吾妻鏡巻之第一治承四年五月

 鎌倉時代、滅びそうな吾妻氏を継承するため下河辺行家が吾妻に来たり、ようげつを退治して吾妻氏を継承したと伝わる。この下河辺氏が初めて「吾妻鏡」記載されているのでここに紹介します。吾妻に残る伝承では、後吾妻氏はこの行家の子、行重がぜん吾妻氏唯一生き残りの姫を娶って、吾妻氏を継承したという。このことを踏まえ、下河辺氏の記述も紹介していきたい。

治承(じしょう)四年五月十日辛酉(かのととり)(1180年)

下河辺庄司行平が武衛(頼朝)に使者を送り、入道三品(さんぽん)源頼政が挙兵の準備をしている事を報告した。

<解説>

源三位頼政は、「保元平治の乱」で滅んだ源義朝とは別の源氏一族です。同じ清和天皇につながる源氏一族ですが、義朝は「前九年の役」の頼義、「後三年の役」の義家につながる河内源氏です。一方頼政は、摂津源氏です。「保元平治の乱」では、「相国(平清盛)」に与し生き残ります。頼政の系統は古くより宮廷につかえ、宮廷武士と呼ばれる人でした。中央政界で生き残り、平家からの信頼も厚かったようです。また、貴族的武士で有名ですが、歌人としても有名な人でした。歌がうまいという事は、宮廷内では非常に優れた存在で、正四位という身分でした。頼政自身は、死ぬまで従三位を望んでいましたがそれは、生涯実現されませんでした。なぜ従三位にこだわったかというと、従三位以上の位になると「公卿(くぎょう)」と呼ばれ「天皇」に直に対面できたのです。そのことから、正四位と従三位の位は一つしか違わないが、宮廷内においては大きな違いがあったのです。平氏に従っていたのだが、当時の平氏の横暴を心のどこかで嫌っていたのかもしれません。1180年頃、平清盛は後白河上皇を幽閉し、自身の孫安徳天皇を強引に即位させました。これを快く思っていない後白河上皇の息子、以仁王が平家打倒を目指して各地の源氏に呼びかけ、自身も挙兵する計画だった。この動きを、関東でも察知していたという事でしょう。この動きが平家にばれ、以仁王を逃がすため頼政は平等院で平家と衝突します。しかし、頼政は敗北して自害。最後に辞世の句を残したといわれている。

 埋木の 花咲く事も なかりしに 身のなる果は あはれなりける

 埋れ木の花が咲くことがないように、私に生涯もまた、何も達成できずに終わってしまった。

 頼政が咲かせたかった花は、「源氏の再興」だったのではないか。なにも果たせなかった頼政の生涯は、悲しすぎるような気がします。

<参考文献>現代訳語吾妻鏡 1巻 「頼朝の挙兵」

      群馬県史 資料編6

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