役小角と山岳信仰

役行者

 役小角の本姓は、賀茂役氏である。この氏族は賀茂神社の神官として、代々勤めてきた一族である。元々は、大和国葛城山を霊山として信仰してきた古代氏族であったのかも知れない。その一族は役民を束ね、勢力をその地に張った大和政権成立以前からそこを拠点としていた勢力かも知れません。

 小角の記録は、「続日本紀」の中に、「文武天皇三(699)年五月二十四日に、人々を惑わしているとして韓国広足(からくに の ひろたり)によって讒言され、伊豆島に流罪となる。」と記されている。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせたと噂した。命令に従わないと呪術を使い鬼神を縛ったという。

 出生は欽明六(634)年、大和国葛城上郡で、父は出雲から婿入りした大角、母は白専女。生誕の地と伝わる場所は、吉祥草寺が建立されている。十七歳で、元興寺で朱雀明王の呪法を学び、葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね湧出ヶ岳で金剛蔵王大権現を監督し、修験道の基礎を築いたとされる。二十代で藤原鎌足の病気を治癒したという伝説がある。呪術に勝れ、神仏調和と唱えたという。高弟には後に国家の医療や呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任じられた韓国広足がいる。大宝元年(701)年一月、大赦が有り、茅原にかえったが同年六月七日に箕面の天上ヶ岳にて入叔したという。享年68、山頂には廟が建てられた。

 中世特に室町期に入ると金峰山、熊野山などの諸山で、役行者の伝承や縁起など教義書が成立する。「両峰問答秘鈔」、「修験指南鈔」などが成立して、修験道というものが成立した。「役行者本記」というものまで現れ、役小角は「修験道」の開祖とされるようになる。書物と合わせて、数々の絵巻や役行者を掘った木像なども作られて、「修験道の開祖」として祀られることになる。降って寛政十一(1799)年、聖護院宮盈仁(えんにん)親王が光格天皇へ役行者御遠慰(没後)千百年を迎えることを上表した。同年二十五日、光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に使わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡(おくりな)を贈った。勅書は全文、光格天皇の直筆で、聖護院に寺宝として残されている。

 役小角(役行者)は、葛城山を祭神とする古代山岳信仰を伝える賀茂氏の一族で、大和王権成立期、現在の賀茂神社の神官としてその勢力を持っていたようである。小角はその賀茂一族、賀茂役氏の者であるようです。この一族は、大和国や河内国に多く分布していたと言われている。つまり、古代の「シャーマン」的な人達で大和王権成立時にそこに吸収され飛鳥時代、奈良時代、平安時代にかけて仏教と融合して「修験道」としての体裁を整えていったのでしょう。そして、室町時代に「修験道」として一応の完成を見る。この頃、修験道の開祖として祭り上げられたものと思われる。その頃書き表された「役君形生記」の完成を持って、「修験道の開祖」として成立したのでしょう。それは、「鬼神を従えていた」とか「空を自由自在に飛んでいった」との伝説も語られるようになる。同じ頃記された「修験指南鈔」「修験修要秘訣修」などにより宗教として成立したのではないでしょうか。室町中期(戦国時代)になると、修行を積んだ山伏を抱える修験寺は戦国大名、国人領主などから重宝がられ、領地を寄進する代わりに情報収集、または兵役を課せられることも多くなったのではないか。

 江戸時代になり、世の中が平和になるにつれて山岳信仰と密教の融合した宗教としての完成域に入る。地方の修験は、「薬法」による薬草の栽培等を行う医療行為や寺子屋(学校)としての機能を持っていた。単なる宗教とは違った形での発展の仕方をしていったと思われる。例えれば、富山の薬売の発祥は「立山修験」だとも言われる。我が吾妻地方では、修験僧のことを「ほうえんさん(法印さんのこと)」と親しみを込めて呼んでいた。修験寺の数は五十を数えその寺院がそれぞれ、「修験薬法」で薬草の栽培等行い医療行為を行い。「寺子屋」などして読み書きを教えていたという。そのためか、吾妻は「識字率」が他地方と比べ高かったとも言われている。そしてこの「修験道の歴史」は、明治二年の「神仏分離令」「廃仏棄却」によってその教義は廃れていって現在に至るのです。江戸時代の古文書で、その事象は僅かに確認できる程度となってしまいました。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


歴史資料

前の記事

曾我物語序文
歴史資料

次の記事

曾我物語2