岩櫃城と支城柳沢城の水の手

 岩櫃城関連の水の手は、合計4箇所あります。まずは柳沢城(岩鼓の要害)跡の水の手は、外曲輪南側下にあります。つぎに、城下町平川戸の水の手は、北の木戸下にあります。ここは、加沢記に於いて60軒の町並みがあったと言われているので、当然この水だけでは足りません。どこかに井戸があったか、不動沢からくみ上げていたのかは今後の研究課題でしょう。岩櫃本城の北にある水の手は、この場所すぐ南側の堀の形状から最も重要な水の手であったのは確実だと思います。最後に殿屋敷(麓御殿)の水の手は、西側のやや下の方にあります。山城といえども、水がなければ籠もることが出来ないのと言うことで、ここに4箇所だけ今回は紹介します。

柳沢城の水の手

 

 上の写真が、柳沢城の水の手です。位置は柳沢城西端、外曲輪南側の下です。外曲輪は、三の曲輪で土塁と竪堀に挟まれた西側にあります。その南側が2段の平場が南側に展開していて、その下がこの水の手になります。

北の木戸下の水の手

 東の木戸を抜けて貯水池を過ぎ右に畑の畦を通っていくと、北の木戸のある虎口にたどり着く。虎口は、喰違となっている。この虎口の下に小さな平場がある。その下が水の手である。「加沢記」によると、この平川戸は60軒の町屋があったという。この事を考えると、この水の手だけでは足りないと思われる。他に水の手があったのか、更に下の不動沢から水をくみ上げたのか、井戸がどこかにあったのかははっきりしないのが現状である。これは、今後の研究課題ということになろうと思います。北の木戸がここにあったのを考えると、この水場も岩櫃城の水の手の一つであったと考えるのが、妥当だと思います。

岩櫃本城の水の手

 岩櫃本城の、水の手がここである。岩櫃の西の曲輪群(詰曲輪)下には、この水の手を守るよう作られた遺構がある。堀を掘り、まるで馬出しのようで、まるでこの水の手を守るように縄張されている。この水の手の先には志摩小屋地区があり、水の手を挟んで縄張がなされている。この志摩小屋地区が、要害部分の北端であろう。その先北側遺構は、竪堀はたくさん掘られているがあまりテクニカルな縄張とはなっていない。志摩小屋地区には、前面に空堀が配され、西から東に向かいだんだんに曲輪が配された守りに徹した遺構になっている。この志摩小屋と、馬出し風堀切に挟まれた水の手は、非常に大事な水の手であったのであろう。

殿屋敷(麓御殿)の水の手

 殿屋敷は真田幸綱から昌幸の初期の段階までの岩櫃城代である、海野長門守幸光の屋敷跡と伝わる場所である。この殿屋敷は、岩櫃城の麓御殿ではなかったのかと私は見ている。少し傾斜しているのだが、割と広い平場が2段、そしてその下に、それより狭い平場が1段存在している。上の2段が岩櫃城代の屋敷とすると、下の狭い曲輪は海野長門守の家老である渡利常陸介の舘跡ではないかと私は思っている。と言うと、当然水の手があるわけである。藪の中をかいくぐっていくと、その南西の下側にこの水の手がある。今でも水が湧き、その水は下に向かって流れ出している。この水場を根拠に、舘跡が確かにあったと確認できると思います。

最後に

 本日は、岩櫃城関連の水の手を4箇所紹介してみました。その内簡単に見られるのは、本城の水の手だけである。跡の3箇所は、藪に被われ中々見つからないかも知れない。今回は城下町や舘跡、の水場を紹介してみました。水がなければ生活できないので、山中の舘跡には必ずこういった水場があったと思います。こういう所を見るのも、城跡の他の遺構とともに確認していくのもまた、楽しいものです。

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