関東の戦国の幕開けと時代背景

 関東は15世紀には応仁の乱に先駆け、「上杉禅秀の乱」「享徳の乱」「長享の乱」と続けざまに争乱が起こった。南北朝の統一がなり、一時平穏な日々がおとずれたが鎌倉公方と関東管領上杉氏の確執が高まっていった。鎌倉公方も初代基氏、氏満、満兼、持氏と4代目で「上杉禅秀の乱」が起こる。代が下ると共に、室町将軍家との対抗心が生まれ室町将軍家寄りの関東管領家との確執が起こる。鎌倉公方持氏の時に、当時関東管領であった上杉禅秀(犬懸氏規)とうまくいかなくなる。ここから関東は争乱が豊臣秀吉の「小田原征伐」まで、戦乱が続くのである。

 当時の関東はトップの鎌倉公方と、NO2の関東管領が存在していた。鎌倉公方は世習で、関東管領は室町将軍家が任命していた。関東管領は上杉氏が代々つとめ、室町将軍家が任命権を持っていた。そんなところに、戦乱の火種が潜んでいたのかも知れない。

 鎌倉公方と関東管領の争いは、室町幕府も巻き込み大規模な戦いとなっていく。そして京で「応仁の乱」が勃発すると、中世の権力構造は崩壊していく。関東各地の国人と呼ばれる領主達は、自家の存続という利害で行動するようになる。つまり下剋上の始まりである。享徳の争乱と長享の乱で長尾景仲、長尾景信(上野白井長尾氏)、太田道真、道灌親子などが活躍し、長尾景信の子景春による反乱なども有り関東は乱れに乱れていた。

 そんな戦乱の間隙を縫って、伊豆より伊勢新九郎(北条早雲)の台頭を招いた。越後では、守護の上杉氏の勢力が弱まり長尾為景(上杉謙信の父)が台頭する。当時の関東は、越後も巻き込み、戦いに明け暮れていた。ここでは、「関東管領上杉氏」の項と重なる部分はあるが、さらに詳しく時系列で追ってみようと思う。

室町将軍家と鎌倉公方の対立

 室町将軍義詮(2代)と鎌倉公方基氏(初代)は兄弟で、この時代の両者はうまくいっていた。天寿5(1379年)年京都で管領細川頼之が失脚する政変が起こる。その頃義詮、基氏兄弟はなくなっており、室町将軍は義満、関東公方は氏満で代替わりしていた。この政変の時氏満は、反頼之派の諸将に呼応して鎌倉を出陣した。義満の従兄弟である氏満は、中央政界への野心があった。

 この時関東管領上杉憲春は、鎌倉と京都の対立を懸念し諫死を持って氏満を止めた。この時は氏満が、義満にわびを入れることで収まりは付いたが氏満の野心は消えることはなかった。その頃の関東では、京都扶持衆(室町将軍家から領地を保証された者)と鎌倉公方の側近(鎌倉公方に裁判権のある国人達)と二つの勢力が存在していた。関東管領上杉氏は、室町将軍家よりである。憲春の後任となった山之内憲方は、室町将軍家寄りの人物で氏満、憲方の対立は深まっていった。こんな所に関東争乱の火種が、潜んでいたのである。関東の国人は、自分の利害も絡み二つに分かれ戦乱に巻き込まれていくことになる。関東の争乱の火種は、享徳の乱の75年前から始まっていた。

 明徳5(1394年 7月に改元応永1年)関東管領の山内上杉憲方が死去する。関東管領家の中でも、主導権争いがあった。本家(山之内)と分家(犬懸)の対立である。憲方の跡は、氏満の信任が厚かった犬懸朝宗が関東管領となる。犬懸上杉(上総守護)が朝宗、氏憲(禅秀)と2代にわたり関東管領を独占する。犬懸上杉は2代で関東、東北の諸将と縁戚となり勢力を拡大していった。

 犬懸上杉の台頭を危惧したのは、山内上杉と4代鎌倉公方足利持氏だった。特に持氏は叔父である満隆と氏憲が手を組み鎌倉府の実権を握ろうとしていると疑い、評定の対立をきっかけに氏憲外しを行った。新たに、山内上杉憲基を関東管領としたのだ。

上杉禅秀の乱

 この事をきっかけに、上杉氏憲(禅秀)の反撃が始まった。氏憲は満隆、岩松満純、那須資之ら東国の国人達と共に、応永23(1416年)年10月兵を挙げて鎌倉に押し寄せた。この時憲基は越後に逃れ、持氏は駿河に逃れた。これに驚いた駿河守護、今川範政は直ちに幕府に急報したのである。

 第4代将軍足利義持は、直ちに氏憲討伐を決め今川範政、越後の上杉房方(山内上杉の分家)、信濃の小笠原政康、佐竹義人などが出陣して翌年には氏憲方が敗北し氏憲、満隆、持仲が自害してこの乱は収束した。

 この時氏憲方の主な者は甲斐の武田信満、下総の千葉兼胤、常陸の小田持家、同じく常陸の大掾満幹、下野の那須資之、上野の岩松満純などである。一方持氏方は山内上杉憲基、駿河の今川範政、信濃の小笠原政康、下野の宇都宮、常陸の佐竹義人、越後の山之内上杉房方などである。この乱により犬懸上杉氏は勢力を失い、関東の勢力図も変わっていったのである。

足利持氏の暴走

 鎌倉公方と関東管領の争いは幕を閉じたが、鎌倉公方と室町将軍家の関係が悪化してしまう。上杉氏憲が没落したことにより、上総の守護が空きとなり次の守護を決めなければならなかった。守護の任命は、鎌倉将軍家の専権事項であった。室町将軍義持は、後任にこの乱の功労者である宇都宮持綱を勝手に任命した。持綱は京都扶持衆で、反鎌倉を鮮明にしていた武将である。その他氏憲に同調した京都扶持衆、常陸の山入氏、小栗氏、真壁氏、甲斐武田氏、下野の宇都宮氏の処分は出来なかった。幕府は、京都扶持衆の処分を穏便に済まそうとしたのである。鎌倉公方持氏は、この処分を快く思うはずもなかった。持氏は不満を募らせ、自らの手で討伐を進めた。

 持氏は上杉禅秀の乱終結の翌月、甲斐の武田信満を討伐し、その翌月には上野の岩松満純を攻め滅ぼす。応永25(1418年)年に氏憲被官の国人一揆、上総本一揆、応永29(1422年)に山入与義、応永30(1423年)年に小栗光重と宇都宮持綱、応永31(1424年)に真壁秀幹、応永33(1426年)年に大掾満幹と京都扶持衆を次々と滅ぼした。また、応永30(1423年)年から越後国で守護上杉頼方と守護代長尾国景が武力衝突していた。これにも、持氏は介入したのである。

 これには幕府も放っておけるわけもなく、将軍義持は氏憲の子、上杉憲方を東下させる。こうして、幕府と持氏の関係も急速に悪化していった。
 上杉氏の中でも、犬懸上杉氏が没落したことにより山内上杉氏の勢力が必然的に増していき、持氏と上杉氏の間でも対立するようになる。この後、さらなる大乱となるのである。

鎌倉公方と関東管領の対立構造

 応永35((1428年)4月改元正長1年))年、第4代将軍足利義持が死去する。義持の子義量はすでに亡くなっているので、くじ引きにより義持の弟義教が新将軍に就任する。この人選に不満を持っていたのが、鎌倉公方足利持氏であった。持氏は、義持の存命中に義持の猶子となっていた。つまり、自分が室町新将軍になるべきであると、考えていたのである。ここで、持氏と義教の対立構造ができあがってしまった。

関東管領の立ち位置

 関東管領は、関東のNO2である。そして鎌倉公方と室町将軍家との緩衝役にもになっていた。持氏と共に犬懸上杉氏憲を追い落とした、山之内上杉氏であるが今度は持氏とも対立が始まる。室町将軍になりい持氏と、室町将軍家寄りの関東管領山之内上杉氏の対立構造もまた、必然であったと思う。

 持氏は引き続き、京都扶持衆の討伐を行っている。正長2((1429年)9月改元永享1年))に、下野の那須家と陸奥の白川結城家を討伐。永享5(1433年)には、鎌倉から逐電した甲斐の武田信長、駿河の今川家家督争いにも介入した。
明らかに、鎌倉公方持氏の越権行為である。
 永享6(1434年)年3月持氏による関東諸将征伐と東国支配の貫徹を祈る血書願文を、鶴岡八幡宮に奉納し、同年8月には延暦寺に将軍義教の呪詛を依頼している。

 激怒した義教は、11月土岐持頼を延暦寺に出陣させている。永享7(1435年)年には京都扶持衆、常陸の佐竹一族長倉義成を攻め滅ぼした。もはや、都鄙の対立は避けられない状況となっていた。この間武力衝突を何とか回避していたのは、関東管領上杉憲実の尽力のおかげであった。

鎌倉公方と関東管領の対立

 しかし、憲実の行動は持氏にとって面白うはずがない。永享8(1436年)年、信濃の守護小笠原家と国人村上家が対立した。村上家から持氏に支援の要請があったが、憲実は信濃国が幕府の管轄国であることを理由に出兵を拒否。さらに永享10(1438年)持氏の嫡子賢王丸の元服に対して将軍義教の偏諱を受けなかったことを理由に、憲実は賢王丸の元服式への出仕を拒否。ここに至って両者の対立は、決定的となった。

 山之内上杉家家宰長尾忠政の仲介、扇谷上杉の持朝、下総の守護千葉胤直野仲介も失敗し、もはや収拾が付かない状態になっていった。このような状態が続き、関東の武家も二分され一触即発の状態となっていた。

永享の乱

 永享10(1438年)8月14日、関東管領上杉憲実は所領の上野に帰る。鎌倉公方持氏は、憲実追討の兵を挙げる。将軍専制を目指していた将軍義教は、ついに持氏追討の綸旨を朝廷からえて、朝敵として持氏追討を決めた。錦の御旗は笹川公方足利満直に与えられ駿河、関東、東北の国人に対して戦闘の準備をするように命ずる。ついに持氏は朝敵として、憲実のみならず幕府軍をも相手にする事になった。永享の乱の勃発である。
主な諸将をあげれば足利持氏方として結城氏朝、那須資重、上杉憲実方として駿河の今川範忠、甲斐の武田信重、相模の三浦時髙、下総の千葉胤直、下野の小山持政、そして陸奥笹川公方の足利満直だ。これを見れば、最初から勢力差があったのである。やはり朝敵となれば、不利である。

 持氏は一色直兼らに兵を当たらせ上野国に向かわせ、自身も出陣して府中高安寺に布陣する。8月21日には相模の川村城を落とし、9月8日には持氏派の那須資重が小山持政の祇園城を攻め12日には城番の小野寺朝道を破った。初戦は、圧倒的に持氏が有利に展開していた。しかし、幕府は在京していた犬懸上杉則朝を大将とした討伐軍を関東に下向させた。討伐軍は9月10日頃には伊豆を超え、持氏軍を破りさらに東進する。信濃、越後軍は上野平井城で憲実と合流して持氏軍を破る。朝敵となった持氏は、離反する者があいつぎ劣勢は拭いきれぬ物となっていた。

永享の乱収束

 上杉憲実は永享10(1438)年10月6日、信濃軍を上野に置き越後軍と共に武蔵国分倍河原に着陣した。11日には持氏を裏切った三浦時髙、二階堂盛秀が鎌倉に攻め寄せる。持氏嫡男(義久)は報国寺に逃れたが、持氏自身は鎌倉に帰れなくなってしまった。分倍河原にいた憲実は、山之内家家宰の長尾忠政をして和睦の使者として持氏のもとへ送った。11月2日ついに両者の和睦が成立する。しかし、和睦とは名ばかりで完全に持氏の敗北であった。持氏は公方館に戻れず浄智寺に入れられ、その後永安寺に移される。さらに金沢称名寺に移され、出家を強要される。この頃には、すでに持氏の側近の多くは切腹をさせられていた。その後再び、永安寺に戻る。
 関東管領山之内憲実は、幕府に対して持氏の助命を嘆願していたが、当然のごとく将軍義教は持氏を許す気が無く、永享11(1439)年2月10日に千葉胤直、上杉持朝らに永安寺を攻めさせ、持氏は自害する。報国寺にいた持氏嫡男義久も自害を遂げた。これにより「永享の乱」も収束となり鎌倉公方家はいったん滅亡することになる。永享の乱の場所は、相模の周辺に限定され3ヶ月で収束したが、これ以降の関東に大きく影響していく。

結城合戦

 持氏が死去していったんは鎌倉公方は滅びるが、持氏を慕う武将は関東に多く居た。足利尊氏から続く貴種という出自も、関東をまとめる元になっていたのも事実であった。そして、この持氏の血筋が絶えてしまったわけでは無かったのである。鎌倉府の実力者で関東管領上杉憲実は、持氏の自害をきっかけに引退、出家して伊豆に引きこもってしまっていた。つまりその頃の関東は鎌倉公方、関東管領不在という非常事態に陥っていたのである。この両者の不在により、関東の諸将は自分たちのもめ事の仲裁者が不在のため、自分たちで解決しなければならない状態となっていた。

 そんなとき起こった争乱が、「結城合戦」である。永享12(1440)年3月3日、持氏遺児安王丸と春王丸を擁立し、上野の岩松持国が兵を挙げた。そしてそのまま兵を西に進め、下総の国人結城氏朝の居城、結城城に向かい入れられその城の名前をとって「結城合戦」と呼ばれている。氏朝は関東諸将に書状を出し、合力を求めた。これにより、旧持氏派の諸将が結城城に集まってきたのである。南奥州では石川持満などの国人集が反上杉の兵を挙げ、笹川公方足利満直を殺害。当時の関東管領は、山内上杉清方ですぐに動員を掛けた。山内上杉の家宰で上野・武蔵守護代長尾景仲は、早くも3月15日には出陣している。伊豆に隠棲していた憲実も鎌倉に呼び戻され、鎌倉に入り5月11日には神奈川に出陣した。幕府側からも岩松家純、上杉禅秀の子で京に出仕していた犬懸上杉憲朝・持房兄弟も鎌倉に向かい出陣して、7月末には早くも結城城を取り囲んだ。上杉憲実も8月には下野国祇園城に入り、奥州勢を牽制した。

 結城城は1年以上の籠城戦に絶えたが信州勢などの幕府側の加勢により、永享13(1441)年(嘉吉元年)4月落城して結城氏朝、持朝父子は戦死した。これを「結城合戦」と呼ぶ。この時の信濃守護小笠原勢の中に、実田という名前が見え、これが真田氏の本ではないかという議論もある。この信州勢の中には、海野勢もあったかも知れないがはっきりはしない。これにより安王丸と春王丸は殺され、結城合戦は収束する。

鎌倉府の再興

 先の結城合戦では、持氏遺児の「安王丸」「春王丸」は、室町将軍家に否定され、鎌倉公方復活にはならなかった。しかし、もう一人の遺児「万寿王丸」母方である信濃国の大井持光預けられて育っていた。この大井一族は、甲斐武田源氏の親戚衆であるが山之内上杉氏と近い存在であった。

 嘉吉の乱で七代将軍義教は、赤松満祐に殺され八代将軍は子の足利義成(後の義政で応仁の乱の当事者)が八代将軍に文安4(1447)に就任する。これを契機に持氏以来鎌倉公方不在であったが、万寿王丸は許されて将軍義成の「成」の一字を諱として与えられ、同年七月鎌倉西御門邸に迎えられて元服し足利成氏となった。官職は「左馬頭」で、関東公方となった。そして永享の乱の一方の当事者、憲実が隠退しその子憲忠が関東管領の後を継ぐ。関東は公方成氏と管領憲忠という新体制になって始まるのである。しかし、成氏にとっては憲忠は、「父持氏殺害に関与した子」という気持ちがあり、最初から問題を抱えての出発であった。

 新鎌倉公方成氏となって関東の体制は復活したのですが、問題は山積みでした。鎌倉公方持氏の側近は、国人領主達で敗者となったことから勝者サイドの上杉氏に近い国人領主、上州、武州の一揆などに所領や権益を奪われ、上杉被官長尾氏(山之内上杉氏家宰)、太田氏(扇谷上杉氏家宰)勢力が増大していたのです。この頃の情勢は、「鎌倉大草子」に詳しい。

 太田、長尾は上杉を仰ぎ憲実の掟の時の如く関東を納めんとす。此両人その頃東国不双の案者なり。又成氏の出頭の人々梁田、里見、結城、小山、小田、宇都宮、そのほか千葉新助、成氏の見方と成て、色々上杉を妨げ権威を振るいける間、両雄は必ずあらそうならいなれば、太田、長尾と其間不和に成。

 とある。まさに、一触即発の状態であった。その頃の山之内上杉の家宰は長尾景仲(昌賢)、扇谷上杉の家宰は大田資清(道真)である。特に長尾景仲は後々太田資清の子資長(道灌)に「扇谷の領地は、長尾にも及ばない」と嘆いたという。この事を予感していたのか上杉憲実は隠退するとき、自分の子達に、「関東管領職は継がないように」と伝えている。憲実は自分の子らを、こんないざこざに巻き込みたくなかったのでしょう。そして、関東は憲実の予想していたとおりに展開していくのである。

<参考文献>


享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ)

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