山田の豊前様

山田桑原(やまだかばら)の富澤豊前守のお墓(ぶぜんさま)

  墓は無縫塔で、文字は刻まれていない。墓は里芋のような形であるので、僧侶か法印の墓であるのは間違いない。古来より地元で、「ぶぜんさま」と呼ばれていることから富澤豊前守幸順の墓であろう。

原町金井の富澤豊前守供養塔

 原町金井の某所に、この供養塔はある。權大增都智圓法印、俗名富澤豊前守、葬同郡山田村 慶長17(1612年)甲寅年7月21日と刻まれている。

石塔に刻まれている文字

富澤豊前守系図

富澤豊前守の事象

**はじめに

 このサイトで私が勝手に名乗っている「富澤豊前守」は、実在の人物で吾妻七騎の旗頭でも有り、その末裔の方は現在でもこの吾妻の地に居られます。豊前守は、武勇に勝れこの地が真田氏の統治の時代になった後も活躍した人物です。

 その末裔の方々に敬意を表すると共に、その詳細を知っていただきたくここに紹介したいと思います。山田城の解説で少し解説したのですが、ここに「吾妻郡城壘史」、「原町誌」、「吾妻郡誌追録」を参考にしながら詳しく解説致します。

**斉藤系図による富澤豊前の系譜

 斉藤氏の六男は、富澤を名乗り富澤三郎行連と名乗り岩下郷に土着した。その二男基幸は但馬守を名乗り二男子一女子を設け長男は基康(勘十郎)二男は基光(新三郎)と末子の女子は横谷左近の妻となった人である。

 その二男基光の家系が富澤豊前守の系統である。この基光の三男久幸は沢渡に住み、唐沢を名乗る。長男太郎基冬から加賀守基房と続きその次男幸順が富澤豊前守となる。

 加賀守基房は吾妻と白井の境目の城「岩井堂城」の城主であった。長男を大学といい下沢渡なかぐみに住し、豊前守は山田村かばらに住し、三男治部は父の跡を継ぎ岩井堂城主となったが、長篠の戦いで戦死した。四男主水は五反田たけやまに住したとある。

 富澤豊前守は、武田の武将真田氏に仕へ長篠の戦いを初め幾多の戦場を駆け巡った勇猛の士であり横尾八幡の要害の守将なども勤めていました。この人は長命で、晩年法印となり「権大僧都智円」と名乗ったと言う。墓は、その墓は山田村かばらに有るという。原町カネキウ富澤家の系図に拠れば「山田村城主にて信玄お手に付吾妻七騎旗頭慶長十九甲虎七月廿一日卒法名権大僧都大阿闍梨智円法印」とあります。この人は、「加澤記」にも登場する。真田昌幸倉内城(沼田城)入城のと木の様子が記されている。「御馬添えには富澤豊前、黒糸威の鎧、鍬形の冑を著、三尺五寸の太刀をを帯、大長刀を打ちかたげ、ゆらりゆらりと歩みけり」豊前守は昌幸御馬廻りとして側近く使えていたことが読み取れる。

 その嫡男大蔵(おおくら)は、草津小雨に引越しその後川戸村桑原家に入り金蔵院第十三世別当になったとあります。大蔵は、父と同じく大変武勇に勝れ勇猛の士であったと言われています。金蔵院別当になったと言うことは文武両道に勝れた人だったのではないでしょうか。その桑原家のお墓に「富澤豊前守の供養塔」があると言うことです。この桑原家は、現在続き川戸にその末裔の方が居られます。

 次男外記は、沼田真田藩伊豆守信之、河内守信吉(信之長男で沼田真田藩二代当主)に二百石で仕え吾妻郡奉行として原町滝沢(現善導寺があるあたりか)に住したとあります。

 三男久兵衛も沼田真田藩に仕えたが、後浪人して岩下に居り寛文年中(1661~1672年)原町に来住して「カネキウ」の祖となった。この「カネキウ」さんの屋敷倉は最近まで原町地内にありましたが、都市計画による区画整理により現在は解体されてしまいました。

 長男大蔵の文武を道は、その後桑原の家にめんめんと引き継がれ大蔵の五世の孫金蔵院十八世の法印玄長という人は、浅間神社を再建し享保八年境内に観音堂を建立した。玄長は、武道の心がけも深く、慈源流の秘伝を受け、弟子もおおかったという。

 この玄長の墓は、金蔵院墓地にその弟子達二十六人の建立した五輪塔がある。またこの墓地に富澤豊前守の供養五輪塔が有り、玄長法印建立の物であると思われる。

 私も姓は富澤で有り、曾祖父まで神主をしていたようですし、また母の実家も神主です。そしてその神社「熊の教会」は、現在は神社であるが以前は修験道の道場であったようである。そんなことも有り、このホームページ上で「富澤豊前守」名乗らせて戴いております。末裔の方々には、ご迷惑とも思いますがご容赦いただきますようお願いします。

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山田の豊前様” に対して6件のコメントがあります。

  1. 冨沢 より:

    サイト読ませて頂きました。我が家も富澤行連の子孫として墓を守り続けています。どんな人だったのか?どんな一族なのか詳しい事は全くわかりません
    このサイトのおかげで新たな情報を入手する事ができました。可能であればまた詳しくお話を伺えればと思っております

    1. Akira Tomizawa より:

      我が家は富澤で、岩下に残った家だと思います。江戸末期から明治の頃は、現姉山にある菅原神社の下に住んでいたようです。火事で焼け出され、資料は残っていません。しかし父方の曾祖父も、祖母の父もまた母方の家も神官をしています。そのいずれの家も以前(江戸時代までは)ほうえんさん(吾妻の方言で法印の意味)で、修験だったと伝わっています。菅原神社の神官の海野家も修験だったと、伝わっていますので海野配下の修験だった可能性もあります。我が家の墓も、水害で流された墓もあったようですが、新たに建った石塔しかなく、古い墓はなくなっています。結局我が家の家系からは、明治時代まで遡るのがやっとという現状です。

  2. 冨澤(ワわんむり) より:

    横浜生まれの西東京に住んでます。父は宮城の冨澤姓で、ルーツを求めてここにたどり着きました。家紋は丸に橘です。亡くなる一ヶ月前にルーツを聞いたら、先祖は山形から来たと言ってました。(山形県最上郡最上町富澤か、山形県西村山郡大江町富沢あたり?の農民が来たのかな?)

    死後、父の家系を逆上れるだけ戸籍を逆上ったら嘉永6年のおばあさんの記述が有りましたよ。
    (ペリー来航ですね)

    なかなか山形には気軽に行けないので、今度群馬のこの辺りをブラブラしてみようと思います。

    1. 富澤 朗 より:

      コメントありがとうございます。富沢町で有名なのは、東京の日本橋の富沢町が有名です。群馬県でも、富沢の地名は太田市で見られるようです。新田の長楽寺に足利尊氏からの寄進状の中に、富沢の地名が見えます。この地名は、古文書の中では南北朝の時代から見られるようです。福島県いわき市にも富澤の地名があり、おおよそ東日本(関東より東側)で多く見られるようです。わが地方の富沢は、吾妻の領主斎藤氏の一族と伝わっています。我が家の家紋は、「三柏」ですが、これは本家の吾妻斉藤氏の「六柏」だったのと関係しているようです。現在この地にのこる斎藤氏の家紋は、「下り藤」が多いのですが。わが一族は天慶の乱で平将門を滅ぼした、下野掾藤原秀郷の末裔であるという家系図が富沢旧家にはあるようです。私の家は江戸時代末期、火事で焼け出されたと言うことで文書等残されたものはありません。もしかすると太田市に富澤の地名があると言うことは、新田源氏の末端に連なっていたのかも知れませんが、現状では「わからない」と言うことが実状です。

  3. 富爺 より:

    こんにちは、ご無沙汰しております。小生の実家はカネ久(カネキウ)です。家紋の件ですが【五柏】です。(江戸時代の墓石も同じ家紋です)参考になれば幸いです。

    1. a-tomizawa より:

      お久しぶりです。吾妻の富澤は、柏紋が多いのですかね。昨年のことになりますが、群馬テレビの「ぐんまトリビエ図鑑」という番組で「原町観音山」を紹介させて頂きました。「カネキウ」さんの江戸時代のご当主様が書き残した文書にある、「金堀穴」の由來についても紹介致しました。放送時間が短く、「観音山」全体の解説は詳しく出来なかったのですが、石仏などあちこち見てもらい、少しは「原町観音山」の素晴らしさを紹介できたと思います。町文化財担当者とも相談して、「カネキウ」様の古文書も再度掘り起こせればと思っております。「岩櫃城跡」も国指定史跡となり、吾妻の歴史が少しでも脚光を浴びる日を待ち望んでいます。

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