貫文を与えている。

 その他にも、

 林    大乗院
 川戸   一宮、首の宮
 岩下   鳥頭
 平川戸  いわつつみ明神(現岩櫃神社か?)
 原    観音
 岩櫃   不動
 横尾   和利の宮
 横尾   八幡宮
 下尻高  三代明神
 岩下   観音
 市城   観音
 青山   駒形
 小泉   明神、観音
 山田   善福寺
 高戸屋  薬師
 岩井   玉川堂
 嶽山   近戸の明神

 などにも領地を寄進している。

 ここの記述は、加澤記であるが現行沢、矢倉にある観音や、鳥頭は岩下とある。この事から少なくとも現岩下、矢倉、郷原位までの地名を岩下と呼んでいたようである。この事から、上杉謙信関東侵攻の際の参陣の記録「関東幕注文」にある、斎藤越前、岩下衆とあるのは本領がここだったので呼ばれていたのだと思います。現在の地名と、昔の地名を比べると少し違っているところがあるようです。

小田原の役と吾妻、利根地方

北条名胡桃城を奪う

 天正十七年十月、北条氏直は豊臣秀吉の調停を無視して突然、名胡桃城を攻め落とした。これがきっかけとなって、豊臣秀吉の小田原征伐となったのである。当時の名胡桃城主は鈴木主水であった。北条方の沼田城主猪俣邦憲は、鈴木主水の妻の弟、中山九兵衛を利を持って懐柔したのである。

 猪俣は中山に対して、「お前は世が世なら中山城主たる身である。もし兄の鈴木を討って小田原に忠節を尽くせば、中山の本領はもちろん名胡桃・小川の領地までも与えるであろう。」この奸計に乗った中山九兵衛は、鈴木主水に偽の書状(上田の真田昌幸が、上田に来るようにとの書状)を渡して、「私がこの城を守っているから、兄上は安心して上田に向われよ。」言い、鈴木を上田に向わせた。

 鈴木の留守を狙い、北条沼田勢は名胡桃城から進軍が見つからないように権現峠城を経由して、名胡桃城に攻め寄せた。中山九兵衛は、北条の手が来るやいなや大手の門を開けて功城軍を城に招き入れた。そのため城はたいした抵抗のないまま、落ちてしまったのである。

 一方鈴木主水は、上田の途中岩櫃城に立ち寄り、そこの城代矢沢薩摩守頼綱に上田に呼ばれている事を告げた。頼綱は「これは敵の謀略である。」と主水に「すぐに名胡桃に戻るように。」と兵百騎を付けて名胡桃に向わせた。しかし時すでに遅く、城は北条勢から名胡桃に千騎の兵を入れ乗っ取り、牛のくそ、雨乞山まで兵を配置して近づけない。

 鈴木主水はやむなく沼田正覚寺に入り猪俣に会い、降伏したように見せかけこれを殺害しようとした。しかし顔色を見て悟られついに、正覚寺の庭先において立ったまま無念腹という立ったまま腹を切って自害したのである。

矢沢急を上田に報告する

 岩櫃城代矢沢頼綱は、十月二十七日庄村右衛門尉、佐藤富之丞両名を上田に派遣したのである。当時昌幸は上京中であったので、信幸が上田城を守っていた。若く血気盛んな信幸はすぐさま名胡桃城を奪還するべきと一族家臣に図った。しかし一同は昌幸が上京中であるので慎重論が多勢を占め、まず岩櫃城に援兵を派遣することになり、祢津入道、鎌原、川原等五百騎を岩櫃に向わせた。そして、春原勘介、浦野兵部を使者として京都に向わせた。

 岩櫃城の矢沢頼綱は、北条軍の侵攻に備えて祢津幸直、鎌原、湯本、植栗、池田、浦野、川原、横谷、西窪の諸氏と吾妻二十五騎の面々にも厳重なる命令を下し、籠城の体制を取った。

 この時昌幸は、北条の名胡桃侵攻の情報を得ていたという説がある。これは、池波正太郎先生の「真田太平記」でてくるくだりである。どの資料をもとにしているか分からないが、小説の世界なのだが参考に載せておく。真田の忍びお甲が、武蔵国で絵師と出会う。その絵師は旧知の間柄で、忍びであった。その絵師から、「偽文書によって、北条が名胡桃に兵を進める。」と言うことを聞いた。これは、豊臣秀吉の謀略で一向に上洛しない北条に対して戦を仕掛けるきっかけを作るという物である。それをお甲が、いち早く昌幸に知らせたが秀吉の考えを察知した昌幸は黙殺した。と言う場面だ。故丹波哲郎の名演技に当時私も感動したのであるが、真実であるかどうか疑問の残る物であるが、参考までに解説しました。興味ある方は、「真田太平記」で確認して下さい。

北条氏の岩櫃侵攻

 天正十七年十二月中旬、北条氏邦は白井城に入城し、ここから吾妻郡侵攻を開始した。その数は一万とも言われ、箱島、小野子口、大戸口、中山口、大道口の五道から侵入しようとしていた。一方矢沢は、それぞれの出城にて敵をあしらいつつ北条勢を吾妻郡内におびき寄せ平川戸の館の内(吾妻川と山田川の合流地点)の断崖におびき寄せて、殲滅しようとする壮大な作戦を立てたのである。

・北条軍

 小野子・柏原口 長尾左衛門尉
 大戸口     多目周防守・内藤丹波守・小幡上総介・祢津□軒入道
 
 約五千騎

 大道口     留長助重等

 三百余騎

 中山口     猪俣(邦憲の子)・高力左近・竹内権八・山室助右衛門尉

 五百騎

・真田軍

 岩櫃城     矢沢頼綱・祢津利直・鎌原重幸・池田重安・植栗元信・浦野幸景
         その他信州の援軍

 市城口     祢津入道・鎌原・日置五右衛門尉

 七百余騎

 大戸口     真田昌君・池田・浦野

 六百騎

 中山口     祢津助右衛門尉・主膳兄弟・植栗

 三百騎

 大道口     川原左京・湯本

 二百騎

 十二月二十日頃、まず長尾勢が市城口より攻め寄せ、岩井堂の砦を破って乱入した。守備の兵はかねてからの作戦通り、中之条まで退却した。一方伊勢町古城の真田勢は、その側腹より只則の原へ出て長尾の兵と交戦した。他方中山、須川口の守りである横尾八幡の要害には北条勢の富永が、鉄砲を撃ちかけたがまもなく法螺貝を吹き須川まで撤退した。
 明くる天正十八年には北条勢の長尾勢が、古城を占領したが程なく真田軍が奪還した。
 この北条軍の吾妻侵攻が積極的に行われなかったのは、すでに京より豊臣秀吉による小田原征伐の情報が届いていたからである。

 ここで、矢沢頼綱と林昌寺について少し書かせて頂きます。林昌寺はおよそ五百年前の文安年中僧長馨の開山の寺である。戦乱のため大破したので、文禄三年(1594)矢沢頼綱が再建して真田氏の信仰が厚かった寺である。その昔は川原町に創建されたが、その後長岡の地に移転し、寛永元年町の移転に伴い現在地に移ったようである。現在の中之条町の町割は、矢沢頼綱の子但馬守の町割と伝わっている。矢沢氏についてであるが、矢沢頼綱の墓は上田市横尾の信綱寺にあるが、この林昌寺の場所も横尾である。これは何か関係があるのかも知れない。詳しくは中之条郷土誌を参照されたい。

小田原の役

 豊臣秀吉は天正十八年(1590)三月一日京都を発って小田原に向った。徳川家康、織田信雄は東海道より、前田利家、上杉景勝、真田昌幸は信州より上州方面へ、脇坂、九鬼、加藤(義明)、長宗我部らは水軍を率いて駿河清水港へ向う水陸両道より二十万を越える兵力による壮大な侵攻作戦である。

 四月三日、秀吉は有名な石垣山城を築き小田原城を長期包囲する作戦に移った。機内、中国、四国、九州を平らげた秀吉はもはや西には敵が居らず長期戦が可能だったのである。一方小田原の北条氏は、以前上杉謙信、武田信玄に攻められた時もびくともしなかった小田原城を頼り、籠城作戦に出たのである。しかし、包囲は四月より七月まで続き、関東の北条方の諸城は次々に落とされていった。万策つきた北条氏政、氏直はかの有名な小田原評定を続けていた。

 それに先立つ天正十七年十一月二十一日付けで、秀吉より昌幸に小田原征伐の内命があった。昌幸は岩櫃城に兵五百騎を増援し、岩櫃城代矢沢頼綱を中心に北条に備えたので、北条方も積極的には動かなかった。

 十八年三月下旬、東山道の総大将前田利家より案内を依頼された昌幸と信幸は、麗砂塚峠を越え鎌原に進出した。そのときの諸将は、信州の諸氏と利根より信州に集結を命じられた沼田の諸氏が中心であった。そしてついに昌幸は吾妻衆の小田原参戦部隊に出動を命じたのである。

 岩櫃城の留守部隊は、城代矢沢頼綱を中心に山田与惣兵衛、池田甚次郎、川合八左衛門、山遠賀五左衛門、蟻川入道等の諸氏が当たりその他は小田原参戦部隊に組み込まれた。鎌原から岩櫃に指示を与えると、小田原参戦部隊の諸氏はすぐさま出陣して大戸を抜けて松井田の北方細永原に集結した。昌幸も間髪入れず、浅間の麓より碓氷郡川浦の近道を抜けて吾妻衆と合流した。

 この松井田城の攻防はの吾妻諸氏の奮戦はものすごく、中でも割田下総、佐藤半四郎(折田軍兵衛)、富澤主水(和泉)の奮闘は目を見張るものがあった。特に富澤主水は敵の副将由良信濃守を鉄砲で狙撃し、これを倒すという殊勲をあげ昌幸より感状と銘刀並びに金一封を賜っている。

 松井田城の攻防は翌月の四月二十日まで及んだが城はついに落ち、城将大道寺は降伏し後小田原で切られた。東山道軍は勢いに乗って安中城を抜き、更に四月二十四日西上州北条の最大の拠点箕輪城も、落とした。更に長尾政景の白井城を渋川方面より攻撃してこれを下し、政景は越後に逃れた。沼田城の猪俣は、いち早く沼田城を逃亡していたのでそこに富永助重を入れた。五月二十七日館林城を落とし、ついに上州三十八城北条方の諸城はすべて陥落したのである。

 東山道軍五万数千は更に、六月十四日北条氏邦の守る武州鉢形の城を陥落させ、同二十三日には八王子城を抜き、小田原城に迫った。

 秀吉は翌二十四日北条に対して降伏を勧告し、七月五日ついに小田原の北条氏政、氏直は降伏して天下の巨城小田原城も落城したのである。氏直は家康の娘婿と言うことで、高野山追放し、氏規もこれに従わせた。氏政、氏照は切腹となった。早雲以来、約一世紀続いた北条王国はここに完全に滅亡したのである。秀吉は関東の地に徳川家康を封じ、ここに小田原征伐は終結して、秀吉の天下統一がなったのである。

沼田藩の成立

小田原の役の後の利根・吾妻

 天正十八年関東王国を誇った、後北条氏は小田原の役で滅亡した。豊臣秀吉はこのときの昌幸の戦功により、利根、吾妻、信州上田の領有を認めた。晴れて昌幸は、豊臣大名として独立したのである。

 昌幸は上田にあったので、沼田城は長子信幸に与えて二郡二万七千石を領有させた。この沼田藩は、天和元年十一月その孫伊賀守信澄が徳川綱吉によって改易になるまで、五代九十一年の間、真田氏による沼田統治が行われた。

 慶長五年の関ヶ原の駅においては、信幸は東軍徳川家康に付き、昌幸と弟信繁は西軍石田三成に着いた。父子分かれた戦いは東軍勝利となり、信幸はその功により六万三千石(昌幸の旧領上田)を加封された。

 一方敗れた昌幸と弟信繁(幸村)は、信之(関ヶ原の後改名)の助命嘆願により高野山九度山に蟄居を命ぜられた。信之は父の遺領と共に、沼田も二万七千石から三万石に加増され、合計九万石の地を領有する事になったのである。

 慶長二十年五月の大坂夏の陣では、信之は出陣せず信吉と信政を大阪に向わせて、大いに戦功があった。特に豊臣に組みした真田信繁は、島津に「真田日之本一の強者なり」と言わしめるほどの武功をあげたのである。

 戦終わって元和二年、信之は上田に入り、沼田は長子信吉に統治させたのである。

沼田統治下の岩櫃城

 天正十八年の小田原の役には、岩櫃城は北条氏との最前線基地としての役割を果たした。現在残る岩櫃城の遺構は、このとき拡張されたものだろう。それ以前は、志摩小屋の虎口あたりが城の北端だったと思われる。

 小田原の役後は、吾妻統治の中心となったのである。この城に城代を置き、吾妻郡奉行所をこの城においた。城代は、池田佐渡守や出浦対馬守などの名前が見える。現在の出浦渕は、出浦対馬守の屋敷跡と伝わる場所である。関ヶ原の役においても北国の押さえとして、重要な役割を担っていたと思われる。

 大阪の役で豊臣家が滅び、徳川の天下が確定した後の岩櫃城はその役割を終え、一国一城令と共に元和二年破却された。このとき城の主要部は城割によって、作事され城としての機能も失われたと思われる。このとき吾妻の中世以来の城郭も破却されたのではないでしょうか。

 慶長十七年~元和二年の岩櫃城破却までの二十年間は、出浦対馬守が城代として吾妻の地の統治を任されていたようである。現在吾妻、松代に残る古文書により確認できる。岩櫃城破却後は、「原の新町字御殿(現在の日赤病院)」に原町陣屋が設けられ、一郡の政務を取り仕切っていた。現在の原町日赤建替え前には、この病院の西側に石垣と水路があり当時の面影が残していた。出浦氏の舘は、原町南町にあったようである。

関ヶ原の戦いと岩櫃城

会津征伐

 慶長三年(1958)豊臣秀吉は亡くなり、天下の実権は五大老筆頭の徳川家康に移ろうとしていた。五大老の一人上杉景勝は、秀吉没前越後から会津に移封になり秀吉没後会津にて新領地の統治を固めるために、会津に下っていた。

 家康は、度々景勝に対して上洛するように命じたがその命を聞かず、家康に対して反抗的な文書を送ってきた。「直江状」である。

 家康はついに伏見を発ち、慶長五年(1600)七月二十一日江戸を出発して上杉討伐に向った。その頃真田昌幸父子は、栃木県佐野の犬伏に到着していた。この真田の陣に石田三成から、密書が届き西軍加担を誘った。父子三人は犬伏において軍議を開き、協議の結果昌幸、信繁(幸村)は秀吉の恩顧を主張して西軍、信幸は家康の恩顧を主張して東軍に付くこととなった。

真田の関ヶ原

 昌幸、信繁(幸村)は七月二十九日急拠上田に帰陣することとなった。上野に入った昌幸は、沼田に到着した。沼田は信幸の留守を小松姫が預かっていた。昌幸は沼田城を占拠するつもり居たようだ。昌幸は使者を城内に使わし入城を申し入れた。しかし気丈な小松姫は、「たとえ舅であっても今は敵味方である。」と入場を拒否して、城下正覚寺を宿舎としその労を厚くねぎらったのである。

 かくして昌幸は沼田入城を諦め、赤谷川から須川へ出て大道峠を通り岩櫃をさけ沢渡に出て、暮坂の手前から高間を抜けて横谷に出た。此処の地は吾妻峡の天険を守って、横谷左近が居住していた。昌幸と左近は、永禄以来深い関係であったので、昌幸の軍隊の吾妻通過を格別に便宜を図った。これに感謝した昌幸は、左近に感状を与え、礼として松尾村と林の一部で九十貫文の土地を与える書き付けを与えている。この書き付けの日付が、慶長五年八月一日になっているので、おそらくこの頃此処を通過したと思われる。また左近の弟庄八郎重氏はこの時昌幸に従った。

 かくして昌幸は長野原から大笹を抜け鳥居峠を越えて、無事に上田に到着したのである。ここに、第二次上田合戦となるのである。昌幸は巧みな戦術で三万八千にも及ぶ徳川秀忠軍をわずか三千とも二千五百と言われる兵で翻弄し、秀忠軍を関ヶ原の合戦に間に合わせなくしたのであった。

 しかし、天下分け目の関ヶ原の合戦は徳川方がわずか一日で勝利し、西軍は敗れて昌幸、信繁は高野山に流罪となったのである。おそらく昌幸は、関ヶ原の合戦がもっと長引く物と思っていたのかも知れません。

 そして信之は、家康により沼田に五千石加増になり三万石、上田(昌幸旧領)六万石と合わせて九万石の大名となったのである。この信之の真田家はその後松代十万石に転封になるが、明治の廃藩置県の時まで生き残るのである。

関ヶ原の戦後処理

先駆けの軍令違反の処理

 牧野康成(大胡城主)及び旗本七騎が上田合戦の軍令違反により、岩櫃城に幽閉されたとある。牧野康成は、この忠政とその部下が軍令に背いたことにより岩櫃城に幽閉された。数ヶ月の後に罪は許されたのであるが、その後も岩櫃城にとどめおかれ慶長九年三代将軍家光(竹千代)誕生による大赦により許され五年ぶりに大胡に帰ったとある。

 上田七本槍とは、小野次郎左衛門忠明(柳生但馬守と共に将軍家指南役後に失脚)、鎮目半次郎惟明、中山勘解由照守、土田半平光正、辻左治右衛門久吉、斎藤久右衛門信吉、朝倉藤十郎宣長の七人である。よく慶長六年四月には、戸田半十郎重安も岩櫃城に送られた。旗本では軍令違反で、この八人が岩櫃城に送られたようである。軍令違反の罰として岩櫃城の守備を命ぜられたことは、興味深いことである。

 この事についての伝説が二つあり、「修験岩櫃語」等に記されているので紹介したい。
1.八人岩屋の伝説(修験岩櫃語)

 白いの鉄砲隊の者達はその新兵器を自慢して、この山の天狗であろうと鉄砲の前にはどうすることも出来ないであろうと誇示した。ところが不思議のことに山中がしきりにあれてきて、その夜の内に八人が取り殺されて、岩屋の内に投げ込まれてしまった。今でもそこには白骨があると言われている。そこを八人岩屋といって土地の人は恐れをなしている。

 これはこの八人の旗本が幽閉された岩屋のことが、誤って伝わったものであろう。

2.妖怪の出没(吾妻記)

 この頃岩櫃山はことごとく荒れ、光り物などが飛び渡り、大石、大木などをなぐる音が絶え間なく聞こえてきた。また千人ばかりがいっぺんに笑う声などがして、ものすごい有様であった。そうして多くの人々が絞め殺されたり、その他不思議なことがあって言葉では言い尽くせない。

 この伝説は、昌幸が自分に味方する武士、百姓達を集めて岩櫃城を背後から撹乱したゲリラ戦法のもようが、伝説的に伝わったものであろう。

 こういう伝説の中にも、真実が隠されている。伝説がすべて絵空事として捉えず、こういうものの中からも歴史的事実が抽出出来るように思います。

3.現在に残る地名

但馬屋敷   深い但馬守の居住したところと伝えられている。(狐のカミソリが咲き乱れているところ)

祢津曲輪   祢津志摩守幸慶の屋敷のあったところと言う。現在の水曲輪で、祢津曲輪が「みずぐるわ」となまって現在に至っている、と伝わっている。

 この祢津志摩守の屋敷跡と伝わる言い伝えの一説であるが、現在管理者が遺構周辺を見た感じだと、志摩小屋の虎口の南側に屋敷跡と思われる平場があり、その反対側(沢を隔てて)現在の水曲輪の平場の一郭に土塁の跡のある遺構がある。想像するに志摩小屋の平場と、水曲輪の平場が木橋などで繋がれ、その二郭が一つとなって祢津志摩守の屋敷跡として岩櫃城の防護の一郭となっていたのではないかと思われる。(管理者意見)

道秀曲輪   これは桜井道秀という医師の屋敷があったところと伝わるところである。ここは沢の名前が、どしょう沢として地名が残っている。(管理者未確認)

 以上、伝説や地名の解説をした。このように伝説の中にも事実が隠されており、伝説だと簡単に片付けられないと思います。また地名についても、多くのことが残されている。その小字、またはもっと狭いところの地名も時代と共に忘れ去られようとしているのは残念なことである。こんな事、在所の名前にも時代のヒントが隠されているのではないでしょうか。

戦後処理

 関ヶ原の戦いの後、昌幸、信繁父子は死罪と決まった。しかし、長子信之の歎訴に拠って死罪を免れて紀州九度山に蟄居となった。はじめ高野山に蟄居だったのが、昌幸の奥方山の手殿や信繁の奥方竹林院(大谷刑部義継の娘)をともなっていたため女人禁制の高野山には入れず、やむなく麓の九度山となったと思われる。ここに置いて昌幸は十一年の後、慶長十六年六月多彩な一生を終えた。このとき信繁に、大坂豊臣家勝利の秘策を授けたとも伝わっている。一方信繁は、大阪の役の折、豊臣秀頼の招きに応じ大阪城に入城。真田丸の構築により徳川軍を撃退するなど、最後の死闘を繰り広げ慶長二十年(元和元年)五月、徳川家康の本陣を脅かすもついに壮絶な討ち死にを遂げた。その武勇は薩摩の島津家をして、「真田日本一の兵(つわもの)」と言わしめた。

 一方信之は沼田二万五千石を三万石の加増と共に、上田三万八千石を加増されて沼田上田を合わせ領有するようになった。

 なほ岩櫃城は、ある時期まで徳川の管理下に置かれていたのだが慶長六年四月以降真田に返されたと思われる。

岩櫃城廃城

大坂の陣と平川戸の市

 慶長十九年江戸の徳川家康と大坂の豊臣秀頼の間は風雲急を告げて、一触即発の状態であった。秀頼は太閤恩顧の大名に密使を送りその協力を求めたが、誰もこれに従う者はいなかった。大坂方は、やむなく諸国に散在していた浪人を集めた。それでもその浪人衆の中には、真田信繁、長宗我部盛親、後藤基次、壇団右衛門など名だたる歴戦の勇士もおり、その数は十万にも及んでいた。

 そんな折、岩櫃城下の平川戸では室町以来「吾妻市」といって郡内一カ所の市が開かれておりなかなか賑やかであった。慶長十九年、吾妻市は盛大で城内に集まる在所の百姓、武士は、大手バンショウ坂、搦手の切沢口より集まり活発に交易が行われていた。

 当時の沼田城主は真田伊豆守信之で、大坂にいち早くはせ参じた信繁実の兄である。信之を信用していた家康であるが、この事を考えると幕閣が信之を疑うのも無理からぬ事である。信之は痛くもない腹を探られるのを嫌い、当時の吾妻郡代で岩櫃城にあった出浦対馬守に命じ、平川戸の町を現在の原町に移すこととなった。対馬守は平川戸の町を絵図にして、原の新町の屋敷割りをして段々移した。

 当時の原町は田畑はなく、芝野であり、観音原といった。この頃の観音原に「いちようや」という名所があり、そこに「光原寺」という寺があった。この光原寺に立派な観音像があり、夜な夜な光を放っていた。土地の人達はこの寺を「光原寺」と呼び、また原の名も「観音原」といったという。この観音像は約七十五糧の正観音像で聖徳太子の作といい土地の人の信仰も厚かった。後原の新町が出来てからは顕徳寺内に移された。ちなみにこの顕徳寺(専念寺)は、出浦対馬守の建立と伝わっている。

岩櫃城の破却

 前記のように平川戸の町を、原の新町に移した後信之は岩櫃城を破却したのである。家康に疑われて岩櫃城を信之が破却したように記述する書もあるが、大坂夏の陣が終わると家康は一国一城令を出した。これに従い、信之は岩櫃城を破却したと思われる。

 吾妻の地には戦国の時代から多くの大小の城や寄居があったが、「小田原の役」の後、吾妻の地において昌幸は岩櫃城を残しことごとく破却していた。当時沼田藩の領地は、利根郡と吾妻郡でありそこを一国といっていた。そこで一国一城令に従い、沼田城のみ残し岩櫃城破却したと思われる。

 慶長十七年~二十年(元和元年)に破却を開始して、元和二年になり完了したと思われる。岩櫃城破却の後、原原町日赤の地に吾妻郡奉行所を新築した。この奉行所は、本殿と役所があり、本殿は信之が信州より沼田に行く際の休憩所として使われ、役所は吾妻郡の政治画を司るところで沼田藩の吾妻郡奉行所のおかれたところである。現在その地は、「御殿」という地名で呼ばれている。ちなみに原町バイパスのセブンイレブンのある信号は、「御殿」とその地名を明示している。

おわりに

 岩櫃城の歴史については、この元和二年の破却完了を持って終了する。このような山城は、封建の世になれば政治の中心としては不向きで必然的に現在の原町、御殿の地に移った物と思う。現在の岩櫃城の遺構は廃城による城割の後の遺構なので、その全容を見るには無理があります。しかしその残った遺構から、その堅城ぶりはうかがえます。藪の中に埋もれた遺構や、壊された遺構などからその城の作りを想像し城の全容を作り上げていくのもこれからの人に託された役割かも知れません。時間がかかっても、人手がようでもこれは地元の人達の役割であろう。現在において、城跡のみではなかなか観光資源にはならず、岩櫃山やその周辺を入れ登山、也自然観察など色々取り入れた活用が必要になるだろう。いずれにしても、行政と町民が一緒になって考えなくては前には進めないような気がする。