忍びの名人割田下総

割田重勝

吾妻の旧記(江戸時代の書物)の中に、しばしば「吾妻七騎」という勇猛な士を7人あげた物がある。「吾妻記」では、

一、富沢伊予 岩下村

一、唐澤玄蕃 沢渡村

一、富澤伊賀 下沢渡村

一、富澤豊前 山田村

一、割田下総 横尾村

一、浦野平兵衛 原町

一、蜂須賀伊賀 原町

の計7人。

「原町岩櫃城記録」では、

一、富澤伊賀 岩井堂

一、富澤豊前 山田

一、富澤出羽 沢渡

一、浦野平兵衛 三島

一、唐澤玄蕃 沢渡

一、割田下総 横尾

一、蜂須賀伊賀 原町

 富澤豊前守、唐澤玄蕃と共に常に割田下総も吾妻七騎に名を連ねている。「加澤記」の中にも割田下総のことが記されている。郡内横尾村字高須(現在高津と言う)居住していたという。割田下総は、忍びの名人で昌幸ばっかとして活躍したが、戦乱がやむと浪人して高須で帰農したという。しかし、武辺一辺倒で百姓としてうまくいくはずもなく、少々の盗みなども行いながら妻子と共に暮らしていたという。
 その頃、善六というものが割田の盗みを郡奉行出浦に訴え出た。出浦も訴えのあった物をそのままにしておけるわけもなく、討手を差し向けたのである。元和4(1618年)年9月のことである。多勢で囲んだのであるが、戦国の世を生き抜いてきた剛の者である。けが人を出しながらも、何とか討ちとったのである。
 それを聞いた真田信之は、「割田の罪はわが罪であると」ハラハラと涙を流したという。
 加澤記に拠れば割田重勝は吾妻三家、塩谷氏の臣下であったという。大野によって三氏統一がなると大野氏にしたがい、大野に代わって斉藤が吾妻を統一するとその臣になったという。その斉藤氏が真田によって没落すると、眞田氏にしたがったという。

 「加澤記」においては、割田下総の他に割田新兵衛、割田掃部などの名が見える。「吾妻記」の中には割田興兵衛、割田興左衛門、割田隼人などの名が見える。これらの人々と下総の関係は、未だはっきりしない。

 割田下総の経年普

天正 の初  富沢伊予の手に属し岩井堂の要害を守る。(加澤記)
天正 8年  真田昌幸東上州出動揃えの時小荷駄奉行の一人なる。(加澤記)
同   年  八幡要害を攻めて敗退する。(吾妻記)
同   年  八幡要害を攻め取る。   (吾妻記)
天正 9年  尻高城を攻め取る。 (吾妻記)
天正10年  池田、出浦と共に嶽山に籠もる。(加澤記)
同   年  真田信之、大戸城の北条を攻めるとき、御馬廻りとして出陣(加澤記)
天正11年  須河にて北条勢と戦う。(吾妻記)
其の頃    ただ一人中山城に忍び入り、偵察を遂げ馬を盗み帰る。(吾妻記)
天正12年  中山城攻撃の案内をなす。(吾妻記)
天正13年  白井の原の敵陣に忍び入り、馬を奪いて帰る。(加澤記)
天正17年  北条勢の侵攻に備え、大戸口に向かう。(加澤記)
天正18年  松井田城攻撃に参加する。(吾妻記)

元和 4年9月  鹿野久兵衛、同和泉などにより討ち取られる。

割田下総守の墓

 吾妻郡中之条町横尾を西に深く入り込んだところを、高津という。南を受けた斜面に人家が点在している。そこに、割田下総は住んでいたという。その住まいのありかは現在、はっきりしない。ただし彼の再起の場所というのは伝わっていて、背後に大岩石のある所でその谷の奥にある。

 彼の墓であるが、高津の谷の相向かいの長久保という所にあります。手前と奥の2つあり、奥の墓石は舟形になっています。

 一叟良心居士
 一相眞心大姉

 割田下総

 と刻まれている。
前面の墓石は明らかに新しくおそらく、後世の供養塔であると思う。

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