戦国真田の岩櫃城跡探検隊第21弾参加

 本日、戦国真田の岩櫃城跡探検隊第21弾に参加させて頂きました。まず大雲寺にてご住職に加部安左エ門について、須賀尾の絵師大塚榛山氏のお話など伺いました。その後加部安左エ門の代々のお墓、寄進の石垣と色々見させて頂きました。加部安左エ門は「一に加部安、二佐波、三鈴木」、と歌われた上州一のお大尽です。七代、八代の頃が全盛期で、天明三年の浅間山大噴火の時私財をなげうって被害に遭った人達を助けたという功績が残っています(金五百両と米五百石)。浅間の大噴火の時は、その後天明の大飢饉も発生しており大変受難の時代でありました。

補足1:一両は現在の金に換算すると、¥75,000~¥130,000です。時代によって相場は変化しているようです。

補足2:米俵一俵は玄米で4斗。一石は10斗で米俵2.5俵(一年間で一人が食べる米)。一石は現在の米の値段、10kgで¥3,000とすると一俵が60kgですので、一俵は¥18,000したがって一石は¥45,000となります。

解説 大雲寺御住職 武井雅道様

 上の写真は、加部安左エ門の屋敷跡(書院)あとです。生業は農業、酒造、両替などで往事は広大な敷地に屋敷、蔵などがありましたが、現在ではこの書院跡と石垣(10万石の格式)が残っています。その蔵は、東吾妻町の各所に加部安の倉と言われいくつも残っています。詳細は、少しまとめ詳しくこのサイトでも紹介していくつもりでおります(後日)。

解説 社会教育課文化財保護係の吉田智哉さん

 次に、大戸平城。大戸平城は、並郭式丘城です。縄張は、高山村の中山城跡に似ています。中山城が、小田原北条式縄張なのでこの城も小田原北条氏の手により築城または、鍬入れ(城の改修)が行われた可能性もあると思います。小田原北条氏の文書の中に、「大戸の寄居」というのが出てきますがこれこそ大戸平城と言うことも考えられる。この下には馬場、堀の内という地名も残りもう少し広い城域をもったしろであったようです。金比羅さんの方にも空堀と思われる所もあり、平城と金比羅さん、大戸手子丸城と合わせると信州街道、草津街道ともに死角なしという風に感じます。地元の有志の方の尽力で、二ノ丸まできれいに整備されていて、地元に愛されている史跡という風に感じました。ここでは、私も私見として、少し補則解説を行いました。

解説 社会教育課文化財保護係の吉田智哉さん

  加沢記に載る「仙人窟陣城」跡です。古来より信仰の場所として、聖域となっていました。またここには二基の宝塔があり、大戸真楽斎の墓と伝わっています。また、十八羅漢の石像があることもここの特徴となっています。陣城説については遺構が確認できないこと、兵を駐屯しておく平場が少ないことなど考えると疑問が残ることではありますが、伝承ではここが、真田信之が初陣の時陣を構えたと言われています。また、ここから山道沿いに本宿まで、百観音が岩を屋根代わりに置かれていたと伝わる。

 この先に、胎内窟がありそこをくぐると奥の院があります。通常、胎内窟は修験に於いて山籠もりをするときなどにここをくぐり「擬死回生(人間のあらゆる穢れを祓う)」と言う意味があります。ここの造りは、この胎内窟の先が奥の院で行き止まりになっているのが特徴です。

解説 社会教育課文化財保護係の吉田智哉さん

 本日、貴重な時間を提供して頂いたあざみの会のみなさんに感謝致します。

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