2025年1月7日 / 最終更新日時 : 2025年1月7日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)甲戌二月二十八日 (長沼)宗政が、傷を負った為に参上できなかった(小山)朝政の名代として、一族と今度加勢した者を率いて鎌倉に参上した。武衛(頼朝)は対面され、勲功についてお褒めになった。宗政・(下河辺)行平以下の一族は西方に居並び、(八田 […]
2024年12月18日 / 最終更新日時 : 2025年1月7日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)閏二月二十七日癸酉 武衛が若宮奉幣(ほうべい)された。今日、七日間の祈願が終了したのである。神前にひざまずき、三郎先生(せんじょう)の蜂起はどうなったのであろうかとつぶやかれた。その時、小山七郎朝光は頼朝の御剣をもって御供に仕えており、こ […]
2024年11月17日 / 最終更新日時 : 2024年11月22日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)閏二月二十五日辛未 養和元年(1181)閏二月二十五日辛未 足利又太郎忠綱は(源)義広に同意したが、野木宮合戦に敗北した後、先非を悔い、後日の咎めを恥じて密かに上野国山上郷竜奥に籠もり、郎従桐生六郎だけを呼び寄せて数日間隠れていたが、とう […]
2024年10月25日 / 最終更新日時 : 2024年10月25日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年閏二月二十三日己巳 養和元年(1181)閏(うるう)二月二十三日己巳(つちのとみ) (源)義広が三万余騎の軍士を率い、鎌倉に向かって進んできた。まず足利又太郎忠綱(藤姓足利氏)を誘った所、忠綱はもとより源家(頼朝)に背いていたので、承知し […]
2024年10月16日 / 最終更新日時 : 2024年10月16日 a-tomizawa 歴史資料 曽我物語 巻之第一 佐(すけ)殿(どの)、伊東(いとう)の館(たち)に坐(ま)します事(こと) かくて、隙(ひま)を窺(うかが)ふ程(ほど)に、其(そ)の頃(ころ)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)、伊東(いとう)の館(たち)に坐(ま) […]
2024年10月8日 / 最終更新日時 : 2024年10月16日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年(1181)閏二月二十日庚寅 養和元年(1181)閏(うるう)二月二十日庚寅(かのえとら) 武衛(源頼朝)の叔父志田三郎先生(せんじょう)(源)義広が一族の縁故を忘れ、突然、数万騎の逆党を率い鎌倉を落とそうとし、常陸国を出て下野国至ったという。平家 […]
2024年10月7日 / 最終更新日時 : 2024年10月7日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第二 養和元年二月小一日戊寅(つちのえとら) 足利三郎義兼が北条殿(時政)の息女を娶った。また加々美次郎長清が上総権介(かずさごんのすけ)広常婿となった。両人とも、人柄が穏やかで忠貞(ちゅうてい)の志を持っており、(頼朝の) […]
2024年10月5日 / 最終更新日時 : 2024年10月5日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第一 治承四年(1180)十二月二十二日庚子(かのえね) 新田大炊助(おおいのすけ)入道上西(義重)が召しにより参上した。しかしすぐに鎌倉に入ってはならないと、命じられので、山内のあたりに留まった。これは、軍士たちを集めて上 […]
2024年9月30日 / 最終更新日時 : 2024年9月30日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第一 治承四年十二月二十日戊戌 治承四(1180)年十二月 戊戌(つちのえいぬ) (頼朝の)新造の御邸において、三浦介義澄が椀飯を献じた。その後御弓始があった。この事は事前に定められなかったものの、(橘)公長の二人の子息が特に巧みであるという話をお聞き […]
2023年9月5日 / 最終更新日時 : 2023年9月5日 a-tomizawa 歴史資料 吾妻鏡巻之第一治承四年五月 鎌倉時代、滅びそうな吾妻氏を継承するため下河辺行家が吾妻に来たり、ようげつを退治して吾妻氏を継承したと伝わる。この下河辺氏が初めて「吾妻鏡」記載されているのでここに紹介します。吾妻に残る伝承では、後吾妻氏はこの行家の子 […]