真田信幸充行状(天正十八年十二月十九日)大宮岩鼓神社

真田信幸充行状

 この文書は真田信幸が小田原の役の後、沼田藩主となり発行した充行状である。新たに父昌幸から独立して沼田藩主となった信幸が、本来五貫文であった社領を、七貫八百文に見直したものである。新たに自分の領地となった土地は、よく再検地されることがしばしばある。この文書は、真田信幸が朱印を押し北能登守が奉書したものです。宛先は成澤之別當とあります。現高山宮司の先祖であるか、違うのか現在私は確認していません。大体神社関係は別當、寺関係を判官となっています。

 大宮岩鼓神社は、当地区でも古い神社で祭神は稻鼓大明神ではないかと言われている。元慶年中初頭、干ばつが起き全国的に飢饉にみまわれ各地で国倉が開かれて、賑給が行われた。元慶2(878)年3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲した。秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡した。朝廷は下野国と上野国で徴兵して鎮圧に向かわせる。このとき、高崎あたりで軍をまとめ出羽に向けて進軍する。この時抜けた峠が、奥四万の三坂峠だったと言われている。大宮岩鼓神社に有る「蕨手刀」はこの時、奉納されたものでは無いかと思います。今回はこんな古い歴史のある、大宮岩鼓神社文書を紹介しました。

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