鳥羽伏見の戦い

徳川慶喜の弱気

 慶応三(1867)年、岩倉具視の画策で「討幕の密勅」を手に入れたとされています。しかし、これは薩長と岩倉具視の陰謀で、それを知っていた徳川慶喜は「大政奉還」で、国政を朝廷に返した。慶喜は、これにより勢力を保ったまま諸藩連合(議会のようなものを想定)の中で要職を確保しようと思っていた。それに反して薩長は、なんとしても武力により幕府を倒し薩長中心の政権にしようと画策していたのである。「大政奉還」により、薩長中心の政権を打ち立てるという大義名分は失われた。そこで西郷隆盛は浪人を募り、浪士隊を編成して江戸にて乱暴狼藉を始めました。「勤王活動費を稼ぐ」と称して強盗や略奪を繰り返したのです。これは、戦国時代薩摩の島津が九州全土を手に入れるため、攻め込むとき乱暴狼藉や人取りなどを行い、それはひどいことをしていたのと似ています(ルイス・フロイスの日本史参照)。補吏に追われると、薩摩藩邸に逃げ込むことを繰り返していました。そしてついに、庄内藩の警備屯所に銃弾を撃ち込むという事件が発生したのです。その仕返しに庄内藩は、慶応三(1867)年12月薩摩藩邸を焼き討ちにしました。これをきっかけに、怒った幕府軍が決起して鳥羽伏見の戦いが始まるのです。しかし、慶喜は大阪城から出陣しませんでした。幕府軍は、大将の居ない軍勢と言うことになってしまいました。

幕軍と新政府軍の衝突

 慶応三(1867)年1月3日、鳥羽街道を進む幕府軍を薩摩の先方が奇襲で銃撃して幕軍は総崩れとなり、大阪に潰走していきました。幕軍は総勢一万五千人、対する薩摩軍は三千人だったと言われています(薩長合わせると五千人ほど)。幕府軍はの陣容は、先方に京都見回り組、次に歩兵、最後に砲兵と並んでいました。兵力差を考えると負けるわけが無い幕府軍ですが、古式に則った行軍で非武装(銃には玉を込めず、鎧は着ていません)、斥候も放っていなかったのでしょう。そして薩摩軍は、男山八幡宮の後ろに隠れて武装して待機していました。幕府軍は武装しないまま、いきなり薩摩軍に発砲されて潰走してしまったのです。もし私が幕府軍の大将でしたら、ゆっくり行軍しながら斥候を何人も放ち、敵を把握して男山八幡宮手前で武装を済ませてから、小高い八幡宮周辺に陣を張ったことでしょう。とにかく幕府軍は潰走したのでした。

大阪城へ

 いくら錦の御旗が薩長にあるとしても、両軍の戦死者は数百名程度です。まだほとんどの兵力は残っていたので、大阪城に籠もればまだ戦いは続けられたはずでした。しかし、慶喜は1月6日夜半、江戸に向かって一人逃亡してしまいます。慶喜は水戸出身で、水戸藩は光圀の頃から天皇崇拝の強い藩です。また、「水戸から将軍が出れば徳川家は潰れる」とも言われていました。まさに、その通りになってしまったわけです。この鳥羽伏見の戦いでの敗戦がきっかけで敗走を重ねながら最後には「江戸城無血開城」を経て、江戸幕府は無くなってしまうのです。

管理者の意見

 その時代、アジアでは西側諸国により植民地化が進んでいました。大国中国の清朝ですら、植民地としてだんだん領地を侵食されていた時代です。慶応四年は、明治元年です。この一年の間で、明治新政府に転換できたことが日本の植民地化を防いだのかも知れません。つまり、徳川慶喜の弱気が日本を救ったとも言えると思います。この内戦が長引いていたら九州はイギリス、北海道はロシアの植民地なんて事になっていたかも知れません。こんな事を考えると、徳川慶喜が最後の将軍だったことも素晴らしいことだったのかも知れません。徳川慶喜は、水戸藩主水戸斉昭の七男として生まれる。初めは、松平昭致と名乗った。一橋家に養子に入り、将軍家慶の偏諱をうけ徳川慶喜となる。一橋徳川家代9代当主。将軍後見職、禁裏後守衛総督など要職を務め、徳川宗家を相続後第15代将軍に就任。大政奉還や江戸城無血開城など行い、明治維新後従一位勲一等公爵、貴族院議員となる。この経歴を見ると、徳川慶喜はナンバーツーで力を発揮できる人だったのかも知れません。大政奉還がうまくいき、議会制が整ったとき天皇制の元、素晴らしい政治家となっていたかも知れません。

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