各地の郷士の事例と実態 その二
吾妻地域での郷士

吾妻での郷士の位置づけは、原町金沢文書に記述がある。元和元年「一国一城令」により岩櫃城が廃城になり、原の新町が作られた。そこに郡奉行所と御殿((現原町日赤)(地名が御殿))が建設された。敷地は100間四方と言われている。郡奉行には、出浦対馬守が郡政を担っていた。その時の様子を記したものである。
郷士の格式
(現代訳)「原町御殿(郡奉行所)出浦対馬守様が沼田本城に出張の折は、山口織部・小淵喜右衛門の両郷士が留守居役となった。その服装は上下五人で一騎といった。一人は士、二人は鑓、三人は挟箱、四人は□□とあり、挟箱は右、鑓は左で原町の御殿に行った」という。「鑓一筋(郷士の通称)」もこんなところから出ているのかもしれない。小淵喜右衛門充豊も苗字帯刀を許され、給人格以上の身分であったという。伊賀守時代は二人扶持で代官よりは、殿付きで呼ばれていたという。その父信隆は沼田初代藩主真田伊豆守に仕えていたと云うが、身分としては村長、郷士、肝煎などと呼ばれていたが、給人格で十二人扶持だったという。自作農で自分の田畑の他に、沼田藩より十二人扶持をもらっていたようである。郷士とは戦国時代の雇用形態を色濃く残した制度で、江戸時代に於て外様大名に大きい制度であり、「鑓一筋」や「一領具足」などと呼ばれていた人達である。この沼田真田藩を始め仙台伊達藩・土佐山内藩・長州毛利藩・薩摩島津藩などに見られる。これが土佐の坂本龍馬や武市半平太、長州の高杉晋作・木戸孝允、薩摩の大久保利通・西郷隆盛などは幕末まで残った郷士達であった。戦国時代では兵士として活躍し、幕末では明治時代を築いた人達であった。庄屋と郷士の違いですが庄屋も苗字帯刀を許されていたが、小刀のみで郷士は庄屋も兼ねた人達もいたようだが大小刀を許されていた。つまり郷士と呼ばれていた人達は、武士という身分を保障されていたのです。
開墾
五反田の田村雅楽丞父子が、朝鮮の役に行って和助を伴って帰って、開墾に当たらせたということが伝えられている。現在の田村家には屋形門や下人屋敷跡なども残っている。田村氏が土地の開墾を村民に督励して当たっていることは、領主にも相当なメリットとなっていたことだろう。また、領主も郷士に対して命じていたということも、大いに考えられる。正保10年11月我妻郡五反田村新開改帳という記録が旧家に伝わっているが、これによると、開墾総面積は三貫弐拾九文とある。掛かった年数は不明であるが、開墾は郷士の重要な役務の一つであったと言うことです。
軍役
戦国時代に於て地域に住む多くの小領主は、戦国大名から「領土安堵」というお墨付きをもらい、それに対して「軍役」を課せられていました。近世初頭にその仕組みが残ったのが、「郷士制度」というものであった。本来であれば「士農工商」の中に組み込まれれば、「百姓」という形になると思うが、半士半農の身分で残ったのが郷士であったと思う。幕藩体制の中でとくに外様大名の中に残ったのが、この「郷士制度」であろう。戦国時代の形態を色濃く残した制度で、幕府もこれを黙認していたと言うことになる。
では実際に田村家の軍役を見てみる。
田村家における軍役
一、天正廿八年より同廿九年朝鮮の軍役割同廿九年正月三日迄関東上郡筋高壱万石に付弐百人村々・・・
真田安房守様同源三郎様御越被遊名胡屋御陣の由御供に付御知行被下置候・・・
正月廿八日(此朱印吉右衞門に預け置)
一、文禄元壬辰卯月十二日名胡屋立朝鮮国に渡り候由太閤秀吉公御母御病気に付名胡屋より七月廿九日京都に御帰り有後名胡屋にて真田公田村雅楽尉へ御朱印被下置候。
八月十八日(此朱印植栗吉左衛門に預ケオク)
今度□□御□□而為重恩於于吾妻之内、四貫文所出置候猶依奉公可加新恩者成仍件如件
辰正月廿八日 出浦上総介
(文禄元年) 木村渡右衛門尉
在伴奉之
田村雅楽助殿
また慶長五年関ヶ原役に於いては、吾妻の郷士がかりだされて信州上田に於いて、昌幸の麾下となり伊勢山の合戦に奮戦したことは吾妻記(二次資料)に記述されている。降って大阪役にも吾妻の郷士が出陣して真田幸村(信繁)西方と信幸の東方に分かれて活躍したことが富澤文書(富澤久兵衞)に、
大沢右近太夫出入牢人、林理右衛門、奥村八右衛門
<管理者の意見>
この投稿は、「田村家文書」や「吾妻記」を参考にした山口武夫氏の論説を記述しています。ただし、吾妻記は江戸時代の中期あたりの古文書で一般的に「二次資料」といわれるものです。「田村家文書」は代々受け継がれてきた文書ですので、改変されている可能性もあるがほぼその時代の実態を表されているものと思います。これらを参考にすると、幕藩体制の中に完全に組み込まれなかった郷士の実態がおおよそ見て取れるのではないでしょうか。本百姓だが、庄屋などとも違う実態が見られることと思います。まず、普通の本百姓との違いは、戒名と大小の刀を帯びることが出来たことと、兵役の義務を持っていたことだと思います。また、家士と郷士の違いも見られると思います。吾妻の地侍の中で、家士として沼田藩に仕えた者と、兵役の義務をもって地元に住んでいた郷士と別れて活躍していたことが分かります。

