各地の郷士の事例と実態 その一

吾妻地方における貫高制と郷士制度・他地域の郷士達

貫高制

 貫高制とは、土地の広さに対して課税する金額を表示する方法です。例をあげれば、以下の通り。

田:一反あたり、300~500文(課税額)
畑:一反あたり、100文程度(課税額)

 それに対して石高制は、その土地でとれた収穫分の総合値を表す。それぞれ、メリットデメリットがあります。

メリット

貫高制---田畑の収穫高を金銭に換算して表すので、兵役を科すときの人数の把握が容易。

石高制---実際の取れ高に近いので、年貢を科すとき有利。

郷士の定義

 郷士とは自作農で、士分で家士(城下に住む武士)とは違い自分の土地に住む庄屋で、苗字帯刀を許された人達のことです。そして、軍役を課せられていました。庄屋兼代官を担った人もいたようである。自作農でも庶民と郷士の違いは、名である。例えば、源五正隆とか藤左衛門員定とか、通称と諱も持っていた。その違いは、死後にも及ぶ。庶民には許されていない院号、居士、大姉なども用いることが出来た。武士の特権である刀の大小を帯びることを許されていたのも特徴で有る。ただし、その身分において家士よりも下に見られていた。ただし家士よりも自由度があり、商売を行っていた郷士もいたようである。かの坂本龍馬は土佐の郷士出身であったが、坂本家は商いも行っていたので他の郷士の家よりも裕福であったという。郷士は一応は士分であったが、城下に住まう家士からは士分とは見られず、「軽輩」と見られていたのです。そしてこの郷士制度の特徴は、徳川幕藩体制において「外様大名」にのみ見られる特徴であった。沼田真田藩においても、この郷士制度があったと確認できるところではあります。つまり、封建制度の中において兵農分離が確立されたが、「外様大名」に限っては戦国時代の制度を残したものである。

各地域の郷士の実態

薩摩藩の事例-「鹿児島の郷士が帯刀しながら馬を以て城下に出てきた」等粗野な生活ぶりのせいもあって「純粋な家中士より軽蔑せられた」と伝えられている。この鹿児島の郷士は、幕末で活躍する大久保利通・西郷隆盛など代表的な存在である。先の両名は、比較的土地の所有の多い郷士であったろう。同じ鹿児島の岡田以蔵(人斬り以蔵)などは、下流な郷士であった。

熊本藩の事例-保田窪は熊本藩の詫間郡本庄手永中の一村名ですが、加藤家改易の後細川忠利が移封してきます。入封後まもなく此処に「地筒」とか「新地鉄砲者」とか呼ばれる農兵のような者が置かれる。「自ら耕して給す」かたわら平日鉄砲の稽古をするほか、城中または公館庭中、庭外の清掃や整備を行っていた。通常百石以上を士族と云ったが、そのもの達から郷士達は卑下されていたようである。今で云う、「田舎者」というような捉え方であったかもしれない。

米沢藩の事例-米沢藩(上杉家)では、6000戸の直臣の内、2000戸を南原・花沢等の城外に住まわせていた。その人達は、半農生活をしていたが、小国・中山・荒砥・鮎貝・高畠等の支城のある要地には、屯田兵として配置して民政を分担していた。直江兼続の最上攻略戦のと気にしたがった地方に土着した土壕の多くであった。そのもの達は100石を給していたが、多くの者達は領地が四分の一になってしまった。そして、身分はと言うと、税の一部を免除される「馬上御免」という身分で、免許百姓であった。その権利は、代々相続というか達で受け継がれていく。そして、兵役があったという事例も彼らが、大坂の陣や島原の乱などの動員を命ぜられていたことも記録に見える。

 九州や東北地方には、比較的外様の大藩が残っていたので、一国一城令が徹底せず、兵農分離も完全ではなかった。そして元々その土地に土着していた地侍達を、「郷士」という身分で、組み入れていたのである。これは、特に東北・九州・四国地域などに多く見られ、多くは外様大名の領地に見られる事例である。

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