参考文献


関東管領上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)


関東管領・上杉一族

関東管領上杉氏

藤原重房の関東下向

 吾妻斉藤氏の(主)寄親でもある前上杉氏は、藤原氏の庶流勧修寺流の出で藤原重房の時に関東下向した。この重房は式乾門院利子の蔵人で、現在の総務担当といった所です。この役所は、公家の官位五位、六位のものが勤めていた。

 鎌倉幕府は源家の「頼朝」「頼家」「実朝」と三代で途絶え、幕府は左大臣九条道家の子「頼経」を新将軍に迎えた。次にその子頼嗣が五代将軍となったが、幕府は承久の乱以降親王将軍を朝廷に対して要請していた。

 宗尊親王将軍の実現は、そんな幕府(北条執権家)の要請に対して実現したと思われる。宗尊親王将軍の関東下向の折、祗候の公家は吉田中納言為経、土御門宰相中将顕を初め多くの公卿達が同行した。その中に藤原重房も含まれていた。

 この供奉の時の重房は、丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)の所領をえてこれ以降「上杉」の姓を名乗るのである。この地の近く同市の安国寺町で五十年ほど後に上杉清子が「足利尊氏」を生むことになります。

 足利氏との関係

 足利氏は、新田氏と共に鎌倉将軍家において御家人として重鎮となっていました。重房関東下向の頃の足利氏の当主は、足利泰氏でした。この親王将軍の就任の時の、前将軍頼経、頼嗣親子とのごたごたで泰氏は、突如剃髪し足利の庄に籠もってしまった。この政治的事件を、重房はどんな思いで見ていたのでしょうか。重房は、足利家のことを興味深く見ていたのではないのでしょうか。};

 そして重房の娘は足利泰氏の子、頼氏に嫁し家時を生みました。また一代飛ばして貞氏は上杉頼重の娘清子を側室(正室は、執権北条家の傍流金沢顕時の娘)として、尊氏、直義兄弟を産んだ。大豪族の足利氏と貴族のでの上杉氏は、徐々に関係を深めって言ったと思われる。

 貞氏の父家時置文(遺言)「難太平記」には家時のことについて「家時の御代に当たり、なおも時来たらざる事をしろしめしければにや、八幡大菩薩に祈り申し給ひて、わが命をつづめて、三代のなかに天下をとらしめそうらえとて御腹を召され也。」とある。この置文は、先祖の八幡太郎義家の置文を受けている。「わが七代の孫に、我生まれ変わりて天下を取るべし」と。この七代の孫とは、義家の子義国から数えて家時の代になっている。

 この家時置文を、足利尊氏、直義兄弟と「難太平記」の編者の今川了俊が見たとある。これは、難太平記の記述であるが、このときより足利尊氏は天下を目指したとあります。このときはまだ、鎌倉時代の末期のことでした。

 これより後、新田義貞の隆起、足利尊氏の後醍醐天皇方への転身により鎌倉幕府及び北条執権家は滅び去りました。そして建武の新政となります。しかし時代は、天皇親政にはなびかず、武家の天下を望んでいました。そこで武家の代表足利尊氏が、新たに北朝を立て征夷大将軍となり南北朝の時代に突入していきます。

 しかし、尊氏が開いた室町幕府は大変不安定で、軍事を尊氏と家宰高師直、政務を尊氏の弟直義が執り行う二元政治が行われていた。最初に失脚したのは、高師直です。足利直義と高師直の確執が進み、ついに尊氏も高師直を処分しなくてはならなくなったようです。

 そしてついに尊氏は、直義とも対立することとなった。直義は一時的に南朝方になって抵抗したのですが、最後には尊氏に滅ぼされています。そのときに上杉重房の曾孫上杉憲顕は失脚し、越後国に隠棲しました。

足利氏系図

 上杉憲顕、関東管領になる

 後醍醐天皇がみまかり、足利尊氏が亡くなると、二代将軍は義詮となり鎌倉公方は基氏となった。この義詮と基氏兄弟は父尊氏より、鎌倉で補佐していた直義を慕っていた。この兄弟の要請により、失脚していた山之内上杉憲顕は関東管領職に就いた。この憲顕より関東管領上杉家が始まります(実際の初代関東管領は犬懸上杉憲藤)。これより関東管領は犬懸か山之内上杉がなることが決まりました。上杉氏は、扇谷、詫間、犬懸、山之内の四家有り、その内犬懸、山之内の二家が関東管領に就任する家としてありました。扇谷と詫間家は、関東管領に就任できませんでした(一回だけ扇谷家も関東管領になった)。

 この関東管領上杉憲顕が、吾妻の地の地頭吾妻氏と関係してきます。最初吾妻氏は多分南朝方だったのでしょう。これは、新田義貞が上野国新田の庄だったことに影響していたと思います。しかし、越前の金ヶ崎城において戦死してしまうと、状況は一変します。秋閒の斉藤梢其が北朝側に寝返り、縁戚だった吾妻太郎行盛もこの時一緒に北朝側へ付いたのだと思います。そして里見氏との勢力争いになっていったのではないかと思われます。

 そして関東は、北畠顕家(南朝側)と足利基氏(初代鎌倉公方で尊氏の二男)、上杉憲顕(北朝側)との戦いで、乱れに乱れて戦乱が続きました。この戦乱が収まるのは、室町幕府三代将軍義満の時代まで待たなくてはなりませんでした。

上杉家、家宰長尾氏

 長尾氏は、相模国長尾荘(現在の横浜市)の出で相模の三浦一族の被官だった。宝治合戦で三浦氏が没落したときに一緒に没落した。しかし、長尾景為の時上杉氏に出仕したと言われています。上杉憲顕が、上野、越後の守護になったとき長尾景忠が上野、越後の守護代となる。後、越後の守護代を弟の景恒に譲り自分は、上野白井城に拠り白井長尾氏の祖となった。越後の守護代となった景恒は、越後の虎「上杉謙信」の祖である。この両長尾家とも、吾妻氏の後裔吾妻斉藤氏と深い関わりを持ってきます。

 長尾一族については、別項で紹介していきます。

鎌倉公方と管領上杉一族

 憲顕の死後は、子息の能憲と甥の朝房が二人管領となった。そして憲顕四男の憲春は関東執事となった。ここで言う関東管領は室町将軍が任命するのに対して、関東執事は鎌倉公方が任命していた。管領職を巡り、将軍と公方や上杉一族にも駆け引きがあったのだろう。

 貞治六年には、関東の庶務を佐々木道誉が取ったこともあるようである。しかし、上杉氏が関東を管領として支配していたのだが、詫間、犬懸、山之内、扇谷の上杉氏と、鎌倉公方足利氏が関東で覇を争う土台はすでにこの頃からあったのかも知れません。

 永和二年病ににかかった能憲が自分の所領である伊豆、武蔵の守護を弟の憲方に譲った。関東管領職は憲顕の四男の憲春が就任している。この二年後の永和四年能憲が死去した。それに伴い、憲春の上野守護を召し上げ憲方に稼得するよう遺言している。しかし、憲春は能憲の死後上野守護兼帯した。上杉家の家督憲方は、関東管領にも上野守護にもなれなかったようである。

上杉四家

扇谷上杉家

 上杉憲房より上杉家は台頭してくる訳ですが、憲房には兄重顕が有りこの重顕から扇谷家が始まっている。その子朝定は室町幕府の裁判機関、引きつけ方の頭人を勤めた。この家は永享の乱(一四三八)以降、山之内上杉家と関東の覇権を争った。鎌倉扇ヶ谷に住む。

山之内上杉家

 憲房三男の憲顕は建武元年(一三三四)直義によって関東相番に任じられてからは、一貫して直義派でした。父憲房の死後、上野の守護を継いで、関東管領に就任した。もう一方の関東管領職の高師冬を討ってからは上杉家の主流となる。山之内(明月院付近)に住んで山之内上杉氏を名乗る。

犬懸上杉家

 憲顕の兄憲藤の系統です。嫡男朝房は、能憲と並びもう一方の関東管領職となるが、後に上洛して幕府出仕となる。しかし、弟朝宗、その子氏憲(禅秀)は二代にわたり関東管領職となる。応永二三年禅秀の乱を起こし敗死。この後は衰える。

詫間上杉家

 憲顕の兄重能の系統である。憲顕の子能憲を養子に迎えるが、能憲の山之内家復帰も有りその後はふるわない。

 この上杉の四家は、共に鎌倉の地名から生まれた家である。

上杉氏系図

上杉氏系図

結城合戦

 永享の乱の後、鎌倉の実力者は上杉安房守憲実(関東管領)ただ一人となっていた。しかし憲実は、永享十一年(1439)六月二十八日持氏の墓所長春院に参詣し「不義の心を持たないのに、図らずもおん敵となってしまった。」涙を流して刀を抜いて自信の左脇に突き立てた。家臣達が走り寄って刀を奪ったので大事には至らなかった。

 以前から俗界からの隠退を考えていた憲実は、同年十一月二十日頃所領の伊豆の国名古谷郷国清寺に於て出家してしまった。憲実は出家する前に越後上杉氏の実弟兵庫頭清方を呼び家督を譲った。公方がいなくなった後則実まで引退してしまっては、関東の治安は守れず乱れていった。

足利安王丸の挙兵

 永享十二年三月三日、安王丸兄弟は常陸国中郡荘木所城(茨城県茨城郡)出兵を挙げた。ここで幕府、安王丸双方で戦いに動き始めたのである。同三月二十二日に安王丸兄弟は、持氏の遺臣結城氏朝の結城城(茨城県結城市)に迎えられて、永享の乱の後半戦結城合戦が始まった。

結城合戦

 この挙兵はいち早く小山持政により、幕府に報告された。幕府は京都の等持院主周操を派遣して、上杉憲実の政界復帰を求めたのである。やむなく則実は鎌倉に戻り、五月十一日には神奈川まで出陣した。関東の求心力は憲実以外になかったのである。

 幕府は更に山之内家督の上杉清方にも出陣を命じた。清方は、三月中旬山之内上杉家宰長尾景仲と庁鼻和上杉性順の二人に出陣を命じた。庁鼻和上杉氏は、山之内上杉氏初代の憲顕の子憲英が庁鼻和城を建て庁鼻和士となったがこのときは、深谷城を居城としていた。長尾氏は、元々相模国長尾が出身地で元々相模三浦の一族だった。鎌倉時代に三浦氏の没落と共に没落していたのであるが上杉氏が鎌倉に下向した後、上杉氏の家臣となりこの頃は上杉氏家宰、上杉氏の任国の守護代となっていた。一族は鎌倉長尾氏、越後長尾氏(上杉謙信の祖)、総社長尾氏(群馬県前橋市)白井長尾氏(群馬県渋川市)などに分れていた。

 性順、景仲勢はそれぞれ武蔵苦林野、入間川に陣を張り武蔵、上野の国人達の集結を待った。一方結城方は三月初め、古河城に野田右馬介を入れて鎌倉方に対抗した。また更に東上野の持氏奉公衆だった佐野小太郎、新田、田中、高階氏らが足利荘高橋郷(栃木県足利市)の野田要害に立て籠もった。

 山之内上杉氏の上野守護代の一人、大石憲重が上州一揆の武士達の参陣を命じたが彼らは日和見を決め込んで参陣せず、やむなく憲重は単独で四月九日この野田要害を落とした。

 鎌倉からは上杉清方、扇谷上杉持朝らが四月十九日に出兵。京都からは犬懸上杉持房が五月一日に討伐軍として下向してきた。他幕命で、信濃の小笠原政康(この信濃勢の中に、真田氏の祖、実田と文書の中に記述がある。)甲斐の武田信重、越後の長尾因幡守実景、常陸の行方常陸入道など諸国の軍勢が結城に出陣してきた。七月に入ると、武蔵北部で小競り合いが続いた。

結城城落城

 七月末になると、鎌倉方の総大将上杉清方も結城に着陣し、八月九日になると上杉憲実も結城に着陣し、城を包囲した。しかしなかなか城は落ちない。幕府は、軍奉行仙波常陸介を派遣して将軍義教から御内緒を諸将に示した。

 「 結城城は城内が広いから、夜に兵糧を入れているようだ。諸将がよく話し合って、段々包囲を縮めよ。そうすれば自ずと城は落ちるであろう。城内から僧俗男女一人も逃さず兵糧攻めにせよ。」

 寄せ手も無理攻めをせず、城方も打って出ない。そうこうしているうちに年越ししてしまった。翌永享十三年(1441)、この年二月に改元となって四月十六日、鎌倉方は結城城に総攻撃を掛けた。そしてようやく結城城は落城となるのである。

 翌四月十七日、古河城の野田右馬介も城を捨てて逃亡。ここに結城合戦は終結するのである。総大将の安王丸兄弟は越後の長尾実景に捕らえられ、京都に護送される途中殺された。十三歳、十二歳の少年の人生ははかなくも終わったのである。あと二人の持氏の遺児の内の一人の四歳になる遺児は、生き延び鎌倉鶴岡八幡宮の別当、雪ノ下殿となり、もう一人の遺児永寿王丸は信濃に逃れ、大井越前守持光に育てられた。後の古河公方足利成氏となるのである。

 首将結城氏朝、持朝父子は自害したが遺児の七郎他は結城方、常陸佐竹能憲の太田城のもがれ抵抗を続けた。幕府は佐竹一族の山入裕義などに同城を攻撃させたが、同六月京都で将軍義教が赤松満祐に討たれるという嘉吉の乱が起こって、太田城攻撃はうやむやの内に中止となった。

 ここに一応結城合戦は終結となったのであるが、その戦乱の火種は残りいつ燃え上がるか分からない状態が続いたのである。この後関東は、戦乱が絶えない状態が豊臣秀吉の小田原征伐まで続くのである。

上杉禅秀の乱

 禅秀の反乱は、若い鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲氏、義満に愛されたが室町将軍になれなかった将軍義持の弟義嗣の二人の不満から発生した反乱である。関東公方持氏は若く自己主張が強かった。応永二十二年四月政所の評定で、常陸の御家人越旗六郎の所領を没収した。

 些細な罪科だったので、管領犬懸氏憲はその場で撤回を求めたが持氏は聞かなかった。これを不満として、氏憲は出仕せず管領職を辞任した。持氏はおもしろくなかったのか、すぐに山之内憲基を関東管領職に任命した。憲基は、年も24才と若く18才の持氏とうまが合ったのかも知れません。

 関東の諸豪族の中には、持氏に不満を持っていた豪族が各地にいた。禅秀はそんな動きを見て、京都の満隆の書状に福状を添えて関東の各武将達に回状を回した。加わる武将は、下総の千葉介兼胤、上野の岩松満純、下野の那須資之、甲斐の武田信満、常陸の大掾密朝、佐竹与義、小田治朝、などである。また、東北の武将達も、芦名、伊達、相馬、大須賀、二階堂なども立ち上がった。

 禅秀は米俵に武具を詰め、自邸に運び込んだ。そして、鎌倉公方邸を取り囲んだ。酒宴をしていた公方ははじめしんじなかったが、管領憲基邸に落ちていった。さらに反撃の準備が整った持氏、憲基方と若宮大路を挟んで戦った。

 不利な持氏、憲基は小田原まで落ちさらに、伊豆まで落ち延びなければならなかった。そして、鎌倉公方持氏は駿河の守護今川範政をたよった。上杉禅秀の圧勝である。

 今川範政は驚いて幕府に注進した。鎌倉公方が、鎌倉を追われるなど前代未聞のことです。しかし、京都でも異変が起き乱をそそのかした義嗣が突然、遁世したのである。義嗣はその後、相国寺に幽閉されて幕府もついに禅秀討伐を決めた。

 ここで幕府は、駿河守護今川範政と越後守護上杉房方に反乱軍討伐を命じた。そこで範政は、「貴命に背いて反逆の輩に荷担する者は、先祖譜代の忠勤は失われ、その領地は他人の拝領地になってしまう。」という意の回状を回した。これを受け取った武蔵の国人の江戸、豊島氏、同国南一揆や篠川御所満直などがこの回状に応じ、幕府方に寝返った。応永二十四年正月禅秀勢は武蔵世田谷原で武蔵南一揆、豊島、江戸勢と戦ったが、このときすでに今川範政が鎌倉に迫っていた。

 禅秀勢は急いで鎌倉防衛に帰ったが、鎌倉雪の下の合戦で敗れて禅秀、満隆、持仲らは雪の下御房で自害、ここに三ヶ月にも及ぶ禅秀の乱は終わりを告げるのである。そして鎌倉公方持氏は、同正月十日鎌倉に代えることが出来た。

 この禅秀の乱をきっかけに、関東は戦乱の時代へと進んでいくのである。

新公方成氏

 持氏の遺児永寿王丸は、信濃国の大井持光に養われていた。室町将軍義教の死後、この永寿王丸を関東公方にしようとする動きが起こってきた。中世後期となったこの頃でも関東では、まだ秩序意識は血筋と家格の信仰が支配していた。

 この運動の中心人物は、越後の守護職上杉相模守房定だったといわれている。しかし年代的には、房定の父の房朝だったのではないでしょうか。この房朝と関東諸将は室町将軍に対してこの事を願っていた。当時の室町管領は、細川勝元だった。しかし細川勝元はまだ若く、前管領の畠山持国の発言力も強い物があった。

 管領細川氏は反持氏はだったので、鎌倉公方擁立にはおそらく畠山持氏が強く関わっていたのでしょう。幕府でも次第に永寿王丸支持が、大勢を占めてきた。

 宝徳元年(1449)八月二十七日に永寿王丸は元服し、成氏を名乗り、左馬頭(従五位下)に任官した。新公方の誕生である。成の字は室町将軍義成(後の義政)の一字を頂いている。関東管領は憲実が隠退し、子の憲忠がついた。

 ここに十四歳の成氏(鎌倉公方)と十五歳の憲忠(関東管領)という若い鎌倉府の政権が誕生したのである。

享徳の大乱

 管領山之内上杉では、家宰の長尾景仲が実権を握り、扇谷上杉は持氏を滅亡させた持朝が引退して顕房が家督を継ぎ家宰太田資清(道真)が実権を握っていた。一方鎌倉に復帰し、公方になった成氏に永享の乱、結城合戦で上杉方と戦った持氏遺臣立ちが出仕してきた。まず里見義実、梁田、結城、小山、宇都宮、小田、千葉の面々である。

 持氏遺臣と上杉、永享の乱、結城合戦で共に敵同士だったものが鎌倉で一緒に政を行うのである。うまくいくはずもありません。そんなとき成氏方の挑発が始った。文政五年(1448)梁田中務之丞持助が相州長尾郷を横領する事件が起きた。

 ついに上杉方の不満は、結城合戦で自害した結城氏朝の遺児七郎の幕府出仕を受けてついに爆発したのである。後は武力で解決するだけである。

江ノ島合戦

 報徳二年四月二十一日、長尾太田連合軍五百騎は機先を制し、成氏御所をおそった。その情報を知った成氏は、鎌倉江ノ島へ逃れていた。成氏の逃走を知った長尾、太田軍は鎌倉から由比ヶ浜へ進んで成氏勢と戦った。迎え撃った成氏勢の小山持政、千葉胤将、小田持家、宇都宮らは奮戦して、上杉勢を相模の糟屋荘に追い落とした。

 この敗戦を知った扇谷上杉持朝、顕房父子、管領憲忠も鎌倉を逃れ、相模の七沢要害に立て籠もった。京の管領畠山持国は、公方成氏に従うよう御教書を送っている。幕府は憲実管領復帰にこだわり、将軍の御教書を送り憲実に管領復帰を命じている。しかし、頑として憲実は管領復帰を受け付けず、憲忠鎌倉復帰を幕府に願い出ている。

享徳の大乱ついに起こる

 ここから成氏方の挑発が、活発化してくる。つまり成氏による、上杉方の所領横領である。山城国・醍醐寺蔵院領の相模国分・林四ヶ村に一色伊予守の強制入部。常陸の小田持家が、同国の三村を横領。また同年五月野田右馬助が、同族の野間弥三郎持保の領地に強制入部。成氏方の横暴がしばらく続いた。

 しかし、時勢は突如変わった。京の幕府で管領が成氏寄りの畠山持国から、反成氏の細川勝元に変わったのである。勝元は舅の山名宗全と組んで、持国を失脚させたのであった。こうなると関東の情勢も変わる。

 憲忠が細川勝元と組んだと思った成氏は、享徳三年(1454年)十二月二十七日ついに管領憲忠とその家臣らを西御門邸におびき寄せ、そこで憲忠主従二十二人すべてを討ち取った。これにより関東公方足利成氏と、関東管領上杉の全面対決となった。これが享徳の大乱である。ここから成氏の、長く苦しい戦いの生涯が始ることとなる。

 正月の二十一日、府中西南の分倍河原で成氏方一千騎、上杉方に千騎がつい激突したのである。この戦いで上杉顕房(扇谷)憲秋(犬懸)両大将が負傷し、ついに自害。山之内の重臣、大石房重、重仲も討ち死にし緒戦は、上杉勢の敗戦となった。

 幕府管領の細川勝元は早くも同正月十六日、信濃の守護小笠原光康に上杉方への協力を求め、成氏誅伐の体制を整えた。三月末には後花園天皇の成氏追討の錦旗も下賜され、成氏は朝敵となった。更に上杉房顕を山之内の家督とし、関東管領に任命し「鎌倉殿退治申すため」の「総大将」としたのである。

 ここに至り、上野金山の岩松持国と共に成氏方となっていた「上州中一揆」の面々は、成氏方を離れ上杉方に味方した。戦線は東関東にまで拡がり、下野、武蔵、上野方面と広い範囲で合戦があった。関東の中小豪族達は、双方の形成を見て徐々に上杉方の味方となっていったのです。

 同四月、幕府は更に越後守護上杉房定、駿河守護今川範忠らの討伐軍を関東に送ることを決め、上杉房定は上野平井に、今川範忠は鎌倉に攻め寄せた。成氏方として鎌倉を守っていた、木戸、大森、印東、里見らは敗走した。

 東関東一円では、成氏方が有利に戦いを進めていたが、鎌倉を奪われた成氏は、康正元年、下総古河に御座所を移し、古河公方と称した。

享徳の大乱

 先に享徳の大乱の概略と、発端を記述した。関東公方と関東管領方の戦いは、長く続き関東は戦乱に明け暮れる。前述した通り、最初は関東公方成氏方が優勢に事を運んだ。しかし転機が訪れる。京の管領が、親成氏の畠山持国から親関東管領上杉氏の細川勝元に変わった。

 細川勝元が、叔父の山名宗全と組んで畠山持国を管領の座から引きずり下ろしたのである。後こに二人が東軍、西軍に分れ応仁の乱を引き起こす事になるのも何かの縁を感じるものである。上杉勢は、幕府に成氏討伐軍の派遣を願い出る。まず上杉勢は、憲忠の跡をその弟房顕に決め、本拠の上州平井で体制を整えて扇谷上杉顕房、犬懸上杉憲秋両大将として長尾景仲が上野、武蔵の一揆(江戸時代の一揆とは違う)勢を率い鎌倉に向って南下してきた。重氏は鎌倉を発って武蔵府中の高安寺に入り陣を張った。

 享徳四年(1455年)正月二十一日ついに両軍は、府中西南の分倍河原で激突する。この戦いにおいて上杉方は敗北となり、上杉房顕、憲秋両将は負傷し自害した。山の内上杉氏の重臣大石房重、重仲も討ち死にしている。このようにこの大乱の緒戦では、関東公方成氏方の勝利に終わる。しかし、ここから三十年に及ぶ享徳の大乱が始るのである。

幕府討伐軍

 成氏の憲忠誅殺は、幕府では私意と見られ三月末には後花園天皇の成氏討伐の錦の御旗も下賜された。ついに成氏は朝敵となったのである。幕府は在京奉公中の上杉房顕を山内上杉家督として関東管領として任命し、関東に出陣される事となった。

 同四月、幕府は越後守護上杉房定、駿河守護今川範忠らに命じ、関東に送る事を決めた。上杉房定は上野平井城に、今川範忠は六月中旬鎌倉に攻め入り町に火を放った。一方足利成氏は、鎌倉を幕府方に奪われて下野足利に居を構える。

 ここから関東における戦国、享徳の大乱が三十年の長きにわたり続くのである。利根川を挟んでの攻防が、続く事になる。成氏の勢力範囲は、下総下河辺荘、古河を中心に北武蔵の太田荘、足利郡、東上野岩松持国領、下野のほぼ全域、房総半島の上総、安房にまで拡がり広大な領地を要していた。それに対抗すべく上杉方は、越後の上杉を上野白井城に、上杉房顕は上野平井城、武蔵国内に深谷城を築かせた。

 扇谷上杉持朝に深谷城を、扇谷家宰太田資清(道真)武蔵岩槻城、太田資長(道灌)に江戸城を築かせて、鎌倉を守る体制を整えている。これより武蔵太田氏が、台頭してくるのである。山内上杉家では、家宰で上野守護代長尾景仲が実力を発揮し始める。この事は後に起こる「長尾景春の乱」に繋がってくるのである。

成氏の戦略

 成氏の入った古河は曾祖父氏満以来の鎌倉府の領地で、その時期古河を中心にした下河辺荘は非常に広く、北は下野の小山、結城氏領と接し、南は千葉領に接している。下河辺荘は、吾妻の地とも非常に関係があり、後吾妻氏はこの下河辺氏出身という。前吾妻氏もこの下河辺氏と同族で、秀郷流藤原氏の流れである。しかしこの頃、下河辺氏の名はこの地では見られなくなった。小山、結城、千葉氏ともに古河公方成氏を強く支持していることを考えると、この古河と言う地はまさに絶好の場所であると言うことだろうと思います。 さらに上総の武田氏、安房の里見もに成氏方である。

 そしてこの古河の地理的位置であるが、利根川の東側にあって同川恩川水運で、上流下野の足利、小山や下流8キロの武蔵栗橋、下総の関宿とも繋がっている。この水運を利用して下野の小山、結城と提携して、南方の栗橋に栗橋城を築城し近臣野田右馬助に守らせ、さらに成氏にとって母方の従兄弟、簗田持助に関宿城を築城させ守らせている。さらに利根川の西方には菖蒲城、幸手城を築かせ、近臣の金田則綱、一色頼氏にそれぞれ守らせている。

 また、菖蒲城は成氏方の最前線である。このように成氏は、利根川東方各地に橋頭堡を築き守りを固めた。成氏方の菖蒲城、上杉方の騎西城がそれぞれの橋頭堡となり、上杉方は康正元年(1457年)秋頃この城に庁鼻和上杉六郎、七郎を中心にこの城に籠もらせた。只木城の長尾景仲も加わりいよいよ戦端は開かれる。緒戦はこの城を落とした公方成氏の勝利となる。


 この間、成氏は管領細川勝元、公卿三条実雅に書状を送り「上杉憲忠が権勢を振るったため成敗した。」「この後は都鄙安泰を願う。」というような勝手な願いをしている。これ、はかなえられるものでは無かったのも当然である。

上杉の戦略

 成氏方と上杉方の境界は、上野から武蔵にかけて流れる利根川が境となってる。利根川の東側を成氏、西側を上杉となっていた。上杉方はまず、上野から武蔵での利根川沿いに防衛戦をしかなければならない。越後上杉氏の本拠の上州白井城、関東管領の上杉房顕は同じく上州平井城を本拠を構えている。

 従って、武州にも防衛戦をしかねばならなかった。そこで庁鼻和上杉性順に深谷城、扇谷上杉家宰の太田道真(資清)に岩槻城、その子資長(道灌)に江戸城を築かせた。当時の利根川は江戸湾に流れ込んでいたの、これで利根川を塁線としての防護関係は完成した。

 また、荒川水系にはそれぞれ深谷城には鉢形城、岩槻城には川越城、とあり利根、荒川水系の二重の塁線を築きさらにそれを補完した。さらに長禄三年(1459年)には、関東管領上杉房顕により五十子砦を築き成氏の古河城にたいして押さえとし、管領上杉方の軍が結集した。。こんな体制が、約30年間続くのである。

上野での享徳の乱

 上野では、関東管領山内上杉房顕の本拠は平井城である。また越後の守護上杉房定は、白井城でにらみをきかす。一方前線では、新田岩松氏が京兆家の岩松持国と礼部家岩松家純に分かれて争っていた。これはまさに太田金山城を巡る争いである。

 岩松持国は、地勢上古河公方方として戦っていた。岩松家純は幕府側近として京の室町御所義教に仕えて、治部大輔となり、その唐命の礼部家となっていた。その頃幕府は、義政の弟政知を鎌倉公方として下向する方針を決めた。長禄二年(1458年)三月二十七日幕府から、東上野の京兆家岩松持国にたいして将軍義政の御内書を与えて、帰順を求めた。

 そのとき京都扶持衆の家純が、説得に当たった。岩松家は京兆家、礼武家が東西に別れて戦っていた事になる。同年五月十五日京兆家持国は幕府方へ帰参する旨、請文をもって誓った。これにより幕府方と、古河公方方の緊張が高まりいよいよ合戦となるのである。

 幕府方は、長禄三年(1459年)十月十四日武蔵太田荘に進撃した。翌十五日には、海老瀬口(群馬県板倉町)、羽継原(群馬県館林市)で両軍が激突した。この位置は、成氏の本拠古河城からわずか数キロしかない事から上杉方は、一挙に古河城を落とそうとしていたと思われる。上杉軍の陣容は、管領上杉房顕、越後上杉房定の軍、毛利、本庄、飯沼、中条勢、山内上杉勢は、神保、後閑、長尾勢、上総上杉勢は、岩松持国他、それに東北勢、石川、二階堂の勢も加わる大軍である。この戦いは、上杉勢の敗北で終わる。これにより両軍は引き上げ、その後しばらくは膠着状態となった。

堀越公方足利政知

 足利将軍義政の弟政知は、香厳院主であったのを還俗して左馬頭となり義政が関東に下向させた新公方であった。関東の情勢不安も有り、伊豆の堀越に止まり堀越公方となった。時に長禄二年(1458年)七月下旬のことである。

 政知本人は、鎌倉に入を望んだのであるが長禄四年(1460年)八月二十二日に将軍義政は、御内書により未だ情勢の不安な鎌倉への入部を固く禁じている。政知と関東上杉一族は、あまりしっくりいっていなかったのである。実際この後、政知は延徳三年(1491年)死去するまでの三十三年間伊豆の地を離れることは無かった。この中途半端な事柄を考えると、もはや室町将軍も昔日の力は無くなっていたのが分かります。

長尾景仲と上杉房顕の死

 長尾景仲は、この享徳の乱のきっかけとなった江ノ島合戦の首謀者である。本領は、上野の白井でその領地は関東各所に点在し、武蔵国秩父地方にもあって大きな力を持っていた。関東諸将にも「上杉にあって太田資清と長尾景仲は関東の案者である。」と実力を認められていた。

 群馬県渋川市の雙林寺には木造も残されている。成氏方で結城成朝が家臣の多賀谷氏に殺されていた。寛正四年(1463)八月、山の内上杉氏の家宰長尾景仲が76才で亡くなる。その後は嫡男の景信が継いだ。同年十二月関東管領上杉房顕は幕府に対して管領辞職を願い出ている。その後も度々出されていることから、景仲の死によって気落ちしていたのかも知れない。景仲の死より四年後文正元年(1466)二月、文人肌で病弱だった房顕は五十子の陣中で病死した。まだ若く、三十二才だった。景信は父の遺言として越後上杉房定の子を強く押していたのであるが、房定は拒否していた。山の内上杉氏の老臣十八人が反対していたためである。しかし最後には幕府の強い押しも有り、越後上杉の次男顕定が最後には決まったのである。

武蔵、上野の戦い

 管領房顕、上杉持朝、長尾景仲の相次ぐ死により成氏方と上杉の戦いは暫く鳴りを潜めていたのであるが、文正元年(1466)頃から又小競り合いが始まった。まず同年二月四日河越、岩槻の上杉方と騎西城の成氏方との小競り合いがあった。翌応仁元年(1467)には京において山名宗全、細川勝元により応仁の乱が始まった。


 関東の戦いは、この頃から利根川を挟んで展開することになる。利根川流域の下野と上野が戦いの場所となるのである。


応仁2(1468年)年10月8日新田方面から公方勢が西進、玉村方面からは総大将上杉顕定勢が東に進み毛呂島、綱取原(いづれも現伊勢崎市)で合戦に及ぶ。この戦いでは、長尾親子(景信、景春)などの活躍により大勝した。この少し前、新田金山、岩松一族の内紛で上杉方岩松家純(礼部家)が成氏方の岩松持国、三郎親子を討って統一していた。この岩松家純、家老横瀬国繁の参戦も上杉方の勝利に大きく貢献した。

三島合戦と古河城落城

 毛呂島、綱取原の合戦で劣勢に立たされた古河公方は、一気に挽回せんと文明3年(1471年)突然下野の小山、下総の結城、上総の千葉氏などを伊豆三島韮山城を急襲させた。伊豆の地はもう一人の関東公方、足利政知(8代将軍足利義政の弟)お膝元である。

文正元年(1466年)毛呂島、綱取原の合戦で劣勢に立たされた古河公方は、一気に挽回せんと文明3年(1471年)突然下野の小山、下総の結城、上総の千葉氏などを伊豆三島韮山城を急襲させた。伊豆の地はもう一人の関東公方、足利政知(8代将軍足利義政の弟)お膝元である。
政知方は駿河の今川義忠の救援を受け、成氏方を敗退させた。成氏方が伊豆から敗走するところを、上杉方の宇佐美孝忠勢が待ち受け成氏勢を打ち破る。成氏勢の奇襲作戦は失敗したのである。

 成氏勢敗戦の報を受け上杉方は同年3月、長尾景信を大将に上州一揆、武州一揆、豊島、大石一族、扇谷の家臣太田資忠(道灌次男)などの多勢を持って下野の足利荘、佐貫荘に出撃。4月14日には赤見(茨城県佐野氏)、樺崎(足利市)の諸城を攻め、翌5月には佐貫荘舞木城(群馬県千代田町)や館林城(館林市)を攻めた。館林城から古河城は東南に僅か15キロの距離である。勢いに乗った上杉勢は、5月末古河城を包囲した。翌6月中旬成氏は城を脱出して、下総の本佐倉城の千葉孝胤をたよって落ち延びた。成氏最大の危機の到来である。

 文名4(1472年)年2月結城氏などの援軍で古河城の奪回に成功し、成氏は古河に戻れたのである。これにより古河対五十子の対陣に戻った。文明5(1473年)年6月古河攻めの中心だった長尾景信が亡くなる。同年12月24日、持ち朝の跡を継いだ扇谷上杉政真が五十子の陣中でなくなる。これで、新たな紛争が始まるのである。

 長尾景春と太田道灌

 若い扇谷上杉政真には子がなく、叔父の定正が家督を継承する。左衛門尉景信の後は、景信の弟で総社長尾氏に養子に入った尾張守忠影が山之内家の家宰(家老)となる。「松陰私語」には「山内家務の事、寺尾入道、海野佐渡守相談」と載っている。両名は越後守護上杉房定に近い人物で、房定の考えも入っていたのではないか。それに、これも「松陰私語」の記述であるが、太田道灌が扇谷上杉家の所領が少ないことを嘆きつぶやいたと言われる「わが扇谷の所領は、山之内の家宰職長尾の半分にも及ばない」という嘆きを見れば、山内上杉家老臣がこれ以上白井長尾の勢力が伸びるのを望まなかった為とも考えられる。

 一方山之内上杉の家宰、上野、武蔵の守護代を当然継承できると思っていた長尾景春は、おもしろくないのは当然のことである。太田道灌は関東管領山之内上杉顕定に、「長尾景春にせめて上野守護代ぐらい与えて、功績を認めてはどうか」と意見したが、関東管領山之内上杉顕定も老臣達も聞く耳持たず、「長尾景春などたいしたことは出来ないだろう」とたかをくくっていたとも思われる。

 ここに出てくる太田道灌(資長)であるが、父である太田道真(資清)と共に扇谷上杉の勢力拡大を図った功労者である。長尾景仲と共に太田資清は、関東の案者としてその実力を認められていた。太田道灌は、江戸城の築城や岩槻城、川越城まで勢力範囲を伸ばし扇谷上杉家の宿老として勢力拡大に貢献した。太田一族に関しては、また別項で解説していきたい。

 さて、話は戻し長尾景春の乱に戻ることとする。景春は武州鉢形城にて、見方を集め始め太田道灌にも上杉氏への造反に同調するよう求めた。景春は「御屋形様(上杉顕定)並びに典厩様(憲房)を討ち取る計画である。五十子の陣の参陣をしないように」と談じ込んだ。しかし、道灌は五十子に参陣し顕定に対し「景春はもとより不器用にて御家務職(家宰)は無理かも知れないが、父玉泉(景信)の忠功を考慮され、武蔵守護代に命じてはどうか。そうなれば景春も落ち着いて、陣中も穏やかになりましょう。景春の家臣、同僚達が日増しに景春に同調しており、このままでは大変なことになりましょう。(鎌倉大草子)」と申し入れた。しかし、顕定も老臣達も無視してしまった。翌年文明7(1475年)年、景春は武蔵鉢形城で武蔵、相模の兵を集め始めた。
 その頃太田道灌は主君の命令で、駿河の今川氏の領国に今川一族の内乱のため出陣した。その間隙を突き、長尾景春は武蔵鉢形城で挙兵したのである。

 長尾景春の乱

 翌文明8(1476年)年6月太田道灌の留守を狙い、五十子の陣を襲った。関東での下剋上の始まりである。これは御屋形様山之内顕定に対する造反を意味していた。鉢形城は、背後を山深い秩父地方を背にしている。秩父には景春の従兄弟である犬懸長尾景年の、長尾城がありこの地方一帯は長尾一族の勢力範囲である。景春は江戸城、川越城を拠点に子が公方成氏に対していた上杉一族の背後を突く形を作り上げていたのである。景春党の五十子の陣への出陣は陣の崩壊を招き、岩松家純、明純親子は本拠の太田金山城(群馬県太田市)に引き上げ、上杉顕定は阿内城(群馬県前橋市)に、上杉定正は白井と阿内の中間の細井(前橋市)に退去する。定正は後、顕定と合流する。
 景春党の各勢力は武蔵の豊島一族、相模の金子、溝呂木、矢野の一族が各居城に籠もり上杉氏に対して反上杉の動きを固めていた。ここに長尾景春の戦略は成立したのである。なほ、詳細については別項で述べることとする。

太田道灌による景春党の討伐

 駿河より急ぎ帰ってきた道灌は、景春党の各個撃破を計画する。その理由は、景春党の隆起は各領地で兵を挙げたのであって、鉢形城に全兵力が集まったのでは無いためである。もし景春が、鉢形城に兵力を集められれば、また違った展開になっていたのではないか。一説によると、足軽(傭兵集団)を活用し始めたのは太田道灌であったと言われている。
文明9(1477)年中旬、相模の景春党溝呂木要害の籠もる溝呂木氏を攻めてこれを鎮圧、続いて小磯要害の越後五郎、四郎兄弟を責めて降伏させる。この後金子掃部助の小沢城を責めたが、要害の地に築城された城を懸命に守りなかなか落ちなかった。
 そこで道灌は居城である江戸城に扇谷定正弟の朝昌、相模の三浦義同、武蔵の千葉自胤を入れる。さらに、川越城に次男太田資忠、上田上野介らを入れ守りを固めた。

 これを見て、景春党の宝相寺、吉田宮内勢などが武蔵横山から出陣して小沢城の後詰をし、扇谷の支城小山田城を攻め落とす。また、武蔵小机城の景春党の矢野兵庫助が川越城を狙って出陣した。これを見た太田資忠、上田上野介らが迎え撃ち撃退した。

 同年4月13日太田道灌は、豊島泰明居城の平塚城を責めるが城下に火を放ち引き上げる。 それを知った泰明の兄、石神井城主の泰経が出陣しぶつかり太田勢が勝利を収める。翌14日、道灌は石神井城を攻め、豊島勢は偽って降伏するがさらに城を攻め続け同月28日には同城を攻め落とした。ここに関東平氏の名門、豊島一族も没落したのである。この間、相模の小机城も道灌は攻め落とした。僅か半年の間に相模、武蔵南部の景春党掃討に成功したのである。ここに道灌は、景春党の武蔵鉢形城と秩父地方に封じ込めた。

 武蔵、相模を平定した道灌は同年5月13日、上杉顕定、顕房らを五十子の陣に帰陣させた。この動きを見た景春は、上州勢を率い武蔵児玉郡梅沢に出陣してくる。

 道灌は、景春勢を牽制するため鉢形城を攻めるように動く。景春勢はそれにつられて用土原に移動してきた。その移動中に両上杉勢いが襲い、不意を突かれた景春勢は敗走し鉢形城に逃げ込んだ。

 両上杉は、鉢形城を囲みそれぞれ富田、甘粕原、四万田に布陣する。不利を察知した景春は、上杉に敵対する足利成氏に救援を頼んだのである。成氏は、下総の結城。下野の宇都宮、那須、上野の岩松などを率い上野の滝(現群馬県高崎市)まで軍を進めてきた。

 顕定は鉢形城の囲いを説き上州白井まで兵を引いた。そして同年9月白井城を出陣して、片貝(現前橋市東部片貝町の地名が残る)の地に出馬する。同年11月塩売原(富士見)で両軍は対峙する。しかし、成氏軍は和田(高崎市)から観音寺原(高崎市)に向かい、北上して真っ直ぐ上杉本城白井城に向かう気配を見せた。上杉勢も城を出て成氏方8千騎、上杉方5千騎は広馬場(高崎市)に対陣,一触即発の情勢であった。

 成氏も、この戦いを上杉との決戦と考えていた。同年12月のことである。この時、決戦を前に大雪が降り、戦どころでは無くなってしまったのである。翌文明10(1478)年上杉方が古河公方成氏と幕府の和解、都鄙和解を仲裁する条件で和睦が成立する。これで、両軍とも兵を引いたのである。

 岩櫃城にこれに関連する、伝承が残されている。岩櫃城に於いて長尾昌賢(景仲)がこの時岩櫃城を築き、8万騎の成氏軍をわずか2千騎足らずで「火牛の計」を用い撃退したというのである。まあ、伝承ではあるので信憑性はないでしょうが、何かしらの動きはあった可能性はあると思います。

鉢形城の落城

 成氏と両上杉が和睦した事により、景春は成氏に見捨てられたのと同じ状態であった。しかし、成氏が景春に肩を入れたのは「景春が幕府との仲介をする」という約束で軍を起こしたのである。成氏の悲願は、「鎌倉府の再興」にあったので都鄙和解は成氏の願いでもあった。そんなところに、成氏の行動の根本があったように思われる。
 ただ長尾景春の反乱は、上杉家中の内乱であった。景春がこの事により兵を納める道理はなく、両上杉と敵対していたのである。道灌は、その後も景春党殲滅を目指して戦い続けるのである。

 戦線が上野に移っている間に、逃亡中の豊島泰経が居城平塚城に立て籠もっていた。文明10(1478)年正月25日、道灌はわずか1日で平塚城を落とす。泰経は丸子城(神奈川県)と小机城に逃れたが、道灌は翌々27日丸子城を落とし、翌28日のは鶴見川対岸の亀甲山(横浜市)に布陣して小机城を包囲する。この道灌の動きを見るなり景春は、再び動き出し浅羽(埼玉県坂戸市)の布陣し、二宮城の大石顕重に小机城の後詰めを命じた。するとすぐに川越城の扇谷上杉定正は出陣して、浅羽の景春勢を蹴散らしたのである。同年3月19日敗れた景春は、成田(忍)の成氏の命により千葉孝胤と共に羽生峰に籠もったが、小机城から帰った太田資忠と定正勢により追い落とされた。翌4月11日にはほぼ武蔵を平定し、相模で少々抵抗する勢力があったが同年6月相模も落ち着いたのである。

 その頃、景春は鉢形城に籠もっていた。同年7月上旬道灌は江戸城を出陣する。これは、山之内上杉顕定を武蔵に迎えるための出陣であった。道灌は井草(埼玉県比企郡)を経て青島(埼玉県東松山市)に着く。さらに進んで成田と鉢形城の間に布陣する。その陣中に足利成氏の重臣、梁田持助が訪ねてきて「春に約束した通り成氏は古河に帰陣したいのだが、長尾景春が救援を求めてくるので古河に帰れないので、何とかしてくれ」と言ってきた。道灌はその要請をすぐに了承して、鉢形城の長尾景春を秩父の山奥に追い落とした。同月23日ようやく成氏は陣を払い、古河に帰城した。これで道灌は関東管領山之内顕定に、鉢形城入城を薦め顕定は当城に入城する。山之内家は上野、武蔵、伊豆の守護であった。また、顕定の生まれた越後上杉氏も山之内家から別れた家である。

両総と秩父の戦い

 太田道灌は残る景春党、下総の千葉孝胤攻めに取りかかる。文明10(1478)年12月10日市川城(千葉県市川市国府台)に入り、境根原で千葉勢を破り臼井城に攻め寄せる。千葉氏は平安末期から上総、下総で勢力を持った一族で、その頃は分流の馬加康胤が勢力を持ち本佐倉城を本拠としていた。その頃の当主は孫の孝胤で、上杉方の本宗家千葉自胤と対立していた。孝胤は景春と結び、上杉家とも対立していた。道灌の千葉氏攻めは、古河公方成氏の承諾を経ての事である。

 臼井城は印旛沼の谷に囲まれた台上にあり、攻めにくい城であった。道灌は、臼井城を囲みつつ周辺の諸城を攻める戦略を立てる。同年7月上総長南城、真里谷城の武田氏や飯沼城の海上師胤らを降伏させ、臼井城を同年7月15日に攻め落とした。残るは、長尾景春のみである。

 長尾景春は秩父の各所に築城し、文明11年9月頃には武蔵長井城の長井六郎のもとにいた。この頃古河公方成氏は、景春を見捨てていたのである。成氏にとって一番大事なことは、都鄙和睦である。文明11年11月下旬道灌は江戸城を出陣し、長井城を落とした。形勢不利を察知した景春は、秩父に兵を引いた。

都鄙和睦

 景春が秩父の山々に籠もる頃、幕府との和睦が叶わないことにいらだった成氏は再び景春の支援に回った。この時期は幕府も応仁の乱が収束せず、乱勃発から10年たつにもかかわらず落ち着かなかった。東西の首領細川勝元、山名宗全が亡くなっているにもかかわらずである。この頃古河公方成氏と幕府の和睦を景春から幕府奉行、小笠原備後守宛に上奏させている。幕府は、越後守護上杉房定からの申し出が大事であると成氏に返書してきている。文明12年(1480)年10月23日再び成氏から書状が管領細川政元宛に届けられる。その2年後文明14(1482)年、ようやく東山殿(義政)から御内書が成氏に届けられ、都鄙和睦がついになったのである。これに関しては、越後守護上杉房定の貢献に拠るところが大きかった。それに対して成氏は、「長尾景春を管領として、都鄙の和合に努めん」と上奏しているが、これが認められる者ではなかった。青年の頃から齢50になるまで成氏は、不毛な両上杉との戦いに明け暮れるまいにちであった。その後成氏は、明応6(1497)年に亡くなっている。

都鄙和睦後の出来事

太田道灌の死

 道灌の死は都鄙和睦の6年後、文明18(1486)年7月26日のことである。相模の国糟屋の上杉定正の舘での不意打ちで、非業の死を遂げる。そのとき道灌は「当方滅亡」と叫んで、死んだと言われている。長尾景春の祖父、景仲から続く白井長尾氏、太田道真(資清)道灌(資長)と山之内上杉、扇谷上杉を数代にわたって支えてきた両家の勢力後退は、上杉氏が滅亡するきっかけになったと思うのは私だけであろうか。この両家の衰退は、両上杉氏の側近による讒言がもとであった。白井長尾氏も太田氏も享徳の争乱以降、自家の勢力が拡大しすぎたのが原因であったのかも知れない。

太田道灌と北条早雲、長尾景春の関係

 太田道灌と北条早雲の出会いは、駿河今川家の相続争いの時に遡る。北条早雲は、将軍家申継、伊勢家のでである。早雲が伊豆に侵攻前は、早雲と扇谷家ともよりよい関係を保っていた。それは、太田道灌(資長)の存在が大きかったのではないか。総社長尾氏の忠景が山之内上杉の家宰、上野の守護代となったとき長尾景春は無冠であった。長尾景春の動向が不穏になったのをいち早く気づいた道灌は、山之内上杉家に対して「景春を祖父景仲と父景信と同じに武蔵守護代に任命すれば、納得するのではないか。」と提案して却下されている。山之内上杉の家宰は、長尾家の長老がなるというのが慣例であったが景仲、景信と2代にわたり白井長尾家が独占していた。これは、異例のことであった。江ノ島合戦より始まる戦乱に於いて、勢力を伸ばしてきた白井長尾家に山之内家の長老達は危機感を持っていたのではないのか。また、道灌は「わが扇谷の領地は、山之内上杉の家宰長尾家にも及ばない。」と嘆いたと言われているが、両上杉の実力は大きく離れていた。長尾景春は叛旗を起こす前、五十子の陣に向かう道灌に対してわが方に与するように説得したという。当時の長尾氏は、山之内上杉に対して叛旗を起こしても勝算のあるだけの実力を有していたのである。

北条早雲駿河下向

 道灌が死んだ翌年文明19(1487)年、伊勢新九郎が再びするが逃げこうした。今川義忠死去の折の内乱で、「義忠嫡男龍王丸元服まで龍王丸の従兄弟小鹿範満が主語を代行する。」ゆうことで決着する。しかし、それから11年たって龍王丸が17才になっても今川家家督を戻さなかった。早雲の妹でもある北側殿(龍王丸母)は、困り果てて兄である伊勢新九郎をたよる。新九郎は東山殿義政から龍王丸の今川家家督の御内書をえて、下向したのである。これにより、範満は幕府に対しての謀反人となった。早雲はここで、武力での解決を選択したのである。

 まずは今川家重臣にこの事を図り、ほとんどのものが龍王丸家督を指示するのを確認した。龍王丸を奉じて範満を討つ決断をしたのである。戦いはあっけなく龍王丸型の勝利となり、小鹿範満と甥の小鹿孫五郎は生害となった。長享元(1487)年11月9日のことである。奇しくもこの長享の年に、山之内上杉と扇谷上杉による長享の乱が勃発した。

 この功により早雲は、富士郡下方荘12郷と興国寺城を龍王丸改め氏親から与えられた。これが、後北条氏の5代に渡る繁栄につながる。

長享の乱

 太田道灌殺害は、多くの思惑で行われた。まず、扇谷家の家宰をめぐる対立で、重臣曾我氏と家宰太田氏の間の確執がある。太田道灌殺害の首謀者曾根兵庫は、太田道灌亡き後川越城主となりその嫡男曾我裕重は江戸城主となる。曾我氏が扇谷家の家宰を狙った、行動と言えるかも知れない。また、山之内顕定がこれを認めたのも太田道灌によって扇谷家の勢力が大きくなっていたのも大きな原因かも知れない。だがこれにより、太田道灌の嫡子太田資康は、山之内顕定の傘下となった。それに続き、扇谷家にしたがっていた国人達も山之内家に走るものが多かった。定正と曾我兵庫は、国人達の半独立の機運が高まっておりそれを道灌の人徳でつなぎ止めていたのが分からなかったのである。

 ここに至ると、山之内家と扇谷家の対立は避けられないものになっていった。そこでまず扇谷定正は古河公方政氏に救援を頼み、長尾伊玄入道景春までも加わり一触即発の事態になる。武州鉢形城の山之内顕定は、上野白井城の実兄上杉定昌に救援を求めた。もちろんその背後には、兄弟の父越後守護の上杉房定がいた。

 長享の乱の勃発

 長享元(1489)年11月、ついに下野足利荘観農城の足利景長を上州白井の上杉定昌が攻めた。ついに長享の乱の勃発である。その後定昌は、弟房能との越後守護の家督争いに巻き込まれ、長享2(1490)年3月24日突然白井城で自害してしまう。これは、越後守護代長尾能景による房能擁立の陰謀に巻き込まれ、敗れたためである。この長尾能景の台頭は、後に上杉謙信(長尾景虎)が戦国史に登場する伏線となった。

 長享2年2月5日、扇谷家の本拠糟屋舘近くの実蒔原で鉢形城から出陣した山之内顕定、憲房父子1000騎と川越城より出陣した扇谷定正勢200騎、七沢城の扇谷朝昌勢が激突した。この戦いは、小勢ながら地勢を知っていた扇谷勢が勝利した。

 同年6月17日山之内顕定勢が鉢形城を出陣、須加谷原(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)まで南下してきた。一方扇谷定正も川越城を出陣、勝呂(埼玉県坂戸市)に布陣した。この布陣には、古河公方政氏と長尾伊玄入道景春、定正養子朝良も扇谷方として参陣していた。翌17日、朝良率いる200騎が顕定勢に攻めかかる。迎え撃つは、顕定方の長尾修理亮と長尾新五郎の170騎である。この初戦は顕定方が、高所を抑え撃退している。しかしこれで勢いに乗った顕定勢も、横合いから長尾伊玄に攻められささらに、定正勢が攻め上り顕定勢を敗走させた。定正は長尾伊玄にたいして「景晴は勝利の誉れ、関八州にその隠れなし」と感状を与えている。

 長享2年11月15日、武蔵国高見原(埼玉県比企郡小川町高見)で両軍が三度目の戦いとなる。定正勢2000騎、顕定勢3000騎が激突する。伊玄入道は夕刻での開戦に不安を持ったが、定正の意見に従い戦い勝利する。

 この戦いで扇谷勢は勝利を収めたが、定正は所詮両家の戦いは「誠に鵬鸚の遊びだ」と言っていた。鵬は大鳥で鸚は小鳥である。道灌も嘆いていたが、山之内家と扇谷家の領地を比べると、「扇谷家は山之内家家宰長尾家の領地の半分ほどもない」と言っていた。古河公方政氏が参戦しているとは言え、両者の実力には依然大きな開きがあった。高見原の合戦の後定正は川越城、顕定は鉢形城に依り膠着状態にあった。この情勢を見た小田原城主大森寄栖庵氏頼は、顕定との和睦を薦めた。しかし定正は、この意見を聞かず、依然対立を望んでいた。

伊勢新九郎(北条早雲)の伊豆と相模への侵攻

伊勢新九郎伊豆へ侵攻の背景

 伊勢新九郎(北条早雲)の伊豆への侵攻の背景は、実は室町将軍の継承問題も絡んでいた。この時期堀越公方政知の次男清晃(後の義澄)清晃を擁立する動きがあった。義政の子義尚は延徳元(1487)2月25日、年近江の守護六角高頼討伐のための出陣中急死します。次期将軍は、近江出陣前にすでに養子にしていた義視の子義材がなるはずであった。義材はすでに左馬頭に任官していて、将軍になるにふさわしい地位になっていた。義材のライバルである清晃は、長享元年伊豆より上洛して東山山荘に入り、義尚の養子になっていた。これを担いだのが管領細川政元である。応仁の乱の時に義視、義材親子が、東軍細川方から西軍山名方へ鞍替えしたことに含みを持っていたのである。政元は義政にそのことを直訴して、義政の親政と言うこととなった。

 しかしその義政も延徳2(1488)年、中風により56才の生涯を終える。まだ元服前の清晃では将軍を継げず、24才の義材が新将軍になった。

 義材が新将軍になると、父の義視が親政を始める。この動きに義政未亡人の日野富子と細川政元が、反対勢力となり対立を生んでいた。そして延徳3(1489)年正月7日その義視も53才でこの世を去る。さらに延徳3(1490)年4月3日堀越公方政知も56才の生涯を閉じた。対立していた両者の中心となる人物の相次ぐ死により、政局は動き出すのである。

 新将軍義材は前将軍義尚の意志を継ぎ延徳3年4月、六角高頼を討伐した。さらに翌年の明応2(1493)年、畠山義豊討伐のため河内に出陣した。ところがその留守を付いて、日野富子と管領細川政元がクーデターを起こし清晃擁立を決意する。清晃を義遐と改名させ将軍に付ける。4万の大軍を河内に送り、義材討伐に向かわせたのである。これにより義材は捕らえられ、明応3(1494)年12月義遐を義澄と改めさせて第11代室町将軍を継承させたのである。伊勢一族は、室町幕府政所の執事であった。伊勢新九郎はその一族で景のフィクサー的な存在で、謀略家でもあった。

 伊勢新九郎の駿河下向も、幕府の意向があったのでは無いでしょうか。ここで、伊勢新九郎の伊豆侵攻の経緯を説明する。堀越公方政知が、延徳3年4月になくなると同7月、政知の長子茶々丸は異母弟潤童子とその母円満院を殺害し、家督を奪った。この円満院は管領細川政元の養子、澄之の叔母にあたる。つまり、足利茶々丸は幕府実力者、細川政元の仇となったのである。ここに、伊勢新九郎(北条早雲)の伊豆侵攻の理由があったと思われる。つまり、伊豆侵攻は室町将軍家の許可があったと思われる。この頃の伊勢新九郎の立場は、駿河今川家の被官であると共に幕府奉公人でもあったのである。伊豆の国は関東管領山之内上杉家の守護国であるので、勝手に攻め入ることなど出来なかったであろう。伊勢新九郎(北条早雲)の足利茶々丸討伐は、やはり幕府の意向もあったと思われる。

新九郎(早雲)の伊豆攻め

 継母戸異母弟を切って堀越公方になった茶々丸であるが、酒乱の気もあり重臣である外山豊前守、秋山新蔵人など切り捨て家臣の信頼を失っていた。早雲は伊豆に入り、堀越御所の茶々丸を襲いこれを奪う。また新たに韮山城を築き、そこを本拠に北伊豆を平定する。茶々丸は南伊豆の狩野氏などを頼りなおも抵抗していた。早雲はここでは無理な戦わ行わず、気長に東伊豆、西伊豆の国人達を調略していく。絶対的不利に陥った茶々丸は、甲斐国の武田信縄を頼りなおも抵抗を続けていく。この時早雲は甲斐国にも出陣している。明応7(1498)年ついに茶々丸は自害して、早雲の伊豆平定が完了する。しかし、事は簡単には行かない伊豆の国は山之内上杉氏の守護国であり、扇谷上杉の守護国は隣国の相模である。この伊豆攻めは、両上杉家を大いに刺激したのであった。

上杉顕定の相模への出陣

 早雲が今川勢と友に伊豆に討ち入ったことは、相模の扇谷定正と武蔵、上野の山之内顕定の両上杉にとって大いに驚いたことだろう。特に山之内顕定配津の守護という立場から、警戒心を持ったに違いない。

 ここで定正が、「早雲伊豆侵攻」を手引きしたのではないかという疑惑が持ち上がった。その頃の両上杉は、長享の乱まっただ中である。扇谷定正は山之内顕定に相模まで攻め込まれていた。明応3(1494)年8月15日に武蔵関戸要害(東京都多摩市桜ヶ丘)、9月15日には相模玉縄要害(神奈川県鎌倉市城廻)が陥落している。扇谷定正方の絶対的不利な状況であった。さらに定正重臣、小田原城主大森氏頼が8月26日に亡くなる。さらに同じく定正重臣の三浦時髙も9月23日、養子の義同(同寸)に攻められ自害して果てる。

 顕定の相模侵攻とこの重臣達の相次ぐ死により圧倒的不利に陥った定正は、伊豆の早雲に救援を求めた。明応3(1494)年9月28日早雲は武蔵国多摩郡久米川(東京都東村山市久米川町)まで陣を進め定正と合流、顕定との戦いを協議する。10月2日両軍は、武蔵国高見原(埼玉県比企郡小川町高見)まで陣を進め、荒川を挟んで顕定と対峙した。定正が荒川を渡って顕定勢に攻めかかろうとしたとき、定正は落馬してそれが原因で急死してしまった。扇谷軍は総崩れで川越城に逃げ帰り、早雲も韮山城に引き上げる。定正の後は養子の朝良が継ぎ、江戸と川越城の守りを固めることとなった。扇谷家は、重臣2名の相次ぐ死と当主定正の急死によりもはや顕定軍に対抗する力は残っていなかった。

 早雲小田原を攻める

 他国者北条早雲(伊勢宗瑞)を武蔵に出陣させた定正の行為に、古河公方政氏は許すことが出来ず反転、顕定支持に回る。明応3年11月扇谷朝良は定正の意志を継いで顕定と戦ったが、この時古河公方政氏は顕定を助けて武蔵村岡(埼玉県熊谷市村岡)まで出陣している。扇谷が多はもはやジリ貧で、相模の様子を顧みる余裕はなかった。そのすきに早雲は相模侵攻を着々と練り、明応4(1495)年九月ついに大森藤頼の小田原城を奪い取った。ついに早雲は、関東の入り口を手に入れたのである。この早雲の小田原城攻めにより、長享の乱は自然消滅する。

 顕定、早雲を攻める

 関東管領山内顕定にとって早雲の小田原城奪取は、関東の危機であると言うことを悟ったのであろう。明応5(1496)年5月山内顕定は早雲への反撃を開始する。顕定は、古河公方政氏を奉じて西相模に進出する。享徳の乱収束に伴い、古河公方政氏は関東管領山之内顕定側に付いたのである。早雲の相模進出に対して、関東公方と関東管領という、体制を守らねばならなかったのである。ここでまた長尾伊玄入道(景春)が登場する。長尾伊玄は、終世を通じて反山之内上杉を貫いたのである。伊玄入道景春は、北条早雲と組み相模に陣を張る。この戦いでは山の内勢が、勝利している。同年7月長尾伊玄が武蔵に出陣するとの情報を経て、武蔵に進出することにした。相模には古河公方政氏に、庁鼻和上杉三郎と上州一揆を残した。

 両上杉の和睦

 話は前後するが、この頃明応6(1497)年9月30日古河公方成氏が亡くなる。享年64才、戦いに明け暮れた生涯であった。古河公方は、6代政氏が跡を継ぐ。この年はあまり動きはなかったが、永正元(1504)年8月21日上戸に陣を敷いて川越城を攻める。しかし、守りの堅いのを見ると江戸城攻めに作戦を変更。同年9月初め、陣を白子(埼玉県和光市白子)の張った。この動きに対して扇谷朝良は、伊豆韮山の北条早雲と駿河守護今川氏親ね援軍を求めた。この時の朝良は後、この北条家が扇谷上杉を滅ぼすとはつゆとも感じなかったようである。この時の早雲の動きを見れば、甲斐の武田家に出陣したり、相模に出陣したりして相模進出の足がかりを着々と進めていたのがわかる。永正元年(1507)年9月27日両軍は、多摩川上流立川原(東京都立川市)で激突する。この時扇谷側連合軍が勝利を収めたが、両軍共に死傷者が多く出たのでお互い陣を引いた。鉢形城に退いた顕定は、弟の越後守護上杉房能に援軍を求める。房能は守護代長尾能景(上杉謙信祖父)に出兵を命じると共に、上州一揆の江口弥太郎、楡礼又三郎、発智六郎右衛門などに協力を頼む文書を送っている。この援軍をえて顕定は、同年12月1日には武蔵椚田要害(八王子市椚田)、同月26日のは相模の国真田要害(神奈川県平塚市真田)を激戦の末落とし戦いを有利に進める。永正2(1508)年2月、勢いに乗った顕定勢は朝良を川越城に包囲した。相次ぐ敗戦と、絶対的不利を悟った扇谷氏家宰の曾我氏が朝良しを説いてついに両上杉の和睦がなる。条件は、朝良の江戸城への隠遁である。扇谷の家督は、養子の朝興が継いだ。20年にも渡る不毛の長享の乱もここに収束したのである。この戦いは、北条早雲による相模進出を助けた結果となってしまった。両上杉にとっては、何もならない20年であった。

伊勢勢新九郎(北条早雲)の相模制圧と顕定の戦死

 永正2(1502)年には山内、扇谷の両上杉の和睦を整える。関東の不毛の戦い享徳の乱と長享の乱はここに収束する。都鄙和睦、両上杉の和睦を果たした顕定は古河公方、関東管領体制復活を夢見る。子のいない顕定は、古河公方政氏の弟を養子に迎え顕実と名乗らせた。さらに政氏次男義明を鎌倉鶴岡八幡宮の別当に任命して、その体制復活の準備を始める。しかし、ここで顕定に誤算が生じる。それは、政氏嫡男高基が不満を持った事である。高基は父基氏と対立し、正室の実家である宇都宮成綱のもとに走った。顕定の政策が、高基家督の否認に映ったのである。慌てた顕定は、出家して可諄(かじゅん・年頃に教え諭すの意)を名乗り基氏、高基の調整に入る。顕定の努力の結果両者は、永正4(1504)年8月3日高基から基氏へ詫び状が届く。

 その頃顕定の実家、越後で異変が勃発する。その頃越後守護は、房定から房能に守護家督が移動している。房能は明応7(1498)年、守護に着くと「守護使不入(一部国人に守護の検察、課税を拒否できる特権を認めていた)」の破棄を申し渡したのである。これを不満に持っていた長尾為景(上杉謙信父)ら国人達が、房能の養子定実(上条上杉)を担いでクーデターを起こしたのである。永正4(1504)年8月1日のことである。房能は戦に負け、弟の居る関東に逃れようと落ち延びたが為景らに追いつかれ松之山温泉近くで包囲され自害してしまう。顕定にとって実家の一大事であり、まさに下剋上であった。

 その頃中央でも異変があり、大内義隆が流浪将軍義尹と京都に向かい永正5(1508)年14年ぶりに上洛して将軍に復帰するいうことが起こった。これも為景には幸いした。為景は義尹が越中に亡命したとき援助していたのである。このクーデターで越後守護になった定実が正式に新室町将軍に認められたのである。

 この異変に対して顕定は、古河公方父子の朝廷に気を取られ対応が一歩遅れる。これを察知した長尾伊玄入道景春が、上野白井城(八崎城か?)に入城し韮山の北条早雲と連携して越後、上野、伊豆を結ぶ顕定に対しての防衛線を張った。上杉顕定も背後の越後を取られば、関東管領の威厳も保てない。また、越後には山之内上杉の所領もあり、弟の房能を討たれた恨みもある。永正6(1509)年顕定、憲房父子は八千の大軍を率い越後に進軍した。越後の坂戸城主長尾房景、本庄の色部、揚北衆、定実実家の上条上杉氏なども顕定に加勢する。対する為景勢は蔵王堂城、三条城、護摩堂らの長尾一族、中条、斉藤、毛利、宇佐美氏らの国人、北信濃の高梨、小笠原、市川の各氏である。各地の一族も国人も自分たちの利害を求め敵味方に分かれたのである。初戦は、顕定勢の大勝に終わる。敗れた為景は、越中へ落ちていった。顕定はこの年を、越後で越すのである。

 この、関東管領留守の間を早雲が見逃すはずはない。早雲の動きは速い。永正7(1510)年、早雲は鶴岡八幡宮の別当空然(古河公方政氏の次子)を還俗させ義明と名乗らせ、武蔵太田荘で挙兵させる。さらに長尾為景、長尾伊玄と連携して顕定を牽制する。同年5月早雲は、武蔵椚田要害を攻め落とし相模高麗寺城、住吉城を固め相模中央部から武蔵まで進出してくる。これに応じる形で、扇谷朝良の重臣上田正盛が武蔵権現山城で反きをを起こした。古河公方家でも公方政氏と高基、義明とで対立していた。関東は、一気に不穏な空気に包まれてしまったのである。

 顕定は同年6月20日、勢いを取り戻した為景勢のため越後長森原で敗れ、さらに討ち取られてしまったのである。養子の憲房は上野に敗走する。まさに関東管領家にとって、一大事件が起きたのである。

顕定敗死後の関東

上杉顕定の敗死は、関東の一大事であった。これにより山之内上杉では家督を、鉢形城に入った顕実が継いだが、上野平井城に入った上杉憲房と勢力が二分されてしまった。両上杉にとって顕定の時代の勢力は、残っていなかった。永正7(1510)年7月11日、北条早雲に寝返った相模権現山城の上田政盛を扇谷朝良が攻め立てた。その兵力は、扇谷上杉朝良、上野平井城の山之内上杉憲房も加勢した。この戦では、上杉方が勝利して権現山城を奪い返したが、この戦以降上杉方が勝利することはなくなった。相模の中央まで北条早雲が、進出してきたのである。北条方には今川氏親、長尾伊玄入道などが加勢して、いよいよ劣勢となり三浦義同の岡崎城、新井城まで危うくなってしまった。扇谷朝良にとってここを取られると、本拠である川越城も危うくなってしまうのである。

 永正7(1510)年8月3日付け書状で、平井城主上杉憲房は幕府に対して「長尾六郎為景追討」を願い出ている。しかし、将軍義稙は古くから長尾為景とよしみを通じていたので、逆に越後守護上杉定実、守護代長尾為景体制を支持しており、かえって越後に侵入した顕定与党の追討を命じている。もはや古い体制は、もろくも崩れ去ろうとしていたのである。

 永正8(1511)年2月、早雲と扇谷朝良は和議を結んだ。上杉顕定の死後、平井の憲房と鉢形の顕実の間で関東管領の家督争いが起こっていたのである。この戦いに古河公方である政氏とその子高基の対立が複雑に入り組んで上野、武蔵は争いが起こっていた。朝良はそんな背後の情勢が気になり、動けなくなっていた。このチャンスを北条早雲が見逃すはずもなく、虎視眈々と三浦義同攻めを狙っていたのである。

 そんな中、北関東下野で”宇都宮錯乱”という争いが起こる。宇都宮城主の宇都宮成綱が代々の重臣芳賀高勝を自害させたのである。これに、古河高基が介入した。高基の正室は成綱の娘であったのである。南奥州の石川尚光や常陸の佐竹義舜の重臣小野崎通綱などに成綱支持を求めた。それに対して古河公方政氏は、逆に常陸の佐竹義舜や南奥州の石城常隆らに宇都宮成綱討伐を命じている。関東管領家においては、関東管領鉢形城の山内顕実と上野平井城の憲房の2人の顕定養子の対立は激化してついには、永正9(1512)年6月顕実は鉢形城を憲房に攻められ古河に逃亡した。顕実は永正12(1515)年古河で死亡し、関東管領職は憲房が継いだ。これ以降関東管領の本拠は上州平井城となる。この政氏と顕実、高基と憲房の対立は古河公方と関東管領家の衰退を呼び、ついには後北条家による関東支配に移っていくのである。そしてこの古河公方父子の対立は、公方の政氏が古河を追われ下野の祇園城主小山成長のもとへ落ちていくのである。

 このように関東の公方家と管領家がゴタゴタしている間北条早雲、氏綱父子が動く。扇谷上杉氏の重臣、三浦義同、義意父子を新井城に攻めたのである。江戸城の扇谷朝興も三浦父子救援のため出陣したが、相模玉縄城付近で北条軍に敗れ、撤退する。三浦父子は、重臣達に「一旦上総の武田信勝を頼って退き、再起を図るよう。」意見ををされたが、覚悟を決めた三浦同寸(義同)、義意父子は城を打って出て討ち死にしてしまう。永正13(1516)年7月11日のことであった。早雲、氏綱父子は相模全土を制圧したのである。それに対して、扇谷上杉氏は武蔵半国と勢力を大幅に縮小されることとなる。

 相模統一がなった永正15(1518)年9月早雲は、隠居して家督を氏綱に譲った。その翌年永正16(1519)年8月15日、88才の長寿を全うして亡くなっている。この早雲の死の5年前生涯をかけて山之内上杉に抵抗し続けていた、長尾伊玄入道(景春)も亡くなっている。時代は、すでに新しい世代に変わりつつあったのである。これより先は、北条氏綱による武蔵侵攻が始まる

扇谷上杉氏の滅亡

 時代は次の世代へ

 相模を取られた扇谷朝良は、無念を晴らすことなく永正15(1518)年4月になくなる。跡を継いで川越城主となったのはその子、朝興であった。もはや、以前の力は残っていなかったのである。
 相模平定を終えた北条早雲は、隠居して家督を氏綱に譲った。早雲87才、氏綱32歳であった。氏綱は家督を継ぐとすぐに、「禄寿應隠」の印伴を使い始める。これは有名な、北条家の「虎の印伴状」と呼ばれる物である。これによりこの印伴の無い書状は、無功という決まりを作り小田原北条氏体制を確実なものにしようとしたのである。
 氏綱の家督相続の翌年、永正16(1519)年8月15日ついにその生涯を閉じる。この頃の寿命を考えると、88才という信じられない長寿であった。早雲の死を遡ること5年、長きにわたり山之内上杉氏に敵対していた長尾伊玄入道(景春)が死んでいる。まさに、関東の巨星、2人が相次いで亡くなり時代も変わろうとしていたのである。

 氏綱の戦略

 氏綱の次の目標は、武蔵攻略である。氏綱は早雲と同じく、慎重に事を進める。虎の印判を使い、領内の確実な支配を進める。永正15(1518)年9月御法を制定する。物資の調達、人足については虎の印判を使い郡代、代官を通じて行うとし、さらに郡代、代官の命令でも虎の印判のないものは無功で、命令に従わなくとも良いとした。これは、領主と百姓の間に中間的な存在を認めないと言うことである。領国支配に於いて、戦国大名が行う政策を先駆けて行っていたと言うことである。

 大永元(1521)年2月古河公方高基の嫡男亀若丸(晴氏)と自分の娘の婚約を決めた。実際の輿入れは、17年後のことである。関東で氏綱は、まだ他国者の侵入者である。まだ古い権威が残っているこの時代に於いて、古河公方家と小田原北条家の婚姻は関東に於いて、北条家の関東での正当性を保証してくれる物であった。この婚約は、高基にとっても益あるものでした。当時高基は、父政氏と和解していた。しかし、高基は新たにその弟、義明との対立が始まっていたのである。義明は鶴岡八幡宮の別当になっていたが、還俗し上総国人真里谷の武田三河入道恕鑑に迎えられた。さらに古河公方方の小弓城を奪い、小弓公方と呼ばれていたのである。この義明に鎌倉に入られてしまえば、古河公方高基にとってゆゆしき事態となってしまう。古河公方と北条氏の利害が一致していたのである。

 このような状況下にあっても、まだ上杉氏は同族で争っていた。こんな中、氏綱が扇谷朝興の重臣太田源六郎資高、資貞兄弟を味方に誘う。兄弟は祖父道灌の件もあり、なびいたのである。資高の奥方は氏綱の娘と太田系図にあるので、一族の待遇を約束して離反を誘ったのかも知れない。いずれにしろ太田兄弟の離反によってついに氏綱が動く、大永4(1524)年正月江戸城攻撃に踏み切る。同月13日、扇谷朝興は兵を高輪原(東京都港区高輪)に兵を進め氏綱に対抗した。この戦いは氏綱が兵を二つに分け、巧みな戦いを見せ勝利する。朝興は、江戸城を失い川越城に退却した。もはや、扇谷方が滅びるのは目を見るより明らかなことであった。

扇谷上杉朝興の出兵と北条氏綱、長尾為景

 関東管領家の上杉(山内)憲房の影響力は、徐々に薄れ始めていた。江戸城を手に入れた氏綱は、ここに重臣遠山直景を城代として入れ南武蔵を抑えた。この動きに対して、武蔵の国人が動揺して入間郡毛呂城(埼玉県入間郡毛呂山町)毛呂氏、石戸城(埼玉県北本市石戸)などが氏綱に従うことになる。両城は、扇谷朝興の居城川越城に僅か十数キロの距離しかない。朝興はもはやジリ貧で、大永4(1524)年7月江戸城奪還のため、武蔵品川の妙国寺付近まで進出してきた。氏綱も反撃体制を敷き、両軍対決の機運を見せ始めていたのである。同年10月この情勢を見た山内上杉憲房は、上野から武州鉢形城に兵を移して毛呂城奪還の兵を挙げる。氏綱も同月16日、江戸城を出陣して毛呂城救援に向かう。しかし、ここでキーマンが登場する。越後の守護代、長尾為景である。為景は、関東管領上杉家にとっては顕定を討った仇敵であったが、もはやそんなことを言っていられないほどに為景の実力は上がっていたのである。上野と武蔵の国人は、この為景に関東出陣を強く求めていたのである。この決戦を前に、上杉方の足利長尾憲長や武蔵の国人、秩父の藤田康邦が氏綱に仲裁して和睦となった。この時おそらく、越後の長尾為景の関東出兵を匂わせて有利に交渉したのでしょう。和睦条件は、毛呂城の憲房側への明け渡しと毛呂城主毛呂太郎を初めとする城兵の救済であった。同年11月23日付け為景宛氏綱の書状に、この頃氏綱が伊勢姓を改め北条を名乗ったことが気されている。この事により氏綱が、鎌倉幕府の執権北条の姓を名乗ったことにより、関東制覇の強い野望が見て取れる。

和睦後の氏綱の戦略

 大永5(1530)年2月6日、氏綱は武蔵の岩槻城主太田資頼を攻めた。岩槻城は、荒川と大沼に囲まれた要害であったが、武蔵被官の渋江三郎の裏切りで僅か1日で落ちてしまった。武蔵国人も、もはや北条方へなびく時となっていたのである。この頃北条氏綱は、武蔵情勢を越後の長尾為景に度々書状で知らせている。一方上杉方諸将も、為景関東出馬を願う書状を度々送っていた。この頃為景は、関東の情勢を左右するほどの実力を越後に於いて築いていたのでしょう。為景はこの頃、氏綱に対して好意的であった。
 毛呂城を明け渡した氏綱は、戦線を下総の葛西城に移した。この城の城主は、扇谷家の家老大石石見守であった。
 その頃の為景に当てた太田資頼の書状に依れば、山之内上杉の重臣総社長尾顕方まで北条方へ内通しているという。白井長尾景誠は三国街道を抑え、越後の為景に従っていた。総社の長尾顕方は山之内上杉憲房と顕実の家督争いの時、顕実方であった為憲房とは疎遠となっていたのである。もはや関東管領家山之内上杉家は、一枚岩ではなくなっており、憲房の存在は国人達から無視されるようにまでになっていたのである。

関東管領山内上杉の内実と越後長尾為景

 大永5(1525)年3月25日、関東管領山内憲房が死んだ。憲房の後は、養子であり古河公方家の出身の憲寛が継いだ。憲房の実子、憲政は5才と幼かったのと山内の奉行である足利長尾憲長の考えによるものであろう。何とか公方と管領体制を守ろうとする物である。しかし、長尾一族と上州国人一揆との対立の火種を蒔くこととなる。長野氏は古い国人で、上州国人一揆の旗頭の1人で箕輪城の本家と厩橋城の分家に分かれていた。一方上州の長尾一族は、本家の白井長尾氏と分家の総社長尾氏に別れていた。その頃、総社長尾顕景が北条氏綱方へ走っていた。大永7(1527)年上杉方の長野業政が総社長尾顕景を攻めたことから、戦いの火蓋は落とされた。業政には北条方に寝返った、総社長尾顕景を討つという大義名分があった。長尾一族の危機である。顕景は、越後の長尾為景に従っている白井長尾景誠と為景に支援を求めた。まさに長尾一族の危機である。この頃越後の長尾為景は、憲房の死後山之内上杉憲寛と和解していたのである。長尾為景はこの頃、関東管領家である山之内上杉氏や古河公方家の後ろ盾となっていたのである。為景は、将軍足利義晴とも良い関係にあり、古河公方高基嫡男の亀若丸の元服の際も将軍家に働きかけ義晴の一字をもらい受け晴氏と名乗らせた。為景は北条氏綱との関係を断ち切り、関東管領家の後ろ盾になった。為景の実力は、もはや関東まで及んでいたのである。

南武蔵の状況

 山之内上杉氏が北関東で家中の長尾、長野両氏が抗争を続けている間も、川越城の扇谷上杉朝興と北条氏綱の死闘がくり広げられていた。氏綱に奪われた江戸城を奪い返すべく、積極的に攻めている。この頃の相模の氏綱は、安房の里見義尭がしばしば海を渡り相模に攻め込みさらに、甲斐の武田信虎とも対立していたのである。扇谷上杉朝興にとって、念願である江戸城奪還の絶好の機会が訪れていたのである。大永5(1525)年8月には武蔵白子原(埼玉県和光市白子)にて氏綱勢を破り、翌大永6(1526)年6月7日には武蔵蕨城(埼玉県蕨市中央4丁目)を奪い返した。同年9月には山内憲寛勢も戦いに加わり、入間川に出陣、相模の小沢城(武蔵と相模の境界)を攻めた。大永6(1526)年には、鎌倉の玉縄城、相模の鵠沼砦(神奈川県藤沢市鵠沼)にまで攻め込んでいる。これを見ると上杉氏が攻勢をかけているように見えるが、その頃の氏綱は安房の里見義尭、甲斐の武田信虎の対応にも兵力を割かなければならず、兵力を集中できない事情があったのである。

氏綱の江戸城攻略

 家督を継いだ北条氏綱も、早雲に似て慎重で謀略家であった。まず掌握した相模の国を虎の印判を使い領内の支配を確実なものにする。永正15(1518)年9月、法令を定め「虎の印判のないものは正式な文書ではない。」つまり、虎の印判のないものに従う必要が無いと定めたのである。これは氏綱による直接的な人民支配のあり方を、確立したのである。氏綱は、武蔵進出を確実なものにするため大永元(1521)年2月古河公方基氏の嫡男亀若丸(晴氏)と自分の娘の婚約を決めた。この婚約は、武蔵進出の正当性を作るためのものであった。一方古河公方家でも、問題点を抱えていた。前古河公方政氏と古河公方高基の確執が解決した後、高基の弟義明(鶴岡八幡宮の別当から還俗して小弓公方と呼ばれていた。)との勢力争いが始まっていたのである。この義明は、古河公方に代わって鎌倉に舘を構え鎌倉公方になるという野心があった。この義明に上総の国人真里谷城主武田三河入道恕鑑、安房の里見などが加わり公方家においても勢力を二分するようになっていた。相変わらず、関東管領山之内上杉憲房は扇谷上杉朝興と争っている。その間隙を縫い、ついに氏綱が動き出す。朝興の重臣太田源六郎資高とその弟資貞を味方に誘い、江戸城攻撃に踏み切る。資高は太田道灌が扇谷上杉定正によって殺された事実を知っている。資高、資貞は氏綱に内通したのである。大永4(1524)年正月、氏綱は江戸城を攻める。朝興は同月13日、高輪原(東京都港区高輪)に軍を進め氏綱と戦った。氏綱は、兵を二つに分け巧みに戦い朝興勢を破り、朝興は江戸城を捨て川越城に撤退する。これにより、江戸城は簡単に北条氏の物となったのであった。これは、扇谷上杉の滅亡を暗示する出来事であった。太田道灌が扇谷定正によって殺されたとき「当方滅亡」と叫んだが、ついに現実の物となりつつなったのである。

長尾景為の動き

 江戸城を攻略した氏綱は、遠山直景を江戸城に配置した。武蔵の国人達の動揺し、北条に内通する国人も現れ出す。入間郡の毛呂城(埼玉県入間郡毛呂山町)毛呂氏、石土城(埼玉県北本市石土)などが氏綱に内通した。毛呂城、石土城ともに扇谷氏の本拠川越城から十数キロの距離である。武蔵南部の国人を抑えた氏綱は、ついに川越城の包囲を始めたのである。大永4(1524)には両軍対決の気運が高まってきていた。同年8月関東管領山之内上杉憲房が動く。上野より武州鉢形城に移り、朝興勢の支援をしたのである。憲房は、氏綱方となった毛呂城奪還に動き出したのである。北条氏綱、同月16日江戸城を立ち、毛呂城に向かった。両軍、一触即発の状態になったが上杉方の足利長尾憲長や武蔵国榛沢郡藤田荘、天神山城主藤田康邦の仲裁で両軍一旦和睦となった。この時期北武蔵、上野の国人達が越後の長尾為景に関東出馬を強く求めていた。この長尾為景の関東出馬の噂が、両軍の和睦に大きく働いたのではないか。長尾為景の実力は、もはや関東までも影響を受けるまでになっていた。長尾為景は始め北条早雲、氏綱と良い関係を保っていた。しかし、この頃になると北条に押された上杉氏のことも無視できないほど逼迫していたのです。

 大永5(1525)年2月6日、氏綱は武蔵の岩槻城主太田資頼(道可)を攻めた。この岩槻城は、元荒川と沼に囲まれた要害であったが被官渋江三郎の裏切りで、たった1日で落ちてしまった。武蔵国人の動揺は計り知れない物となっていた。この頃氏綱は、関東での情勢を戦のたびに越後の為景に書状で知らせている。この頃の為景は氏綱、上野の有力国人の両方からラブコールを受ける状態であった。早雲以来の親密な関係と、氏綱になってからの上杉氏への圧力からその被官立ちによる危機感が相まって、長尾景為の存在感が一段と増していたのである。つまり、景為の動きによって、関東の情勢が変わりうるほどその実力と存在感が日に日に強くなってきた。このため景の勢力拡大が、後の長尾景虎(上杉謙信)の活躍につながったのではないでしょうか。

 毛呂城を扇谷朝興の明け渡した氏綱は、下総の葛西城(東京都葛飾区青戸)攻めに切り替えた。葛西城は、下総と武蔵の国境の地である。この葛西城は南関東の要の地で、扇谷上杉の重臣大石石見守の守る城である。ここを北条が抑えれば、もはや関東支配も見えてくる。この頃から上杉方諸将から、為景への書状も増えてくる。もはや、管領上杉氏が生き残るには越後の長尾為景の力なくしては成り立たない状況ともなっていたのです。大永3(1523)年3月23日付の扇谷朝興、三戸義宣、太田資頼(道可)の3通の悲痛な書状が確認できる。

「当国の様体、飛脚を持って申届け候所、回報去る19日到来、懇切の至りに候。然れば他国の凶徒(北条氏綱)隆起せしめ、関東破滅、嘆きてもあまりある次第に候。定めて同意たるべく候か。この度、自身(長尾為景)合力あって引立てられ候はば首尾連々。・・・つぶさに同名長尾顕景(白井長尾氏)より申届らるべく候。」

 上の書状は、扇谷朝興が長尾為景に宛てた書状である。関東管領上杉顕定のとは、越後の長尾為景と敵対していた。また、為景によって顕定は銭しした恨みもあったのであるが、もはや関東の上杉一族の存続は、為景の動向にかかっていたのである。

長尾景為の動き

 江戸城を攻略した氏綱は、遠山直景を江戸城に配置した。武蔵の国人達の動揺し、北条に内通する国人も現れ出す。入間郡の毛呂城(埼玉県入間郡毛呂山町)毛呂氏、石土城(埼玉県北本市石土)などが氏綱に内通した。毛呂城、石土城ともに扇谷氏の本拠川越城から十数キロの距離である。武蔵南部の国人を抑えた氏綱は、ついに川越城の包囲を始めたのである。大永4(1524)には両軍対決の気運が高まってきていた。同年8月関東管領山之内上杉憲房が動く。上野より武州鉢形城に移り、朝興勢の支援をしたのである。憲房は、氏綱方となった毛呂城奪還に動き出したのである。北条氏綱、同月16日江戸城を立ち、毛呂城に向かった。両軍、一触即発の状態になったが上杉方の足利長尾憲長や武蔵国榛沢郡藤田荘、天神山城主藤田康邦の仲裁で両軍一旦和睦となった。この時期北武蔵、上野の国人達が越後の長尾為景に関東出馬を強く求めていた。この長尾為景の関東出馬の噂が、両軍の和睦に大きく働いたのではないか。長尾為景の実力は、もはや関東までも影響を受けるまでになっていた。長尾為景は始め北条早雲、氏綱と良い関係を保っていた。しかし、この頃になると北条に押された上杉氏のことも無視できないほど逼迫していたのです。

 大永5(1525)年2月6日、氏綱は武蔵の岩槻城主太田資頼(道可)を攻めた。この岩槻城は、元荒川と沼に囲まれた要害であったが被官渋江三郎の裏切りで、たった1日で落ちてしまった。武蔵国人の動揺は計り知れない物となっていた。この頃氏綱は、関東での情勢を戦のたびに越後の為景に書状で知らせている。この頃の為景は氏綱、上野の有力国人の両方からラブコールを受ける状態であった。早雲以来の親密な関係と、氏綱になってからの上杉氏への圧力からその被官立ちによる危機感が相まって、長尾景為の存在感が一段と増していたのである。つまり、景為の動きによって、関東の情勢が変わりうるほどその実力と存在感が日に日に強くなってきた。このため景の勢力拡大が、後の長尾景虎(上杉謙信)の活躍につながったのではないでしょうか。

 毛呂城を扇谷朝興の明け渡した氏綱は、下総の葛西城(東京都葛飾区青戸)攻めに切り替えた。葛西城は、下総と武蔵の国境の地である。この葛西城は南関東の要の地で、扇谷上杉の重臣大石石見守の守る城である。ここを北条が抑えれば、もはや関東支配も見えてくる。この頃から上杉方諸将から、為景への書状も増えてくる。もはや、管領上杉氏が生き残るには越後の長尾為景の力なくしては成り立たない状況ともなっていたのです。大永3(1523)年3月23日付の扇谷朝興、三戸義宣、太田資頼(道可)の3通の悲痛な書状が確認できる。

「当国の様体、飛脚を持って申届け候所、回報去る19日到来、懇切の至りに候。然れば他国の凶徒(北条氏綱)隆起せしめ、関東破滅、嘆きてもあまりある次第に候。定めて同意たるべく候か。この度、自身(長尾為景)合力あって引立てられ候はば首尾連々。・・・つぶさに同名長尾顕景(白井長尾氏)より申届らるべく候。」

 上の書状は、扇谷朝興が長尾為景に宛てた書状である。関東管領上杉顕定のときは、越後の長尾為景と敵対していた。また、為景によって顕定は銭しした恨みもあったのであるが、もはや関東の上杉一族の存続は、為景の動向にかかっていたのである。

 そんなさなか、関東管領家の上杉憲房が死んだ。跡は養子である憲寛嗣いだ。これは、この時山之内の奉行であった足利長尾憲長の考えによるものだったのである。新管領憲寛は、古河公方家から山之内上杉に養子に入った人である。憲房の嫡子、憲政は未だ5才と幼かったのと古河公方、関東管領という古い体制を何とか守ろうとする考えもあった。

 しかし、憲房の死は上野国内で山之内上杉被官の長尾一族と上州一揆長野一族の抗争を引き起こした。長野業政で有名な長野氏は、西上野長野郷を本拠とした古い豪族であり、上州一揆の旗頭の一人で、山之内上杉氏の被官であった。事のきっかけは、総社長尾顕景が北条氏綱方に寝返ったことから始まる。大永7(1527)年11月、長野業政は長尾顕景を攻撃する。そのときの地勢を考えると、長野分家の厩橋城と総社長尾氏の総社城は利根川の東岸と西岸で相対し、長野氏の箕輪城と厩橋城に挟まれる形となっていたのである。

 長野氏の攻撃を受けた長尾顕景は、絶対的不利の情勢を打破しようと越後の長尾為景支援を求めた。長野氏側は、「山之内上杉を裏切った長尾顕景を討つ」という大義名分があった。

「真実名字中の好しみ、取分我々の事、代々別して丞意の趣き申すの間、生々世々御芳志賜るべく候」
「なほなほ足軽を二百騎御合力の預かれば、当地の事万代不朽たるべく候」

 上の文面から山之内上杉家の詫言、長野氏の仲裁、さらに兵力の救援まで為景に頼み込んでいるのがわかる。

 越後の為景は憲房の死後、足利長尾景長の斡旋で管領山之内憲寛とすでに和解していたのである。この頃の為景は、関東管領家の後ろ盾になっており氏綱といつまでも関係を持っているわけにはいかなかったのである。享禄元(1528)年、古河公方高基嫡男亀若丸元服の時、為景は幕府と交渉して将軍義晴の一字をもらい受け晴氏と名乗る。これも、山之内憲寛とその家宰長尾憲長が為景に頼んだのである。幕府への謝礼や、多くの費用も為景が負担した。この頃の長尾為景は、「享徳の争乱」の時の長尾景仲のような存在になっていた。この頃すでに、長尾景虎(上杉謙信)が関東管領に就任する下地は出来ていたのかも知れない。

扇谷朝興の死と川越城落城から川越の夜戦まで

 天文4(1535)年8月富士川沿いで、武田信虎と今川氏輝が戦端の火ぶたを切った。北条氏綱、氏康父子は今川支援のため、篭坂峠を越え甲斐国に攻め入った。その間隙を突き、扇谷朝興は同年9月下旬相模に攻め入った。大磯、平塚、一宮、小和田、知賀﨑などを襲い各地に放火、乱暴した。この頃になると、扇谷もこんなゲリラ戦を行う程度の戦力しか残されていなかった。

 対する氏綱は、同年10月12日安房、伊豆、相模の兵を川越城攻めに向かわせた。北条勢は、同月15日武蔵入間川の戦いで扇谷軍を破り、ついに扇谷の本城である川越城を囲むべく進軍したのである。この頃の関東の情勢は、古河公方高基が天文4(1535)年10月8日に亡くなり、その後は高基の嫡子晴氏が古河公方を継いだ。と言うことは、古河公方家も北条方へ傾いたのである。これにより、川越城は孤立したのです。

 川越城に籠城していた扇谷朝興は、天文6(1537)年4月城中で病死する。50歳であった。跡目は嫡男朝定が13歳という若さで継いだ。そのとき朝興は、「我氏綱と合戦すること14度、一度も打ち勝つことなし。我死なば、草々仏事作膳の営みよりまず、北条を退治して国を治めるべし」と遺言したのであるが、もはや朝定にはそんな力はなく川越城は落城して、松山城に退去した。これにより、扇谷家は一城を維持する国人クラスの一領主にまで落ちたのである。 この扇谷家の衰退により、関東管領を嗣いでいた山之内上杉憲政もやっと上野を維持するのがやっとの状態にまでなってしまった。

 この情勢の中で氏綱は天文7(1538)年10月4日江戸川の東岸、国府の台で小弓公方足利義明勢を破り戦死させ上総、下総までその勢力を伸ばしたのである。そして、天文8年には、氏綱娘芳春院を晴氏に正室として送り込み古河公方家までも北条方に引き入れている。この合戦により、氏綱の領地は駿河半国、伊豆、相模、武蔵の大半、上総、下総まで及んでいたのである。晴氏と氏綱娘の婚礼に先立ち、古河公方晴氏の重臣梁田高助にたいして
 「かの御祝言のこと、お走り周り入眼の上は、其の方にへ対し奉り、氏綱沙汰無く存じべからざるの事」
と言う起請文を送り公方家内部にくさびを打ち込んだのです。この頃の氏綱は、自ら「大途」と称し、関東管領を辞任していた。同年11月21日、かねてから造営していた鶴岡八幡宮が完成して、落慶式が執り行われた。その翌年、天文10(1541)年7月17日巨星氏綱はこの世を去った。その跡は嫡男氏康が継いだ。27歳の青年武将である。ここまで伊勢宗瑞が伊豆に攻め込んでから、およそ半世紀の月日が流れていた。

 天文10(1541)年10月、つまり北条氏綱死去の直後、扇谷朝定は其の間隙を縫って川越城の近くまで攻め込み、川越城奪還を狙った。しかし、北条方が城を固めたので落城には至らなかった。扇谷家はもはや、単独で北条に対峙する勢力を有していなかったのである。

 この頃になると、関東管領上杉憲政は危機感が募り北条氏康との対立を鮮明に打ち出す。まず駿河の今川義元連携して、駿河と武蔵での邀撃作戦に出る。今川義元は、駿河統一を目指していたのである。その頃の駿河は、富士川を境に東が北条領、西が今川領と分かれたいた。天文14(1545)年7月、今川勢は善徳寺(静岡県富士宮市)に陣を進め、さらに駿東郡の北条の城、長久保城を取り囲んだ。それに合わせて今川と同盟関係にあった甲斐の武田晴信が、南下してきて駿河大石寺(静岡県富士宮市)まで進出してきて今川支援に乗り出してきた。この時氏康は、長久保城救援のため駿河に出陣していたのであるが、この報を受け三島まで後退。

 同年9月、氏康勢苦戦を見た山之内憲政は上野平井を出陣し、扇谷朝定と共に川越城を囲む。そして、古河公方晴氏を鎌倉復帰を餌に味方に引き入れた。其の勢8万とも言われている大軍を川越城包囲軍に集めることに成功した。もちろん晴氏には、下野の小山、宇都宮、那須、長沼、佐野、常陸の佐竹、小田、大掾、下総の結城らも参陣している。この連合軍の河越城包囲は、天文14(1545)年10月~翌15年4月まで続いた。守るは、北条綱成(駿河の福島綱成で氏綱の娘婿)3千である。綱成は名将で、川越城を良く守り寡兵で持ちこたえていたのである。

 この頃北条と今川の間で和睦の交渉が、武田の斡旋で進められていた。同年10月20日、北条のするが半国割譲で、和議が成立して憲政、氏康、義元の誓詞が晴信の元に届けられ成立した。しかし、山之内憲政は8万という大軍で勝てると踏んでいたのか、川越城の包囲を解かずにいた。

 北条氏康は、天文15(1546)年8千の手勢を率い川越城に向かう。一方関東管領、古河公方連合軍は6カ月もの間寡兵で守る川越城を落とせずにいた。このていたらくの連合軍は戦意も低く、ただの烏合の衆のようであった。天文15年4月、これを読み取った氏康はこの連合軍に対して夜襲を掛けたのである。目指すは、両上杉の旗本衆である。この夜襲によりついに連合軍は総崩れとなり、扇谷朝定は戦死して扇谷上杉は滅亡、山之内上杉憲政は上野平井に撤退という事態になる。この戦いにより、関東の趨勢は北条方へと流れていく。

 氏康はこの合戦の勝利に当たり、古河公方晴氏に対して叱責の文書を送っている。もはや古河公方家も北条の息が掛かるようになった。この戦いにより、関東公方、関東管領という旧態の支配体制は完全に崩れ、戦国大名後北条家が関東を席巻し始めるのです。この戦いにより、上野の国人も氏康に従う者も出てきて、関東管領山之内上杉家は上野一国も維持できないほどの勢力となってしまった。もはや関東は、旧体制から北条を中心とする新体制に移行していったのである。

憲政、越後に退去する

 河越合戦で大敗した関東管領上杉憲政は、上野と武蔵の北の一部という地方勢力に落ちていた。この河越合戦のあと、武州松山城もあっけなく落城。主家を失った扇谷家の重臣である大石定久(武州滝山城主)、藤田邦房(武州秩父天神山城主)も氏康に降伏している。氏康にて敵対していた太田資正が松山城を奪回したのであるが、兄で北条方の岩槻城主太田資時の死を持って岩槻城に移り、氏康と和睦している。天文17(1548)、正月のことである。

 こんな状況の中憲政は、信玄の上田原での村上義清との戦いの敗北(砥石崩れ)と信玄熱病の噂を信じて天文17年10月武田勢と佐久で戦う。この戦いでも、山之内勢は武田に大敗した。「関東古戦録」や「北条記」においても、憲政の寵臣菅野憲頼と上泉兵庫助がそそのかしたと書いている。この時憲政の重臣、長野業政は「この戦いは愚戦である」として参陣していない。この時参陣しなかったことについて、信玄より天文17年11月15日付の感状が業政宛に出ている。

 この敗戦は、憲政をさらに追い詰めていく。天文17年12月、山之内上杉の古くからの被官であった国峰城の小幡尾張守が憲政馬廻り衆、緑野郡小林平四郎を攻めてきた。この国峰城から平井城まで僅か10キロ程度の距離である。こんな敗戦続きの憲政に、国人の一部から反乱も起きていた。

 天文18(1549)年夏、氏康は武州松山城を修築して上州討ち入りの準備を着々と進める。天文20(1551)年ついに氏康は軍を起こしたのである。同年12月、北武蔵児玉郡金讃の御嶽山城の安保泰広、泰忠父子を攻め、翌天文21(1552)年3月降伏させている。これで国峰は武田に、武州児玉郡を北条に抑えられた憲政はまさに本拠である平井城を維持できる状態ではなくなってきていた。この御嶽山城の戦いでは、那波刑部大輔は氏康方へ、新田・足利長尾、佐野、桐生、大胡、長野の各氏は上杉方と上野国人達も分かれて戦った。この混乱の中、憲政の馬廻り衆達は憲政を裏切り平井城から追放してしまった。味方であるはずである新田や足利に入場を断られた憲政は、仕方なく越後の長尾景虎(上杉謙信)をたよって落ちていったのである。この時、憲政嫡男龍若丸は氏康に捕らえられ惨殺されている。この時点で憲政は、身一つで逃げるまでに落ちぶれていたのでした。この事により、長尾景虎による関東遠征が何度も行われるようになる。景為の時に越後を把握した長尾氏は、すでに関東の北条とも互角に渡り合える大勢力となっていたのである。