2025年10月27日 / 最終更新日時 : 2025年11月21日 a-tomizawa 歴史 岩櫃城は斎藤氏の本拠だったか その一 吾妻の伝承では「岩櫃城の斎藤基国(憲広)を真田弾正幸隆(幸綱)が攻めて武田の城にとなった」となっている。また、吾妻に残る文書などにも「加沢記」を中心に「吾妻郡略記」「吾妻記」等でもそのように記されている。しかし […]
2025年7月3日 / 最終更新日時 : 2025年7月3日 a-tomizawa 歴史資料 養和元年三月七日癸未 養和元年三月七日癸未(みずのとひつじ) 大夫属(たゆうのさかん)入道(三善康信)が書状で次のように申し送ってきた。 「去る閏二月七日、後白河院の殿上で議定があり、武田太郎信義に対して、武衛(源頼朝)追討の院庁下文を下さ […]
2025年3月25日 / 最終更新日時 : 2025年3月25日 a-tomizawa 歴史資料 曽我物語巻之第一 杵臼(しよきう)・程嬰(ていえい)が事(こと) 此(こ)の者(もの)共(ども)が、心(こころ)をつくしける有様(ありさま)にて、昔(むかし)を思(おも)ふに、大国(たいこく)に、かうめひ王(わう)と言(い)ふ国王(こ […]
2025年2月19日 / 最終更新日時 : 2025年2月19日 a-tomizawa 歴史資料 曽我物語巻之第一 大見(おほみ)・八幡(やはた)が伊東(いとう)狙(ねら)ひし事(こと) 此処(ここ)に、祐経(すけつね)が二人の郎等(らうどう)大見(おほみ)・八幡(やはた)は、是(これ)を聞(き)き、斯様(かやう)の所(ところ)こそ […]
2025年1月7日 / 最終更新日時 : 2025年1月7日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)甲戌二月二十八日 (長沼)宗政が、傷を負った為に参上できなかった(小山)朝政の名代として、一族と今度加勢した者を率いて鎌倉に参上した。武衛(頼朝)は対面され、勲功についてお褒めになった。宗政・(下河辺)行平以下の一族は西方に居並び、(八田 […]
2024年12月18日 / 最終更新日時 : 2025年1月7日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)閏二月二十七日癸酉 武衛が若宮奉幣(ほうべい)された。今日、七日間の祈願が終了したのである。神前にひざまずき、三郎先生(せんじょう)の蜂起はどうなったのであろうかとつぶやかれた。その時、小山七郎朝光は頼朝の御剣をもって御供に仕えており、こ […]
2024年11月17日 / 最終更新日時 : 2024年11月22日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)閏二月二十五日辛未 養和元年(1181)閏二月二十五日辛未 足利又太郎忠綱は(源)義広に同意したが、野木宮合戦に敗北した後、先非を悔い、後日の咎めを恥じて密かに上野国山上郷竜奥に籠もり、郎従桐生六郎だけを呼び寄せて数日間隠れていたが、とう […]
2024年10月25日 / 最終更新日時 : 2024年10月25日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年閏二月二十三日己巳 養和元年(1181)閏(うるう)二月二十三日己巳(つちのとみ) (源)義広が三万余騎の軍士を率い、鎌倉に向かって進んできた。まず足利又太郎忠綱(藤姓足利氏)を誘った所、忠綱はもとより源家(頼朝)に背いていたので、承知し […]
2024年10月16日 / 最終更新日時 : 2024年10月16日 a-tomizawa 歴史資料 曽我物語 巻之第一 佐(すけ)殿(どの)、伊東(いとう)の館(たち)に坐(ま)します事(こと) かくて、隙(ひま)を窺(うかが)ふ程(ほど)に、其(そ)の頃(ころ)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)、伊東(いとう)の館(たち)に坐(ま) […]
2024年10月8日 / 最終更新日時 : 2024年10月16日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)閏二月二十日庚寅 養和元年(1181)閏(うるう)二月二十日庚寅(かのえとら) 武衛(源頼朝)の叔父志田三郎先生(せんじょう)(源)義広が一族の縁故を忘れ、突然、数万騎の逆党を率い鎌倉を落とそうとし、常陸国を出て下野国至ったという。平家 […]