吾妻の郷士 その一

郷士制度について
戦国の世においては、ほとんどの家臣が自領に住んでいた。小さい地侍達は、「国人一揆」という形で戦国大名に仕え、戦時には決められた人数を率いはせ参じていたのです。安土桃山時代、江戸時代に入ると封建制度が確立して、家臣団を城下に住まわせ「家士」として家臣団に組み込んでいきました。その中から漏れた「本百姓」に、苗字帯刀を与え地元に住まわせた者達を「郷士」と呼びました。郷士というのは役職には就けないが、いざという時の兵役を課せられていた。薩摩の「西郷隆盛」「大久保利通」土佐の「坂本龍馬」「武市半平太」などは幕末の代表的な例です。つまり、「半士半農」と言うことだと思います。特に江戸幕藩体制において、外様大名にその多くの事例が残っています。この郷士制度というのは、戦国時代の名残りであったと思われる。吾妻においては、沼田真田藩に於いてその制度があったようです。「庄屋」と「郷士」の違いは良くわかりませんが、この郷士制度は、外様大名にとって領国統治において江戸時代を通じて、重要な役割を持った制度であった。吾妻においても、「郷士」と思われる人達がおうぜい居たと言うことがわかっております。
沼田真田藩での吾妻の郷士達
吾妻の郷士については、初代中之条民族と歴史博物館「ミュゼ」の初代館長、山口武夫氏の論説が詳し所である。それらを参考にしつつ、持論を述べていきたいと思います。
そもそも「郷士」とは、「地侍」「給人」とも言われていた人達である。これは戦国時代の制度を色濃く残した雇用の形態である。城下に集住する「家士」よりも、一段身分が下った人達とも言える。この制度が沼田真田藩に残ったのは、非常に興味深いことである。次にその実際の事例を交へ、解説していくこととする。
吾妻における郷士の実態
吾妻において、根拠とする文書は非常に少なく、江戸時代に残された文書と戦国時代の文書の写しを参考として述べていきたい。
-折田氏
折田氏は中之条町折田地区の郷士で、多くの文書が残り今、中之条町民族と歴史博物館ミュゼに保管されている。元々この地には折田氏がおり、佐藤氏がその地にはいり折田氏と婚姻し、勢力を伸ばしたと言われている。その由緒は、元々豊沢を名乗り新田氏に仕えていたという。新田氏と共に越前にて戦死して家門衰えたが、孫国近の時上野国に住し南朝として戦ったという。後群馬郡に移り母方の姓「佐藤」を名乗り、古河に従ったという。文明三年古河城落城(享徳の乱)と共に、吾妻郡に移住した。五代の孫重広(天正八年率)の時、折田村の土壕折田将監から妻を娶り勢力を伸長した。佐藤豊後として永禄六年岩下衆斉藤氏滅亡の後、海野長門守に従い武田に忠勤を励んだ。永禄十一年蓑輪の戦いの時、戦功を上げ武田家より感状をもらっている(折田家文書-ミュゼ保管)。
重広の子が、江戸時代に吾妻の軍記物に登場する佐藤軍兵衛で父と同じく豊後守を名乗った。天正八年父の死後真田昌幸に仕える。武田家が滅ぶ二年前である。天正十八年の小田原の役では、松井田城攻撃に功あり、昌幸より感状をもらっている。
-小渕氏
中之条町折田の郷士で、始め鈴木を称し重儇の時代伊勢国二見に住していたという(治安二年率)。孫重国の時は奥州に住していたという(仁安元年卒)。数代の後、朝徳の時鎌倉公方足利氏に仕え、永享八年三月小淵の姓を賜った。下総国葛飾郡小渕村に築城して九百五十貫文を領し、延徳三年三月卒している。その子信盛の時吾妻郡に移り、折田城(内山城)主成田長門守が奥州で討死したのを受けて、同城主となり二百貫文、支配役領五十貫文を領したと言われている(永正十三年卒)。菩提寺は群馬郡蓑輪の方峰寺だったという。弟を興元といい、その子弌信は武田信玄に属し信州伊奈郡大河原村に移り百五十貫文領し大河原の姓を賜り、下総守と言った(天正五年卒)。弌信は寿賢と号し、折田将監とも言った。この人は大河原村より吾妻に帰り、百七十貫文を領した。将監は武田氏より折田の地頭の職を与えられたことが、永禄八年八幡宮棟札に依って知られる。

