関東管領上杉氏

藤原重房の関東下向

 吾妻斉藤氏の(主)寄親でもある前上杉氏は、藤原氏の庶流勧修寺流の出で藤原重房の時に関東下向した。この重房は式乾門院利子の蔵人で、現在の総務担当といった所です。この役所は、公家の官位五位、六位のものが勤めていた。

 鎌倉幕府は源家の「頼朝」「頼家」「実朝」と三代で途絶え、幕府は左大臣九条道家の子「頼経」を新将軍に迎えた。次にその子頼嗣が五代将軍となったが、幕府は承久の乱以降親王将軍を朝廷に対して要請していた。

 宗尊親王将軍の実現は、そんな幕府(北条執権家)の要請に対して実現したと思われる。宗尊親王将軍の関東下向の折、祗候の公家は吉田中納言為経、土御門宰相中将顕を初め多くの公卿達が同行した。その中に藤原重房も含まれていた。

 この供奉の時の重房は、丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)の所領をえてこれ以降「上杉」の姓を名乗るのである。この地の近く同市の安国寺町で五十年ほど後に上杉清子が「足利尊氏」を生むことになります。

 足利氏との関係

 足利氏は、新田氏と共に鎌倉将軍家において御家人として重鎮となっていました。重房関東下向の頃の足利氏の当主は、足利泰氏でした。この親王将軍の就任の時の、前将軍頼経、頼嗣親子とのごたごたで泰氏は、突如剃髪し足利の庄に籠もってしまった。この政治的事件を、重房はどんな思いで見ていたのでしょうか。重房は、足利家のことを興味深く見ていたのではないのでしょうか。};

 そして重房の娘は足利泰氏の子、頼氏に嫁し家時を生みました。また一代飛ばして貞氏は上杉頼重の娘清子を側室(正室は、執権北条家の傍流金沢顕時の娘)として、尊氏、直義兄弟を産んだ。大豪族の足利氏と貴族のでの上杉氏は、徐々に関係を深めって言ったと思われる。

 貞氏の父家時置文(遺言)「難太平記」には家時のことについて「家時の御代に当たり、なおも時来たらざる事をしろしめしければにや、八幡大菩薩に祈り申し給ひて、わが命をつづめて、三代のなかに天下をとらしめそうらえとて御腹を召され也。」とある。この置文は、先祖の八幡太郎義家の置文を受けている。「わが七代の孫に、我生まれ変わりて天下を取るべし」と。この七代の孫とは、義家の子義国から数えて家時の代になっている。

 この家時置文を、足利尊氏、直義兄弟と「難太平記」の編者の今川了俊が見たとある。これは、難太平記の記述であるが、このときより足利尊氏は天下を目指したとあります。このときはまだ、鎌倉時代の末期のことでした。

 これより後、新田義貞の隆起、足利尊氏の後醍醐天皇方への転身により鎌倉幕府及び北条執権家は滅び去りました。そして建武の新政となります。しかし時代は、天皇親政にはなびかず、武家の天下を望んでいました。そこで武家の代表足利尊氏が、新たに北朝を立て征夷大将軍となり南北朝の時代に突入していきます。

 しかし、尊氏が開いた室町幕府は大変不安定で、軍事を尊氏と家宰高師直、政務を尊氏の弟直義が執り行う二元政治が行われていた。最初に失脚したのは、高師直です。足利直義と高師直の確執が進み、ついに尊氏も高師直を処分しなくてはならなくなったようです。

 そしてついに尊氏は、直義とも対立することとなった。直義は一時的に南朝方になって抵抗したのですが、最後には尊氏に滅ぼされています。そのときに上杉重房の曾孫上杉憲顕は失脚し、越後国に隠棲しました。

足利氏系図

 上杉憲顕、関東管領になる

 後醍醐天皇がみまかり、足利尊氏が亡くなると、二代将軍は義詮となり鎌倉公方は基氏となった。この義詮と基氏兄弟は父尊氏より、鎌倉で補佐していた直義を慕っていた。この兄弟の要請により、失脚していた山之内上杉憲顕は関東管領職に就いた。この憲顕より関東管領上杉家が始まります(実際の初代関東管領は犬懸上杉憲藤)。これより関東管領は犬懸か山之内上杉がなることが決まりました。上杉氏は、扇谷、詫間、犬懸、山之内の四家有り、その内犬懸、山之内の二家が関東管領に就任する家としてありました。扇谷と詫間家は、関東管領に就任できませんでした(一回だけ扇谷家も関東管領になった)。

 この関東管領上杉憲顕が、吾妻の地の地頭吾妻氏と関係してきます。最初吾妻氏は多分南朝方だったのでしょう。これは、新田義貞が上野国新田の庄だったことに影響していたと思います。しかし、越前の金ヶ崎城において戦死してしまうと、状況は一変します。秋閒の斉藤梢其が北朝側に寝返り、縁戚だった吾妻太郎行盛もこの時一緒に北朝側へ付いたのだと思います。そして里見氏との勢力争いになっていったのではないかと思われます。

 そして関東は、北畠顕家(南朝側)と足利基氏(初代鎌倉公方で尊氏の二男)、上杉憲顕(北朝側)との戦いで、乱れに乱れて戦乱が続きました。この戦乱が収まるのは、室町幕府三代将軍義満の時代まで待たなくてはなりませんでした。

上杉家、家宰長尾氏

 長尾氏は、相模国長尾荘(現在の横浜市)の出で相模の三浦一族の被官だった。宝治合戦で三浦氏が没落したときに一緒に没落した。しかし、長尾景為の時上杉氏に出仕したと言われています。上杉憲顕が、上野、越後の守護になったとき長尾景忠が上野、越後の守護代となる。後、越後の守護代を弟の景恒に譲り自分は、上野白井城に拠り白井長尾氏の祖となった。越後の守護代となった景恒は、越後の虎「上杉謙信」の祖である。この両長尾家とも、吾妻氏の後裔吾妻斉藤氏と深い関わりを持ってきます。

 長尾一族については、別項で紹介していきます。

鎌倉公方と管領上杉一族

 憲顕の死後は、子息の能憲と甥の朝房が二人管領となった。そして憲顕四男の憲春は関東執事となった。ここで言う関東管領は室町将軍が任命するのに対して、関東執事は鎌倉公方が任命していた。管領職を巡り、将軍と公方や上杉一族にも駆け引きがあったのだろう。

 貞治六年には、関東の庶務を佐々木道誉が取ったこともあるようである。しかし、上杉氏が関東を管領として支配していたのだが、詫間、犬懸、山之内、扇谷の上杉氏と、鎌倉公方足利氏が関東で覇を争う土台はすでにこの頃からあったのかも知れません。

 永和二年病ににかかった能憲が自分の所領である伊豆、武蔵の守護を弟の憲方に譲った。関東管領職は憲顕の四男の憲春が就任している。この二年後の永和四年能憲が死去した。それに伴い、憲春の上野守護を召し上げ憲方に稼得するよう遺言している。しかし、憲春は能憲の死後上野守護兼帯した。上杉家の家督憲方は、関東管領にも上野守護にもなれなかったようである。

上杉四家

扇谷上杉家

 上杉憲房より上杉家は台頭してくる訳ですが、憲房には兄重顕が有りこの重顕から扇谷家が始まっている。その子朝定は室町幕府の裁判機関、引きつけ方の頭人を勤めた。この家は永享の乱(一四三八)以降、山之内上杉家と関東の覇権を争った。鎌倉扇ヶ谷に住む。

山之内上杉家

 憲房三男の憲顕は建武元年(一三三四)直義によって関東相番に任じられてからは、一貫して直義派でした。父憲房の死後、上野の守護を継いで、関東管領に就任した。もう一方の関東管領職の高師冬を討ってからは上杉家の主流となる。山之内(明月院付近)に住んで山之内上杉氏を名乗る。

犬懸上杉家

 憲顕の兄憲藤の系統です。嫡男朝房は、能憲と並びもう一方の関東管領職となるが、後に上洛して幕府出仕となる。しかし、弟朝宗、その子氏憲(禅秀)は二代にわたり関東管領職となる。応永二三年禅秀の乱を起こし敗死。この後は衰える。

詫間上杉家

 憲顕の兄重能の系統である。憲顕の子能憲を養子に迎えるが、能憲の山之内家復帰も有りその後はふるわない。

 この上杉の四家は、共に鎌倉の地名から生まれた家である。

上杉氏系図

上杉氏系図

結城合戦

 永享の乱の後、鎌倉の実力者は上杉安房守憲実(関東管領)ただ一人となっていた。しかし憲実は、永享十一年(1439)六月二十八日持氏の墓所長春院に参詣し「不義の心を持たないのに、図らずもおん敵となってしまった。」涙を流して刀を抜いて自信の左脇に突き立てた。家臣達が走り寄って刀を奪ったので大事には至らなかった。

 以前から俗界からの隠退を考えていた憲実は、同年十一月二十日頃所領の伊豆の国名古谷郷国清寺に於て出家してしまった。憲実は出家する前に越後上杉氏の実弟兵庫頭清方を呼び家督を譲った。公方がいなくなった後則実まで引退してしまっては、関東の治安は守れず乱れていった。

足利安王丸の挙兵

 永享十二年三月三日、安王丸兄弟は常陸国中郡荘木所城(茨城県茨城郡)出兵を挙げた。ここで幕府、安王丸双方で戦いに動き始めたのである。同三月二十二日に安王丸兄弟は、持氏の遺臣結城氏朝の結城城(茨城県結城市)に迎えられて、永享の乱の後半戦結城合戦が始まった。

結城合戦

 この挙兵はいち早く小山持政により、幕府に報告された。幕府は京都の等持院主周操を派遣して、上杉憲実の政界復帰を求めたのである。やむなく則実は鎌倉に戻り、五月十一日には神奈川まで出陣した。関東の求心力は憲実以外になかったのである。

 幕府は更に山之内家督の上杉清方にも出陣を命じた。清方は、三月中旬山之内上杉家宰長尾景仲と庁鼻和上杉性順の二人に出陣を命じた。庁鼻和上杉氏は、山之内上杉氏初代の憲顕の子憲英が庁鼻和城を建て庁鼻和士となったがこのときは、深谷城を居城としていた。長尾氏は、元々相模国長尾が出身地で元々相模三浦の一族だった。鎌倉時代に三浦氏の没落と共に没落していたのであるが上杉氏が鎌倉に下向した後、上杉氏の家臣となりこの頃は上杉氏家宰、上杉氏の任国の守護代となっていた。一族は鎌倉長尾氏、越後長尾氏(上杉謙信の祖)、総社長尾氏(群馬県前橋市)白井長尾氏(群馬県渋川市)などに分れていた。

 性順、景仲勢はそれぞれ武蔵苦林野、入間川に陣を張り武蔵、上野の国人達の集結を待った。一方結城方は三月初め、古河城に野田右馬介を入れて鎌倉方に対抗した。また更に東上野の持氏奉公衆だった佐野小太郎、新田、田中、高階氏らが足利荘高橋郷(栃木県足利市)の野田要害に立て籠もった。

 山之内上杉氏の上野守護代の一人、大石憲重が上州一揆の武士達の参陣を命じたが彼らは日和見を決め込んで参陣せず、やむなく憲重は単独で四月九日この野田要害を落とした。

 鎌倉からは上杉清方、扇谷上杉持朝らが四月十九日に出兵。京都からは犬懸上杉持房が五月一日に討伐軍として下向してきた。他幕命で、信濃の小笠原政康(この信濃勢の中に、真田氏の祖、実田と文書の中に記述がある。)甲斐の武田信重、越後の長尾因幡守実景、常陸の行方常陸入道など諸国の軍勢が結城に出陣してきた。七月に入ると、武蔵北部で小競り合いが続いた。

結城城落城

 七月末になると、鎌倉方の総大将上杉清方も結城に着陣し、八月九日になると上杉憲実も結城に着陣し、城を包囲した。しかしなかなか城は落ちない。幕府は、軍奉行仙波常陸介を派遣して将軍義教から御内緒を諸将に示した。

 「 結城城は城内が広いから、夜に兵糧を入れているようだ。諸将がよく話し合って、段々包囲を縮めよ。そうすれば自ずと城は落ちるであろう。城内から僧俗男女一人も逃さず兵糧攻めにせよ。」

 寄せ手も無理攻めをせず、城方も打って出ない。そうこうしているうちに年越ししてしまった。翌永享十三年(1441)、この年二月に改元となって四月十六日、鎌倉方は結城城に総攻撃を掛けた。そしてようやく結城城は落城となるのである。

 翌四月十七日、古河城の野田右馬介も城を捨てて逃亡。ここに結城合戦は終結するのである。総大将の安王丸兄弟は越後の長尾実景に捕らえられ、京都に護送される途中殺された。十三歳、十二歳の少年の人生ははかなくも終わったのである。あと二人の持氏の遺児の内の一人の四歳になる遺児は、生き延び鎌倉鶴岡八幡宮の別当、雪ノ下殿となり、もう一人の遺児永寿王丸は信濃に逃れ、大井越前守持光に育てられた。後の古河公方足利成氏となるのである。

 首将結城氏朝、持朝父子は自害したが遺児の七郎他は結城方、常陸佐竹能憲の太田城のもがれ抵抗を続けた。幕府は佐竹一族の山入裕義などに同城を攻撃させたが、同六月京都で将軍義教が赤松満祐に討たれるという嘉吉の乱が起こって、太田城攻撃はうやむやの内に中止となった。

 ここに一応結城合戦は終結となったのであるが、その戦乱の火種は残りいつ燃え上がるか分からない状態が続いたのである。この後関東は、戦乱が絶えない状態が豊臣秀吉の小田原征伐まで続くのである。

上杉禅秀の乱

 禅秀の反乱は、若い鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲氏、義満に愛されたが室町将軍になれなかった将軍義持の弟義嗣の二人の不満から発生した反乱である。関東公方持氏は若く自己主張が強かった。応永二十二年四月政所の評定で、常陸の御家人越旗六郎の所領を没収した。

 些細な罪科だったので、管領犬懸氏憲はその場で撤回を求めたが持氏は聞かなかった。これを不満として、氏憲は出仕せず管領職を辞任した。持氏はおもしろくなかったのか、すぐに山之内憲基を関東管領職に任命した。憲基は、年も24才と若く18才の持氏とうまが合ったのかも知れません。

 関東の諸豪族の中には、持氏に不満を持っていた豪族が各地にいた。禅秀はそんな動きを見て、京都の満隆の書状に福状を添えて関東の各武将達に回状を回した。加わる武将は、下総の千葉介兼胤、上野の岩松満純、下野の那須資之、甲斐の武田信満、常陸の大掾密朝、佐竹与義、小田治朝、などである。また、東北の武将達も、芦名、伊達、相馬、大須賀、二階堂なども立ち上がった。

 禅秀は米俵に武具を詰め、自邸に運び込んだ。そして、鎌倉公方邸を取り囲んだ。酒宴をしていた公方ははじめしんじなかったが、管領憲基邸に落ちていった。さらに反撃の準備が整った持氏、憲基方と若宮大路を挟んで戦った。

 不利な持氏、憲基は小田原まで落ちさらに、伊豆まで落ち延びなければならなかった。そして、鎌倉公方持氏は駿河の守護今川範政をたよった。上杉禅秀の圧勝である。

 今川範政は驚いて幕府に注進した。鎌倉公方が、鎌倉を追われるなど前代未聞のことです。しかし、京都でも異変が起き乱をそそのかした義嗣が突然、遁世したのである。義嗣はその後、相国寺に幽閉されて幕府もついに禅秀討伐を決めた。

 ここで幕府は、駿河守護今川範政と越後守護上杉房方に反乱軍討伐を命じた。そこで範政は、「貴命に背いて反逆の輩に荷担する者は、先祖譜代の忠勤は失われ、その領地は他人の拝領地になってしまう。」という意の回状を回した。これを受け取った武蔵の国人の江戸、豊島氏、同国南一揆や篠川御所満直などがこの回状に応じ、幕府方に寝返った。応永二十四年正月禅秀勢は武蔵世田谷原で武蔵南一揆、豊島、江戸勢と戦ったが、このときすでに今川範政が鎌倉に迫っていた。

 禅秀勢は急いで鎌倉防衛に帰ったが、鎌倉雪の下の合戦で敗れて禅秀、満隆、持仲らは雪の下御房で自害、ここに三ヶ月にも及ぶ禅秀の乱は終わりを告げるのである。そして鎌倉公方持氏は、同正月十日鎌倉に代えることが出来た。

 この禅秀の乱をきっかけに、関東は戦乱の時代へと進んでいくのである。

新公方成氏

 持氏の遺児永寿王丸は、信濃国の大井持光に養われていた。室町将軍義教の死後、この永寿王丸を関東公方にしようとする動きが起こってきた。中世後期となったこの頃でも関東では、まだ秩序意識は血筋と家格の信仰が支配していた。

 この運動の中心人物は、越後の守護職上杉相模守房定だったといわれている。しかし年代的には、房定の父の房朝だったのではないでしょうか。この房朝と関東諸将は室町将軍に対してこの事を願っていた。当時の室町管領は、細川勝元だった。しかし細川勝元はまだ若く、前管領の畠山持国の発言力も強い物があった。

 管領細川氏は反持氏はだったので、鎌倉公方擁立にはおそらく畠山持氏が強く関わっていたのでしょう。幕府でも次第に永寿王丸支持が、大勢を占めてきた。

 宝徳元年(1449)八月二十七日に永寿王丸は元服し、成氏を名乗り、左馬頭(従五位下)に任官した。新公方の誕生である。成の字は室町将軍義成(後の義政)の一字を頂いている。関東管領は憲実が隠退し、子の憲忠がついた。

 ここに十四歳の成氏(鎌倉公方)と十五歳の憲忠(関東管領)という若い鎌倉府の政権が誕生したのである。

享徳の大乱

 管領山之内上杉では、家宰の長尾景仲が実権を握り、扇谷上杉は持氏を滅亡させた持朝が引退して顕房が家督を継ぎ家宰太田資清(道真)が実権を握っていた。一方鎌倉に復帰し、公方になった成氏に永享の乱、結城合戦で上杉方と戦った持氏遺臣立ちが出仕してきた。まず里見義実、梁田、結城、小山、宇都宮、小田、千葉の面々である。

 持氏遺臣と上杉、永享の乱、結城合戦で共に敵同士だったものが鎌倉で一緒に政を行うのである。うまくいくはずもありません。そんなとき成氏方の挑発が始った。文政五年(1448)梁田中務之丞持助が相州長尾郷を横領する事件が起きた。

 ついに上杉方の不満は、結城合戦で自害した結城氏朝の遺児七郎の幕府出仕を受けてついに爆発したのである。後は武力で解決するだけである。

江ノ島合戦

 報徳二年四月二十一日、長尾太田連合軍五百騎は機先を制し、成氏御所をおそった。その情報を知った成氏は、鎌倉江ノ島へ逃れていた。成氏の逃走を知った長尾、太田軍は鎌倉から由比ヶ浜へ進んで成氏勢と戦った。迎え撃った成氏勢の小山持政、千葉胤将、小田持家、宇都宮らは奮戦して、上杉勢を相模の糟屋荘に追い落とした。

 この敗戦を知った扇谷上杉持朝、顕房父子、管領憲忠も鎌倉を逃れ、相模の七沢要害に立て籠もった。京の管領畠山持国は、公方成氏に従うよう御教書を送っている。幕府は憲実管領復帰にこだわり、将軍の御教書を送り憲実に管領復帰を命じている。しかし、頑として憲実は管領復帰を受け付けず、憲忠鎌倉復帰を幕府に願い出ている。

享徳の大乱ついに起こる

 ここから成氏方の挑発が、活発化してくる。つまり成氏による、上杉方の所領横領である。山城国・醍醐寺蔵院領の相模国分・林四ヶ村に一色伊予守の強制入部。常陸の小田持家が、同国の三村を横領。また同年五月野田右馬助が、同族の野間弥三郎持保の領地に強制入部。成氏方の横暴がしばらく続いた。

 しかし、時勢は突如変わった。京の幕府で管領が成氏寄りの畠山持国から、反成氏の細川勝元に変わったのである。勝元は舅の山名宗全と組んで、持国を失脚させたのであった。こうなると関東の情勢も変わる。

 憲忠が細川勝元と組んだと思った成氏は、享徳三年(1454年)十二月二十七日ついに管領憲忠とその家臣らを西御門邸におびき寄せ、そこで憲忠主従二十二人すべてを討ち取った。これにより関東公方足利成氏と、関東管領上杉の全面対決となった。これが享徳の大乱である。ここから成氏の、長く苦しい戦いの生涯が始ることとなる。

 正月の二十一日、府中西南の分倍河原で成氏方一千騎、上杉方に千騎がつい激突したのである。この戦いで上杉顕房(扇谷)憲秋(犬懸)両大将が負傷し、ついに自害。山之内の重臣、大石房重、重仲も討ち死にし緒戦は、上杉勢の敗戦となった。

 幕府管領の細川勝元は早くも同正月十六日、信濃の守護小笠原光康に上杉方への協力を求め、成氏誅伐の体制を整えた。三月末には後花園天皇の成氏追討の錦旗も下賜され、成氏は朝敵となった。更に上杉房顕を山之内の家督とし、関東管領に任命し「鎌倉殿退治申すため」の「総大将」としたのである。

 ここに至り、上野金山の岩松持国と共に成氏方となっていた「上州中一揆」の面々は、成氏方を離れ上杉方に味方した。戦線は東関東にまで拡がり、下野、武蔵、上野方面と広い範囲で合戦があった。関東の中小豪族達は、双方の形成を見て徐々に上杉方の味方となっていったのです。

 同四月、幕府は更に越後守護上杉房定、駿河守護今川範忠らの討伐軍を関東に送ることを決め、上杉房定は上野平井に、今川範忠は鎌倉に攻め寄せた。成氏方として鎌倉を守っていた、木戸、大森、印東、里見らは敗走した。

 東関東一円では、成氏方が有利に戦いを進めていたが、鎌倉を奪われた成氏は、康正元年、下総古河に御座所を移し、古河公方と称した。

享徳の大乱

 先に享徳の大乱の概略と、発端を記述した。関東公方と関東管領方の戦いは、長く続き関東は戦乱に明け暮れる。前述した通り、最初は関東公方成氏方が優勢に事を運んだ。しかし転機が訪れる。京の管領が、親成氏の畠山持国から親関東管領上杉氏の細川勝元に変わった。

 細川勝元が、叔父の山名宗全と組んで畠山持国を管領の座から引きずり下ろしたのである。後こに二人が東軍、西軍に分れ応仁の乱を引き起こす事になるのも何かの縁を感じるものである。上杉勢は、幕府に成氏討伐軍の派遣を願い出る。まず上杉勢は、憲忠の跡をその弟房顕に決め、本拠の上州平井で体制を整えて扇谷上杉顕房、犬懸上杉憲秋両大将として長尾景仲が上野、武蔵の一揆(江戸時代の一揆とは違う)勢を率い鎌倉に向って南下してきた。重氏は鎌倉を発って武蔵府中の高安寺に入り陣を張った。

 享徳四年(1455年)正月二十一日ついに両軍は、府中西南の分倍河原で激突する。この戦いにおいて上杉方は敗北となり、上杉房顕、憲秋両将は負傷し自害した。山の内上杉氏の重臣大石房重、重仲も討ち死にしている。このようにこの大乱の緒戦では、関東公方成氏方の勝利に終わる。しかし、ここから三十年に及ぶ享徳の大乱が始るのである。

幕府討伐軍

 成氏の憲忠誅殺は、幕府では私意と見られ三月末には後花園天皇の成氏討伐の錦の御旗も下賜された。ついに成氏は朝敵となったのである。幕府は在京奉公中の上杉房顕を山内上杉家督として関東管領として任命し、関東に出陣される事となった。

 同四月、幕府は越後守護上杉房定、駿河守護今川範忠らに命じ、関東に送る事を決めた。上杉房定は上野平井城に、今川範忠は六月中旬鎌倉に攻め入り町に火を放った。一方足利成氏は、鎌倉を幕府方に奪われて下野足利に居を構える。

 ここから関東における戦国、享徳の大乱が三十年の長きにわたり続くのである。利根川を挟んでの攻防が、続く事になる。成氏の勢力範囲は、下総下河辺荘、古河を中心に北武蔵の太田荘、足利郡、東上野岩松持国領、下野のほぼ全域、房総半島の上総、安房にまで拡がり広大な領地を要していた。それに対抗すべく上杉方は、越後の上杉を上野白井城に、上杉房顕は上野平井城、武蔵国内に深谷城を築かせた。

 扇谷上杉持朝に深谷城を、扇谷家宰太田資清(道真)武蔵岩槻城、太田資長(道灌)に江戸城を築かせて、鎌倉を守る体制を整えている。これより武蔵太田氏が、台頭してくるのである。山内上杉家では、家宰で上野守護代長尾景仲が実力を発揮し始める。この事は後に起こる「長尾景春の乱」に繋がってくるのである。

成氏の戦略

 成氏の入った古河は曾祖父氏満以来の鎌倉府の領地で、その時期古河を中心にした下河辺荘は非常に広く、北は下野の小山、結城氏領と接し、南は千葉領に接している。下河辺荘は、吾妻の地とも非常に関係があり、後吾妻氏はこの下河辺氏出身という。前吾妻氏もこの下河辺氏と同族で、秀郷流藤原氏の流れである。しかしこの頃、下河辺氏の名はこの地では見られなくなった。小山、結城、千葉氏ともに古河公方成氏を強く支持していることを考えると、この古河と言う地はまさに絶好の場所であると言うことだろうと思います。 さらに上総の武田氏、安房の里見もに成氏方である。

 そしてこの古河の地理的位置であるが、利根川の東側にあって同川恩川水運で、上流下野の足利、小山や下流8キロの武蔵栗橋、下総の関宿とも繋がっている。この水運を利用して下野の小山、結城と提携して、南方の栗橋に栗橋城を築城し近臣野田右馬助に守らせ、さらに成氏にとって母方の従兄弟、簗田持助に関宿城を築城させ守らせている。さらに利根川の西方には菖蒲城、幸手城を築かせ、近臣の金田則綱、一色頼氏にそれぞれ守らせている。

 また、菖蒲城は成氏方の最前線である。このように成氏は、利根川東方各地に橋頭堡を築き守りを固めた。成氏方の菖蒲城、上杉方の騎西城がそれぞれの橋頭堡となり、上杉方は康正元年(1457年)秋頃この城に庁鼻和上杉六郎、七郎を中心にこの城に籠もらせた。只木城の長尾景仲も加わりいよいよ戦端は開かれる。緒戦はこの城を落とした公方成氏の勝利となる。


 この間、成氏は管領細川勝元、公卿三条実雅に書状を送り「上杉憲忠が権勢を振るったため成敗した。」「この後は都鄙安泰を願う。」というような勝手な願いをしている。これ、はかなえられるものでは無かったのも当然である。

上杉の戦略

 成氏方と上杉方の境界は、上野から武蔵にかけて流れる利根川が境となってる。利根川の東側を成氏、西側を上杉となっていた。上杉方はまず、上野から武蔵での利根川沿いに防衛戦をしかなければならない。越後上杉氏の本拠の上州白井城、関東管領の上杉房顕は同じく上州平井城を本拠を構えている。

 従って、武州にも防衛戦をしかねばならなかった。そこで庁鼻和上杉性順に深谷城、扇谷上杉家宰の太田道真(資清)に岩槻城、その子資長(道灌)に江戸城を築かせた。当時の利根川は江戸湾に流れ込んでいたの、これで利根川を塁線としての防護関係は完成した。

 また、荒川水系にはそれぞれ深谷城には鉢形城、岩槻城には川越城、とあり利根、荒川水系の二重の塁線を築きさらにそれを補完した。さらに長禄三年(1459年)には、関東管領上杉房顕により五十子砦を築き成氏の古河城にたいして押さえとし、管領上杉方の軍が結集した。。こんな体制が、約30年間続くのである。

上野での享徳の乱

 上野では、関東管領山内上杉房顕の本拠は平井城である。また越後の守護上杉房定は、白井城でにらみをきかす。一方前線では、新田岩松氏が京兆家の岩松持国と礼部家岩松家純に分かれて争っていた。これはまさに太田金山城を巡る争いである。

 岩松持国は、地勢上古河公方方として戦っていた。岩松家純は幕府側近として京の室町御所義教に仕えて、治部大輔となり、その唐命の礼部家となっていた。その頃幕府は、義政の弟政知を鎌倉公方として下向する方針を決めた。長禄二年(1458年)三月二十七日幕府から、東上野の京兆家岩松持国にたいして将軍義政の御内書を与えて、帰順を求めた。

 そのとき京都扶持衆の家純が、説得に当たった。岩松家は京兆家、礼武家が東西に別れて戦っていた事になる。同年五月十五日京兆家持国は幕府方へ帰参する旨、請文をもって誓った。これにより幕府方と、古河公方方の緊張が高まりいよいよ合戦となるのである。

 幕府方は、長禄三年(1459年)十月十四日武蔵太田荘に進撃した。翌十五日には、海老瀬口(群馬県板倉町)、羽継原(群馬県館林市)で両軍が激突した。この位置は、成氏の本拠古河城からわずか数キロしかない事から上杉方は、一挙に古河城を落とそうとしていたと思われる。上杉軍の陣容は、管領上杉房顕、越後上杉房定の軍、毛利、本庄、飯沼、中条勢、山内上杉勢は、神保、後閑、長尾勢、上総上杉勢は、岩松持国他、それに東北勢、石川、二階堂の勢も加わる大軍である。この戦いは、上杉勢の敗北で終わる。これにより両軍は引き上げ、その後しばらくは膠着状態となった。

堀越公方足利政知

 足利将軍義政の弟政知は、香厳院主であったのを還俗して左馬頭となり義政が関東に下向させた新公方であった。関東の情勢不安も有り、伊豆の堀越に止まり堀越公方となった。時に長禄二年(1458年)七月下旬のことである。

 政知本人は、鎌倉に入を望んだのであるが長禄四年(1460年)八月二十二日に将軍義政は、御内書により未だ情勢の不安な鎌倉への入部を固く禁じている。政知と関東上杉一族は、あまりしっくりいっていなかったのである。実際この後、政知は延徳三年(1491年)死去するまでの三十三年間伊豆の地を離れることは無かった。この中途半端な事柄を考えると、もはや室町将軍も昔日の力は無くなっていたのが分かります。

長尾景仲と上杉房顕の死

 長尾景仲は、この享徳の乱のきっかけとなった江ノ島合戦の首謀者である。本領は、上野の白井でその領地は関東各所に点在し、武蔵国秩父地方にもあって大きな力を持っていた。関東諸将にも「上杉にあって太田資清と長尾景仲は関東の案者である。」と実力を認められていた。

 群馬県渋川市の雙林寺には木造も残されている。成氏方で結城成朝が家臣の多賀谷氏に殺されていた。寛正四年(1463)八月、山の内上杉氏の家宰長尾景仲が76才で亡くなる。その後は嫡男の景信が継いだ。同年十二月関東管領上杉房顕は幕府に対して管領辞職を願い出ている。その後も度々出されていることから、景仲の死によって気落ちしていたのかも知れない。景仲の死より四年後文正元年(1466)二月、文人肌で病弱だった房顕は五十子の陣中で病死した。まだ若く、三十二才だった。景信は父の遺言として越後上杉房定の子を強く押していたのであるが、房定は拒否していた。山の内上杉氏の老臣十八人が反対していたためである。しかし最後には幕府の強い押しも有り、越後上杉の次男顕定が最後には決まったのである。

武蔵、上野の戦い

 管領房顕、上杉持朝、長尾景仲の相次ぐ死により成氏方と上杉の戦いは暫く鳴りを潜めていたのであるが、文正元年(1466)頃から又小競り合いが始まった。まず同年二月四日河越、岩槻の上杉方と騎西城の成氏方との小競り合いがあった。翌応仁元年(1467)には京において山名宗全、細川勝元により応仁の乱が始まった。


 関東の戦いは、この頃から利根川を挟んで展開することになる。利根川流域の下野と上野が戦いの場所となるのである。


応仁2(1468年)年10月8日新田方面から公方勢が西進、玉村方面からは総大将上杉顕定勢が東に進み毛呂島、綱取原(いづれも現伊勢崎市)で合戦に及ぶ。この戦いでは、長尾親子(景信、景春)などの活躍により大勝した。この少し前、新田金山、岩松一族の内紛で上杉方岩松家純(礼部家)が成氏方の岩松持国、三郎親子を討って統一していた。この岩松家純、家老横瀬国繁の参戦も上杉方の勝利に大きく貢献した。

三島合戦と古河城落城

 毛呂島、綱取原の合戦で劣勢に立たされた古河公方は、一気に挽回せんと文明3年(1471年)突然下野の小山、下総の結城、上総の千葉氏などを伊豆三島韮山城を急襲させた。伊豆の地はもう一人の関東公方、足利政知(8代将軍足利義政の弟)お膝元である。

文正元年(1466年)毛呂島、綱取原の合戦で劣勢に立たされた古河公方は、一気に挽回せんと文明3年(1471年)突然下野の小山、下総の結城、上総の千葉氏などを伊豆三島韮山城を急襲させた。伊豆の地はもう一人の関東公方、足利政知(8代将軍足利義政の弟)お膝元である。
政知方は駿河の今川義忠の救援を受け、成氏方を敗退させた。成氏方が伊豆から敗走するところを、上杉方の宇佐美孝忠勢が待ち受け成氏勢を打ち破る。成氏勢の奇襲作戦は失敗したのである。

 成氏勢敗戦の報を受け上杉方は同年3月、長尾景信を大将に上州一揆、武州一揆、豊島、大石一族、扇谷の家臣太田資忠(道灌次男)などの多勢を持って下野の足利荘、佐貫荘に出撃。4月14日には赤見(茨城県佐野氏)、樺崎(足利市)の諸城を攻め、翌5月には佐貫荘舞木城(群馬県千代田町)や館林城(館林市)を攻めた。館林城から古河城は東南に僅か15キロの距離である。勢いに乗った上杉勢は、5月末古河城を包囲した。翌6月中旬成氏は城を脱出して、下総の本佐倉城の千葉孝胤をたよって落ち延びた。成氏最大の危機の到来である。

 文名4(1472年)年2月結城氏などの援軍で古河城の奪回に成功し、成氏は古河に戻れたのである。これにより古河対五十子の対陣に戻った。文明5(1473年)年6月古河攻めの中心だった長尾景信が亡くなる。同年12月24日、持ち朝の跡を継いだ扇谷上杉政真が五十子の陣中でなくなる。これで、新たな紛争が始まるのである。

 長尾景春と太田道灌

 若い扇谷上杉政真には子がなく、叔父の定正が家督を継承する。左衛門尉景信の後は、景信の弟で総社長尾氏に養子に入った尾張守忠影が山之内家の家宰(家老)となる。「松陰私語」には「山内家務の事、寺尾入道、海野佐渡守相談」と載っている。両名は越後守護上杉房定に近い人物で、房定の考えも入っていたのではないか。それに、これも「松陰私語」の記述であるが、太田道灌が扇谷上杉家の所領が少ないことを嘆きつぶやいたと言われる「わが扇谷の所領は、山之内の家宰職長尾の半分にも及ばない」という嘆きを見れば、山内上杉家老臣がこれ以上白井長尾の勢力が伸びるのを望まなかった為とも考えられる。

 一方山之内上杉の家宰、上野、武蔵の守護代を当然継承できると思っていた長尾景春は、おもしろくないのは当然のことである。太田道灌は関東管領山之内上杉顕定に、「長尾景春にせめて上野守護代ぐらい与えて、功績を認めてはどうか」と意見したが、関東管領山之内上杉顕定も老臣達も聞く耳持たず、「長尾景春などたいしたことは出来ないだろう」とたかをくくっていたとも思われる。

 ここに出てくる太田道灌(資長)であるが、父である太田道真(資清)と共に扇谷上杉の勢力拡大を図った功労者である。長尾景仲と共に太田資清は、関東の案者としてその実力を認められていた。太田道灌は、江戸城の築城や岩槻城、川越城まで勢力範囲を伸ばし扇谷上杉家の宿老として勢力拡大に貢献した。太田一族に関しては、また別項で解説していきたい。

 さて、話は戻し長尾景春の乱に戻ることとする。景春は武州鉢形城にて、見方を集め始め太田道灌にも上杉氏への造反に同調するよう求めた。景春は「御屋形様(上杉顕定)並びに典厩様(憲房)を討ち取る計画である。五十子の陣の参陣をしないように」と談じ込んだ。しかし、道灌は五十子に参陣し顕定に対し「景春はもとより不器用にて御家務職(家宰)は無理かも知れないが、父玉泉(景信)の忠功を考慮され、武蔵守護代に命じてはどうか。そうなれば景春も落ち着いて、陣中も穏やかになりましょう。景春の家臣、同僚達が日増しに景春に同調しており、このままでは大変なことになりましょう。(鎌倉大草子)」と申し入れた。しかし、顕定も老臣達も無視してしまった。翌年文明7(1475年)年、景春は武蔵鉢形城で武蔵、相模の兵を集め始めた。
 その頃太田道灌は主君の命令で、駿河の今川氏の領国に今川一族の内乱のため出陣した。その間隙を突き、長尾景春は武蔵鉢形城で挙兵したのである。

 長尾景春の乱

 翌文明8(1476年)年6月太田道灌の留守を狙い、五十子の陣を襲った。関東での下剋上の始まりである。これは御屋形様山之内顕定に対する造反を意味していた。鉢形城は、背後を山深い秩父地方を背にしている。秩父には景春の従兄弟である犬懸長尾景年の、長尾城がありこの地方一帯は長尾一族の勢力範囲である。景春は江戸城、川越城を拠点に子が公方成氏に対していた上杉一族の背後を突く形を作り上げていたのである。景春党の五十子の陣への出陣は陣の崩壊を招き、岩松家純、明純親子は本拠の太田金山城(群馬県太田市)に引き上げ、上杉顕定は阿内城(群馬県前橋市)に、上杉定正は白井と阿内の中間の細井(前橋市)に退去する。定正は後、顕定と合流する。
 景春党の各勢力は武蔵の豊島一族、相模の金子、溝呂木、矢野の一族が各居城に籠もり上杉氏に対して反上杉の動きを固めていた。ここに長尾景春の戦略は成立したのである。なほ、詳細については別項で述べることとする。