長尾景仲(昌賢)

 本日は、白井長尾氏の長尾景仲(昌賢)について。この長尾景仲は、群馬県吾妻郡東吾妻町の岩櫃城を築城したとの伝承がある。これは、江戸時代に残された吾妻の古文書に載っているものです。岩櫃城を築城して5千の兵を持って籠もり、鎌倉公方足利成氏8万の軍勢を「火牛の計」で持って撃退したと言うことです。まあこれはどこから伝わったか分からないのですが、史実とは違うと思いますのでこんな伝承もあったというふうに受け止めて下さい。

 さて、この長尾景仲は鎌倉長尾氏(後の足利長尾氏、長尾本家)のでで、次男であるため母方の白井長尾氏を養子となって継ぎました。関東管領山之内上杉家の家宰(筆頭家老のようなもの)と武蔵守護代に着きました。扇谷上杉氏の家宰、太田資清(道真、道灌の父)と共に関東の案者(実力者)と言われていました。上杉禅秀の乱では鎌倉公方足利持氏方として、上杉禅秀を破り持氏の鎌倉帰還を果たしている。

永享10(1438)年、持氏が関東管領上杉憲実を追討しようとして起こした永享の乱では、長尾忠政が持氏追討の兵を上野平井であげたときには、副将格として出陣した。持氏を捕らえたとき、その後に起こる結城合戦でも功を上げる。文安元(1444)年山之内上杉憲実の弟で、越後守護上杉清方の要請により山之内上杉氏の家宰に就く。

 持氏討伐の後、しばらく鎌倉公方不在の期間が続く。その空白は室町幕府、越後守護上杉房朝、関東諸将の後押しで持氏の遺児永寿王丸擁立の気運が高まり、文安4(1447)年上杉憲忠と共に鎌倉に入る。宝徳元(1449)年、永寿王丸は元服し8代将軍足利義成(後の義政)の偏諱を受け「足利成氏」と名乗り従五位下左馬頭(代々の鎌倉公方が拝命する官位)を拝命して5代鎌倉公方となる。ここに鎌倉公方成氏、関東管領上杉憲忠の体制が始まる。しかし成氏は永享の乱、結城合戦で鎌倉公方に殉じた武将達の遺児達を側近に登用するようになる。上杉氏やその家臣団は次第に反発していく。

 宝徳2(1450)年、ついに事件が起きる。長尾一族の発祥の地、相模国鎌倉郡長尾郷が足利成氏の命を受けた芦田持助によって横領されたのである。そこには、長尾一族の御霊宮(祖先祭祀の中心)もあり長尾一族にとって到底納得のいくものではなかった。成氏に激しく抗議したのであるが、返還する気は全くなかったのである。ついに同年4月20日、景仲と太田道真は500騎の兵を持って成氏に対して挙兵したのである。成氏はいち早く情報をえて江ノ島に退去。両軍は、由比ヶ浜で合戦となったが長尾、太田軍は惨敗となった。事情を知らない憲忠まで成氏救出の為、小幡氏などを出陣させた。それを知った景仲と道真は、道真の主君である扇谷の上杉持朝の糟屋舘に逃げ込んだ。憲忠はこの事件には全く関与しなかったが長尾、太田の軍であることを知ると謹慎してしまった。

 その後重氏は鎌倉に戻り、憲忠も管領職に戻った。しかし以降成氏、憲忠双方の武士の対立が多発し憲忠、持朝の両上杉氏は成氏打倒の計画を練る。だが、享徳3(1455)年12月27日、景仲鎌倉留守の隙を突き成氏が憲忠を討ってしまう。憲忠暗殺の知らせを聞いた景仲は直ちに鎌倉に戻り、管領舘に火を放ち憲忠の正室(持朝の娘)他生き残った者達を持朝の糟屋舘に避難させた。糟屋舘に戻るとすぐに景仲は、京都に居る憲忠の弟房顕を次の関東管領にする事を決めると共に成氏討伐を決定したのである。さらに景仲は、越後守護の上杉房定に援軍を求めると同時に嫡男景信を京都に派遣して事の次第を報告すると共に、京より房顕を関東に迎えたのである。

 関東30年戦争、「享徳の争乱」の勃発である。初戦は上杉方の敗北に終わるが、康正元(1456)年に入ると、重氏は鎌倉を出て山之内上杉の拠点上野を攻めるため武蔵府中の「高安寺」に入る。上杉軍は上野、武蔵の兵を率い出陣し両軍は分倍河原にて戦ったがこれは、成氏軍の勝利となる。幕府の命を受けた駿河の今川範忠によって鎌倉を占拠され、成氏は下総国古河に入り以降古河公方と呼ばれる。この戦いは幕府の参戦により成氏は、朝敵となってしまった。関東管領軍と古河公方軍は、始め古河公方方が有利に戦いを進めていたが管領方が巻き返し、いつとも果てぬ戦いとなっていった。景仲は、関東管領山之内上杉氏の家宰として戦に臨み長禄3(1459)年の上野羽継原の戦いで、成氏軍に勝利するなど活躍した。このころ、扇谷上杉氏家宰太田資清(道真)と共に「関東不双の案者」と呼ばれるまでになっていた。

 宝徳2(1450)年に叟林寺を開基して、そこには木像が安置されている。しかしついに寛正4(1463)年、鎌倉にて死去。享年76才。これは戦いに明け暮れた生涯であった。山之内上杉氏の家宰職は、嫡男景信が跡を継ぎ成氏との戦いを継続していくのである。

 ここで群馬県渋川市にある白井城について。この城が白井長尾氏の拠点と思われがちであるが、享徳の乱の頃の白井城は享徳の乱の後詰めに入っていた越後上杉氏の拠点であった。享徳の乱終結までの白井長尾氏拠点は、八崎城だったのではないかと言われている。ただし、このあたりが白井長尾氏の最大の領地の一つであったのは、間違いないでしょう。そのほか武蔵の秩父、相模鎌倉の長尾にも飛び地があったようである。景仲、景信と2代にわたり活躍したが、3代景春の代に山之内上杉顕定に叛旗を翻し敗れてからは勢力を落とし、箕輪の長野氏が台頭するのです。

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