曽我物語3

 佐(すけ)殿(どの)、伊東(いとう)の館(たち)に坐(ま)します事(こと)

 かくて、隙(ひま)を窺(うかが)ふ程(ほど)に、其(そ)の頃(ころ)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)、伊東(いとう)の館(たち)に坐(ま)しましけるに、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)大庭(おほば)の平太(へいだ)景信(かげのぶ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。一門(いちもん)寄(よ)り合(あ)ひ、酒(さか)もりしけるが、申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)は、昔(むかし)は、源氏(げんじ)の郎等(らうどう)也(なり)しかども、今(いま)は、平家(へいけ)の御恩(ごおん)を以(もつ)て、妻子(さいし)を育(はごく)むと雖(いへど)も、古(いにしへ)のこう、忘(わす)るべきにあらず。いざや、佐(すけ)殿(どの)の、いつしか流人(るにん)として、徒然(とぜん)に坐(ま)しますらん。一夜(いちや)、宿直(とのゐ)申(まう)して、慰(なぐさ)め奉(たてまつ)り、後日(ごにち)の奉公(ほうこう)に申(まう)さん」「もつとも然(しか)るべし」とて、一門(いちもん)五十余人(よにん)、出(い)で立(た)ちたり。人別(べつ)筒(つつ)一あてぞ持(も)ちにける。是(これ)を聞(き)き、三浦(みうら)、鎌倉(かまくら)、土肥(とひ)の二郎(じらう)、岡崎(をかざき)、本間(ほんま)、渋谷(しぶや)、糟屋(かすや)、松田(まつだ)、土屋(つちや)、曾我(そが)の人々(ひとびと)、思(おも)ひ思(おも)ひに出(い)で立(た)ちにけり。然(さ)る程(ほど)に、近国(きんごく)の侍(さぶらひ)、聞(き)き伝(つた)へ、「我(われ)も如何(いか)でか逃(のが)るべき。いざや参(まゐ)らん」とて、相模(さがみ)の国(くに)には、大庭(おほば)が舎弟(しやてい)三郎(さぶらう)、俣野(またの)の五郎(ごらう)、さこしの十郎(じふらう)、山内(やまうち)滝口(たきぐち)の太郎、同(おな)じく三郎(さぶらう)、海老名(えびな)の源八(げんぱち)、荻野(おぎの)五郎(ごらう)、駿河(するが)の国(くに)には、竹下(たけのした)の孫八(まごはち)、合沢(あひざは)の弥五郎(やごらう)、吉川(きつかは)、船越(ふなこし)、入江(いりえ)の人々(ひとびと)、伊豆(いづ)の国(くに)には、北条(ほうでう)の四郎(しらう)、同(おな)じく三郎(さぶらう)、天野(あまの)の藤内(とうない)、狩野(かの)の工藤五(くとうご)を始(はじ)めとして、むねとの人々(ひとびと)五百人、伊豆(いづ)の伊東(いとう)へぞ移(うつ)りける。伊東(いとう)、大(おほ)きに喜(よろこ)びて、内外(ないげ)の侍(さぶらひ)、一面(めん)に取(と)り払(はら)ひ、猶(なほ)狭(せば)かりなんとて、壼(つぼ)に仮屋(かりや)を打(う)ち出(い)だし、大幕(おほまく)引(ひ)き、上下二千四五百人の客人(きやくじん)を、一日(いちにち)一夜(いちや)ぞもてなしける。土肥(とひ)の二郎(じらう)、是(これ)を見(み)/て、「雑掌(ざつしやう)は、百人二百人までは安し。既(すで)に二三千人の客人(きやくじん)を一人に預(あづ)くる事(こと)、無骨(ぶこつ)なり」と言(い)ふ。伊東(いとう)、是(これ)を聞(き)き、「河津(かはづ)と申(まう)す小郷(せうがう)を知行(ちぎやう)せし時(とき)にも、いづれの誰(たれ)に、我(わ)が劣(おと)りて振舞(ふるま)ひし。ましてや、■美庄(くすみのしやう)をふさねて持(も)ち候(さうら)ふ間(あひだ)、予(かね)て承(うけたまは)る物(もの)ならば、などや面々(めんめん)に引出物(ひきでもの)申(まう)さで有(あ)るべき。是(これ)程(ほど)の事(こと)、何(なに)かは苦(くる)しかるべき」とて、山海(さんかい)の珍物(ちんぶつ)にて、三日三夜(や)ぞもてなしける。又(また)、海老名(えびな)の源八(げんぱち)の申(まう)しけるは、「斯(か)かる寄(よ)り合(あ)ひに参(まゐ)るべしと存(ぞん)じて候(さうら)はば、国(くに)より勢子(せこ)の用意(ようい)して、音(おと)に聞(き)こゆる奧野(おくの)に入(い)り、物頭(ものがしら)に馬(むま)相(あひ)付(つ)け、鏑(かぶら)のとほなりさせざるが、無念(むねん)なり」と言(い)ひければ、伊東(いとう)、是(これ)を聞(き)き、「祐親(すけちか)を人と思(おも)ひてこそ、両三日国(がこく)の人々(ひとびと)打(う)ち寄(よ)りて、遊(あそ)び給(たま)ふらめ。左右(さう)無(な)く、座敷(ざしき)にて、勢子(せこ)の願(ねが)ひやうこそ、心(こころ)狭(せば)けれ。それそれ河津(かはづ)の三郎(さぶらう)、勢子(せこ)催(もよほ)して、鹿(しし)射(い)させ申(まう)せ」と言(い)ひけるぞ、伊東(いとう)の運(うん)の極(きは)めなる。河津(かはづ)は、もとより穩便(おんびん)の者(もの)にて、心(こころ)の内(うち)には、殺生(せつしやう)を禁(きん)ずる人なりければ、如何(いか)にもして、此(こ)の度(たび)の狩(かり)を申(まう)し止(とど)めなば、よからましと思(おも)へども、多(おほ)き侍(さぶらひ)の中(なか)にて、親(おや)の申(まう)す事(こと)なれば、力(ちから)及(およ)ばで、座敷(ざしき)を立(た)ち、我(われ)と勢子(せこ)をぞ催(もよほ)しける。「幼(をさな)き者(もの)は、馬(むま)に乗(の)りて出(い)でよ。大人(おとな)は、弓矢(ゆみや)をもて」とふれければ、■美庄(くすみのしやう)ひろくして、老若(らうにやく)に三千四五百人ぞ出(い)でたりける。彼(かれ)等(ら)を先(さき)として、三が国(こく)の人々(ひとびと)、我(われ)も我(われ)もと打(う)ち出(い)でたり。伊東(いとう)・河津(かはづ)が妻女(さいぢよ)、数(かず)の女房(にようばう)引(ひ)きつれて、南(みなみ)の中門(ちゆうもん)に立(た)ち出(い)でて、打(う)ち出(い)でける人々(ひとびと)を見(み)送(おく)りける。中(なか)にも、河津(かはづ)三郎(さぶらう)は、余(よ)の人にもまがはず、器量(きりやう)骨柄(こつがら)すぐれたり。「此(こ)の内(うち)のたいしんと言(い)ひたりとも、悪(あ)しからじ。子(こ)ながらも、優(いう)に見(み)ゆる物(もの)かな。頼(たの)もし」と宣(のたま)ひければ、河津(かはづ)が女房(にようばう)、是(これ)を聞(き)き、「弓矢(ゆみや)取(と)りの物(もの)いでの姿(すがた)、女(をんな)見(み)送(おく)る事(こと)、詮(せん)無(な)し。内(うち)に入(い)らせ給(たま)へ」と言(い)ひければ、実(げ)にもとて、各々(おのおの)内(うち)にぞ入(い)りにける。神無月(かんなづき)十日余(あま)りに、伊豆(いづ)の奥野(おくの)へ入(い)りにけり。

<解説>

 頼朝が、伊藤の館に来訪した時の下りです。この頃の頼朝は、平家によって伊藤に配流の身であり、その監視役は伊藤祐親。ただ京の都から遠く離れた坂東の地は、流人である頼朝あっても監視は緩かったことでしょう。もともと坂東の諸氏は、頼朝の父義朝の時代被官であった者達が多くいました。世は平氏の全盛期であったものの、頼朝を心にとめる人たちはたくさんいたことでしょう。特に祐親の子。河津三郎は頼朝に対して心を砕いていたようです。頼朝を客としてもてなす為、狩りをしました。多くの坂東武者が集まり、源家の嫡流としての面目を、施したことでしょう。この時、祐親の娘とも知り合い後、恋仲となっていったのではないでしょうか。後々、頼朝が「平家追討」を決意するきっかけになったのかもしれません。このイベントは、多くの坂東武者が参加して、盛大に宴会も行われたとあります。

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