岩櫃城は真田氏が築いたのか
専門家の定説となりつつある、岩櫃城築城説
1.岩櫃城は、永禄6年以降に真田氏が築いた。
2.岩櫃城は、鎌倉時代に吾妻氏が築いた。
以上の代表的な説が、二つある。1.は、
現存する岩櫃城の記述のある古文書が、永禄6年以前に存在しない。
武田の文書の中に、「岩下城鍬入れのこと」という記述がある。
岩下城の付近に、寺の跡がある(禅僧の墓の存在)。
岩櫃城の規模が、一地方豪族の大きさを遙かに超えている。
上杉謙信の関東遠征の着到状「関東幕注文」の中に、斉藤越前 六柏 岩下衆という記述がある。
などのことが根拠となっている。
2.は
吾妻に残る伝承、二次資料であるが江戸時代中期の吾妻の古文書の記述、「加沢記」の記述が素になっている。
真田幸隆(幸綱)が永禄6年、岩櫃城を落としたとの記述を根拠とする。
ただし、築城年月は鎌倉時代吾妻氏が築いたとあるが、鎌倉時代から室町時代の初めまでは舘に住んでいて、戦国時代にかけてだんだん山の上に城を移していたという事実をふまえると吾妻氏の築城説は、疑問附が残るところである。
結論を出せば、現状1.の説の方が真実味は高いと思われる。しかし、松代の真田宝物館に展示されている「岩櫃城絵図」を見ると柳沢城跡(岩鼓の要害)が古城と記されている。信州街道の別れが萩生地区より烏帽子、深沢、内出、弁天橋、平沢、山田へと抜けていたことを考えるとここに古くからの拠点があったと考えられる。それは柳沢城なのか、天狗の丸の所にあったのかは今になっては分からない。この検証は、岩櫃城跡が国指定史跡になったのを契機にさらに発掘調査を行い、岩櫃城の経年変遷を解き明かしてもらわなければならないと思います。この結論は、今後の研究に期待したいです。