池田佐渡守重安と甚次郎
池田佐渡守重安、甚次郎親子
永禄6(1563)年10月、吾妻斉藤氏はついに岩櫃を真田氏によって追われ越後に逃れた。しかし、中之条町嵩山に於いて斉藤氏三男、斉藤城子丸16才がかろうじて斉藤方の勢力を維持していた。永禄8(1565)年十月下旬斉藤憲宗(一岩斎憲広嫡男)が、越後より援兵と浪人をかき集めて500余騎をもって嵩山城に入城するのである。一方真田幸綱は、武田信玄からの援兵合わせて2000余騎が岩櫃城に集まる。そのとき池田重安は、真田幸綱に「斉藤城子丸の助命をかなえてくれたら、私は武田に従いましょう。」と文書をしたためている。そして、幸綱は「斉藤を信玄が許さないこと」「嵩山城は必ず落城してしまうこと」「武田に従えば本領を安堵すること」などを説明し、叛意を促したのである。ついに池田親子に離反を確約されている。離反を決意した池田父子は、真田方の岩櫃城に入るのである。嵩山城の斉藤憲宗と城虎丸は、ついに真田の謀略にあい嵩山城も落城して吾妻の力の斉藤方勢力も駆逐されてしまった。これが池田親子が、真田に従う経緯である。
天正6~7(1578~1579)年頃のものと思われる「真田氏給人知行地検地帳」というのが見つかっている。これは、旧真田町の領地の詳細で昌幸が上田城を築城する前の事象を研究するのに非常に貴重な資料である。この中の給人に、池田佐渡守と甚次郎親子の名前があるのである。以下その項目を列記する。蒔高のあるのは田で、見出とは新たに分かった増分と言うことです。ここで紹介する池田佐渡守は本領が、群馬県吾妻郡中之条町にあり真田郷に於いて領地を真田から賜っていると言うことで、重臣クラスの人物出会った可能性が高い。この中の筆頭は、大熊靱負尉である。この人は昌幸から「黒印状」の発給を許されている身分であるのでこの大熊氏に近い、または次ぐらいの身分であったのであろう。ちなみに本領は吾妻で、150貫文とも200貫文とも言われている。
順は等級、小字、蒔高、本高、見出、田役、総高、作人の順である。この中で蒔き高のあるのは田で、ないのは畑である。見出とはこの検地で見つかった、新増加分で田役とは領主から課せられた年貢のようなもので、銭で領主に収めた。本高と見出の合計が総高となる。
池田佐渡守
上 別保 12升 1貫700文 900文 120文 2貫720文 清右衛門尉
上 そり田 7升 1貫文 600文 120文 1貫720文 甚六
上 まのあてはた 1貫文 1貫文 手作
上 まのあて 17升 4貫300文 360文 4貫660文 手作
下 まのあてはた 400文 400文 新二郎
下 まのあてのはた 400文 400文 加へもん
中 そり田 8升 1貫200文 300文 120文 1貫620文 勘さえもん
中 大はたけ 1升 200文 30文 230文 勘さえもん
中 まなあて 2升 400文 40文 440文 善左衛門
中 ぶす水のはた 250文 50文 300文 善ひやうえ
中 ぶす水のはた 100文 30文 130文 善ひやうえ
上 かと町 150文 35文 185文 勘さえもん
上 やしき 1貫800文 750文 2貫550文 勘さえもん
上 塚田屋敷 700文 700文 新次良
上 つるまき田 5升 1貫200文 50文 130文 1貫370文 太良左衛門
中 つか田 7升 1貫文 500文 1貫500文 新次良
下 つか田畑 800文 180文 980文 新左衛門
下 せき合 50文 5文 55文 勘左衛門
下 せき合 70文 20文 90文 善左衛門
中 屋つくら城 400文 100文 500文 源六
ここで注目したいのは、全21筆の内手作が2筆あることである。池田佐渡守の本領は、群馬県吾妻郡であったと思う。遠く離れた、真田郷では自身では耕作できないであろう。御内のもの、使用人を派遣したものではないのか?わざわざ御内か使用人を派遣したのは、どういうわけか。現地の領地管理のためなのかも知れない。
次に、池田佐渡守の嫡男甚次郎の真田郷においての領地について述べる。
下 松山畑 150文 10文 160文 助右衛門
中 松山田 4升 700文 100文 800文 忠兵衛
下 松山畑 100文 20文 120文 香才
中 松山田 2升 400文 30文 430文 源右衛門
下 松山田 1升5合 150文 100文 250文 弥兵衛
下 大沢之畑 120文 30文 150文 新次良
上 たかむろ 3升 600文 120文 720文 源左衛門
下 おもて木畑 210文 70文 280文 総右衛門
下 おもて木畑 300文 120文 420文 惣左衛門
中 別府 6升 1貫文 400文 1貫400文 善左衛門
下 下塚 110文 140文 250文 藤兵衛
下 下塚 70文 30文 100文 与左衛門
下 下塚 110文 40文 150文 新次良
下 いぬこ原 200文 160文 360文 源右衛門
下 てんはく 20文 20文 40文 与七良
下 ふしさわ 3升 300文 260文 560文 市之丞
以上が、池田甚次郎の真田郷での領地16筆である。甚次郎領地の特徴は、「田役(たやく)」が無いことと「手作」が無いことである。これは、父である池田佐渡守が吾妻から人を派遣して甚次郎の領地も管理していたのかもしれずまた、田役も佐渡守が負担していたのかも知れません。この「給人検地帳」で、大熊靱負尉の次に池田佐渡守の所領が多いのがわかる。大熊靱負尉は、真田家においても重臣であった。吾妻出身の池田佐渡守が、親子揃って真田郷で昌幸から領地を賜り、大熊靱負尉の次ぐらいの領地高をもらっているのは興味深い事象である。この検地帳は、上田城築城前のものであるという。そうすると、真田家の主戦場は群馬県吾妻郡と利根郡になる。不安定な吾妻での領地200貫文の他、比較的平和な真田に領地を与えることで、不安を取り除き離反を防ぐ意味も含まれていたのではないでしょうか。