真田右馬助綱吉

 永禄8(1541)年8月、武田信玄は家臣団に対して生島足島神社起請文を提出させている(参考:起請文にみる信玄武将)。この中に海野衆として、12名の連名の起請文に真田右馬助綱吉の名が見える。はて、この人はいかなる人物であろうか。広く知られている、真田幸隆(幸綱)の系図からはその名は出てこない。そもそも○○衆というのは、ある特定の地域の小領主がまとまって集団を作り、戦国大名に対して国衆と同じ発言権や軍役をこなす者である。海野氏関係の中では海野幸貞が単独で、幸忠、信守が2名連名で、そしてこの綱吉が12名連名の中に名を連ねている。これを見ると、幸貞が国人領主、幸忠、信守が準国人領主、真田右馬助綱吉を含む12名は、郷士連合というような位置づけになるのか。

 この、真田右馬助綱吉なる人物が真田弾正忠幸隆(幸綱)の兄、つまり近年の説で、幸綱の父と言われる真田右馬助頼昌の嫡男ではないかと言われ始めている。これは、東御市の深井家に伝わる文書などに「真田右馬亮綱吉」法名「嘉泉院眞相勧喜大禅定門」とある。この人は、東部興善寺と高野山蓮華定院で元和9(1623)年庄村金右衛門によって供養されたと記録されている。この蓮華定院は、真田一族が何度も供養と頼んだ記録がある。

 深井家の過去帳によると、「真田馬之亮綱吉」の子は

 「真田馬之亮綱重」で法名「深井院寛誉宗眞居士」とある。

 この深井綱吉は真田右馬助綱吉であり、深井郷が本貫地出あったのは間違いないようである。家紋は、六文銭である。

 以上の事例と、真田幸隆(幸綱)の武田家における信州先方衆以前の事象が分からない点など踏まえると。真田幸隆は、真田の嫡流ではなかった(もちろん海野の嫡流ではない)と捉える説が有力になる。そうするとこの深井(真田右馬助綱吉)綱吉という人物、真田頼昌から続く嫡流は綱吉につながる系統ではないかと感じさせるのである。しかし、また真田の庶流という説もある。

 ただ、真田一族の中で弾正忠幸隆(幸綱)が武田家において一番勢力があった人で、出世頭だったのはまちがいの無い事実であると思います。この事例は、今後の諸先生の研究に期待したいと思います。

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