出浦昌相

出浦渕

 本日は、出浦(いでうら)昌相(まさすけ)について。

 細かい解説は他に譲るとして、本日は岩櫃城とも関係の深い出浦昌相について。

 岩櫃城には、出浦氏の屋敷跡と伝わる場所がある。発掘調査では、何カ所か石積みが見つかったが唯一石積みが確認できる場所が昔から「出浦渕(でうらふち)」と呼ばれているところだ。昔の街道が西の木戸を抜けて旧街道が回り込んだところである。この石積みであるが、私の見る限り街道の端に積んだ石である。現在、「真田道」としてまちで紹介している街道は明らかに近代に作られた道である。この街道は、東の木戸、天狗の丸の南、橋台跡の橋を渡り西の木戸を抜ける。出浦淵を抜けて殿屋敷下を通り、切沢に抜けていた。私もこの旧街道と思われるところを何回か抜けてみたが、夏場は藪で冬でないとなかなか歩くのは困難である。ここを歩くと途中細くなるのであるが、ほぼ一間のは場の道がある。こう言う要所に屋敷を構え、通行者を監視していたのかも知れない。さて、出浦(でうら)渕ですがなぜ「いでうら」でないかというと、吾妻の方言に原因がある。この地では「い」をあまり使わない。これは修験僧のことを、「ほうえんさん」と読んでいたなど考えるとわかりやすい。従来であれば「法印(ほういん)さん」であるはずである。そこで「出浦(いでうら)」氏の呼び方である。吾妻では、「おでうらさま」と下々から呼ばれていたそうである。これを考えると、おでうらさまの館があったので「おでうらふち」、近代になり「お」と言うのは尊称であるのでいつの間にか「お」が抜けてしまった。と言うようなことが真実かも知れません。

 言わずと知れた出浦氏は、真田信之公に命ぜられ原町の町割りをした人である。明治の初めに、出浦氏から土地を購入したという人が、出浦氏と原町の関係調べている。明治時代の登記簿のコピーを見せてもらったが、出浦氏の名が書いてある。これを踏まえて考えれば、岩櫃城が廃城になってからはそこ、つまり原町の南町に舘があったと言うことである。その家の口伝に拠れば、そのときお墓が残されており善導寺に預けたという。しかし、現在では行方不明となっているそうです(見つけたが見つからなかった)。この事を考えると、直系は上田、松代と信之にしたがって信州へ行ったが、傍系の人が江戸時代この原町に残っていた可能性が高いと思います。

 もう一つ、大河ドラマ「真田丸」では「出浦昌相」としているが、この地で伝わっているのは「出浦対島守幸久」である。この人の子が「半平幸吉」と言って信之の信任厚く、松代転封の折1050石に加増されたという。この町でも盛清=昌相として、紹介していました。しかし、清種、盛清、幸久と3代で数えるのが正しいと最新の説では言われています。私もその説を押したいと思います。

 今回は、出浦氏について吾妻地方に伝わる伝承を紹介してみました。

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