吾妻における郷士について その二

-田村氏・・・吾妻郡嵩山の郷士
中之条五反田の郷士で、この地で九貫文(27石)を領した。記録では、清宗から現れる。清宗は天文十七年生まれと言われ、源頼信の子孫を名乗る。雅楽丞を称し、武田信玄に仕えた。吾妻は、武田勝頼が甲斐天目山に滅びるまで武田の直領であった。つまり、武田家から領地安堵の確約をもらい、真田氏の寄騎となっていたのである。武田家が滅ぶと、時の真田の当主昌幸は吾妻の自領化を急速に進めた。この時田村氏も、真田昌幸に従ったのでしょう。次代の雅楽助は清宗の子で、天正十八年松井田合戦に参加、文禄元年父(慶長五年死)と共に朝鮮に渡る(この事は真田家は名護屋城(九州)の在番であったので、甚だ疑問の残る所ではある)。この時捕虜として朝鮮人を連れてきて、作人として使ったという。清隆は真田信繁(幸村)に仕へ、大坂の陣の時信繁と共に大阪城に入城した。大阪落城と共に、吾妻に帰ってきた。その後、故有って自殺したという。弟重則は、土着して「郷士」となる。二弟正治、三弟清風は沼田に出仕して家士となる。この田村家は、五反田親都神社の下に今でもあり、立派な屋形門が今でも存在している。
-伊能氏(伊与久氏)・・・吾妻郡岩井の郷士
群馬県伊勢崎市に、江戸時代~明治22年迄「伊与久村」という地名が残る(群馬県地名大辞典)。昭和30年から境町大字伊与久となる。長尾家文書の中にその地名が残る。寛文郷帳で郷高793石の内、田方264石、畑方529石余とある。我が東吾妻町岩下に残る文書に、岩下村400石余とあるので、この地より少し多い村である。伊与久氏は、この地域から字名として姓を取ったと思われる。古くからこの地の伊与久氏がいたとすると、最初は新田氏に従っていたのでは無いか。南北朝の争乱の中、新田氏が没落すると関東管領山之内上杉の家宰、上野と武蔵の守護代であった長尾氏に従った。その一族の誰かが、吾妻郡岩井に領地をもらい土着して室町中期(戦国時代)よりこの地でその痕跡が見られる。そして邸内に、五良神社を祀っていたという。その祭神は「高良玉垂尊(こうらたまたれのみこと)」です。文永・弘安の蒙古襲来(1274年・1281年)には、勅使が参向、蒙古調伏なるや叡感あって、「天下の天下たるは、高良の高良たるが故なり」との綸旨(りんじ)を賜わったと伝えられることから、「武運長久の神」として崇められていた。もしかすると、祖先発祥の地は筑後国にあったのかもしれません。この地ではそもそも岩櫃斉藤氏に従い、斉藤氏が真田氏のよって没落させられると、真田氏に従った。斉藤氏、真田氏の初期の頃の当主は吉重といって天正年中に卒している。その子采女は父と共に斉藤氏に出仕して、真田氏に出仕している。その子吉安は真田の旗本として200石出仕え、その子吉籠は伊賀守(真田)に出仕して200石、その子成政も同じく200石で原町に住していた。つまり、真田に従っていたが城下に住む家士ではなく、郷士であったことが分かる。その子吉満は十両二人扶持で吾妻郡の代官役を務め、上沢渡・松尾・吾妻郡西部もその支配下に置いていた。
-富澤氏(冨澤氏)・・・吾妻郡岩下の郷士
富澤氏は、斉藤憲行より分かれた斉藤一族だという。「尊卑分脈斉藤系図」では、憲行六男行連が富澤三郎を名乗って岩下に住していることから、この人を富澤の祖としている。富澤という姓は字名であることから、この岩下の地に富澤という地名があったのか。今その地名は残っていない。群馬県では、太田市に「富澤」の地名が残っていた(群馬地名大辞典)。江戸時代から明治22年迄、「冨沢村」と言うのが新田郡にあった。総石高425石余で田方298石余、畑方127石余。ここが発祥の地であるかは、はっきり分からない。冨沢の地名は、東北各地に残っていて福島県福島市の富沢町は今でも名を残している。ここでは、吾妻に残る伝承である斉藤氏の分かれという解釈を取っておくこととする。初代行連は、岩下城主であったとする。四代の孫出羽守は岩井堂城主、長男大学は下沢渡、二男豊前守は山田城主、三男治部は岩井堂城主、四男主水は永禄八年嵩山で戦死している。永禄七年大学の知行した高は、二十貫文(60石程)と言われている。豊前の二男外記は代官として吾妻郡奉行、その子友之助は150石で伊賀守に仕えた。中でも豊前の三男久兵衛は、江戸期通して原町の名主となる。この富澤氏の出自は、先に斉藤氏の分かれと説明したが、ここで気になる事例がある。江戸時代上州三大尽、加部安左エ門の初代から三大まで富澤を名乗っていて、三代目が加部家の養子となった。そして初代は、大胡の方から移ってきたという。時代が少しずれるが、新田郡富沢村が出身でいつからかこの吾妻に移り住んだということも考えられると思います。
今回は、吾妻の主な郷士を紹介しました。次回は、郷士の位置づけと身分について投稿したいと思います。

