信濃の国人領主真田氏其の系譜 その1

真田氏の系譜

真田氏の出自の見解は、「寛永諸家系図伝」がある。これは、松代真田藩の正式見解である。清和天皇の子、貞秀親王が滋野初代としている。貞秀親王の子、幸恒が初めて海野小太郎を称した事で海野の系譜が始まるとしている。幸経の弟、次男直家が禰津、三男重俊が望月を称した事で、滋野三家が始まる。

真田家については、幸隆(正しくは幸綱)が海野棟綱の孫、幸義の子としている。幸隆が真田荘に居住した事により海野から真田に改正したとする。しかしこの主張は、新井白石によって否定されている。まず、貞秀親王は存在しない事に疑問を持ち、白石が独自の論じている。延暦年間(782年~806年)、滋野東人の子尾張守家訳が滋野宿禰姓を賜り、弘仁14(823)年に家訳、貞主父子が滋野朝臣姓を賜ったと指摘したのである。貞主には二人の女子がおり、一人は本康親王を産み、もう一人は文徳天皇に嫁ぎ惟彦親王を産む。この惟彦親王は、清和天皇の兄に当たる。この両親王外戚としての繁栄を評価して、貞主を海野氏の祖と結論づけている。

また、前述の指摘を踏まえ真田家は「寛政重修諸家譜」の時清和天皇の第五皇子、貞保親王の孫善淵王が滋野姓を賜りこの人を祖としたのです。

しかし、最近の研究では貞観10(868)年から10年間信濃介なっていた滋野朝臣恒蔭、同12(870)年から4年間信濃守であった滋野朝臣善根に注目して、信濃滋野氏についての関係性を指摘している。そして、滋野惣領家は海野氏ではなく望月牧を管理していた望月氏ではなかったかと指摘している。(栗岩英治氏説)

「大日本史氏族誌」に於いて、伊蘇志臣東人の孫家訳とその子貞主が、桓武天皇の時滋野宿禰姓を賜り、嵯峨天皇の時滋野朝臣姓を賜っていて、海野氏はこの滋野朝臣貞主に始まるとしている。そして、滋野氏の中で信濃の官人となった人物として、滋野朝臣恒蔭、滋野朝臣善根、さらに天歴4(950)年頃、望月の牧官に任じられた滋野幸俊の存在も指摘している。(藤沢直枝氏説)

以後時系列にて、諸研究の論説を紹介したいと思います。

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