曾我物語2
〔伊東(いとう)の二郎(じらう)と祐経(すけつね)が争論(さうろん)の事(こと)〕
かくて、二十五まで、給仕(きうじ)怠(おこた)らざりき。此処(ここ)に、思(おも)はずに、田舎(ゐなか)の母(はは)、一期(いちご)つきて、形見(かたみ)に、父(ちち)が預(あづ)け置(お)きし譲状(ゆづりじやう)を取(と)り添(そ)へて、祐経(すけつね)がもとへぞ上(のぼ)せたりける。祐経(すけつね)、是(これ)を披見(ひけん)して、「こは如何(いか)に、伊豆(いづ)の伊藤(いとう)と言(い)ふ所(ところ)をば、祖父(おほぢ)入道(にふだう)寂心(じやくしん)より、父(ちち)伊東(いとう)武者(むしや)祐継(すけつぎ)まで、三代(だい)相伝(さうでん)の所領(しよりやう)なるを、何(なに)に依(よ)つて、叔父(をぢ)河津(かはづ)の二郎(じらう)、相続(さうぞく)して、此(こ)の八か年(ねん)が間(あひだ)、知行(ちぎやう)しける。いざや冠者(くわんじや)原(ばら)、四季(しき)の衣(ころも)がへさせん」とて、暇(いとま)を申(まう)しけれども、御気色(ごきしよく)最中(さいちゆう)なりければ、左右(さう)無(な)く暇(いとま)を賜(たま)はらざりけり。然(さ)らばとて、代官(だいくわん)を下(くだ)して、催促(さいそく)を致(いた)す。伊東(いとう)、是(これ)を聞(き)き、「祐親(すけちか)より外(ほか)に、またく他(た)の地頭(ぢとう)無(な)し」とて、冠者(くわんじや)原(ばら)を放逸(はういつ)に追放(ついはう)す。京(きやう)より下(くだ)る者(もの)は、田舎(ゐなか)の子細(しさい)をば知(し)らで、急(いそ)ぎ逃(に)げ上(のぼ)り、一臈(いちらふ)に此(こ)の由(よし)を訴(うつた)ふ。「其(そ)の儀(ぎ)ならば、祐経(すけつね)下(くだ)らん」とて、出(い)で立(た)ちけるが、案者(あんじや)第一(だいいち)の者(もの)にて、心(こころ)をかへて思(おも)ひけるは、人の僻事(ひがこと)すると言(い)ふを聞(き)きながら、我(われ)又(また)下(くだ)りて、劣(おと)らじ、負(ま)けじとせん程(ほど)に、勝(まさ)る狼藉(らうぜき)引(ひ)き出(い)だし、両方(りやうばう)得替(とくたい)の身(み)となりぬべし、其(そ)の上、道理(だうり)を持(も)ちながら、親方(おやかた)に向(む)かひ、意趣(いしゆ)を込(こ)めん事(こと)、詮(せん)無(な)し、祐経(すけつね)程(ほど)の者(もの)が、理運(りうん)の沙汰(さた)にまくべきにあらず、田舎(ゐなか)より彼(か)の仁(じん)を召(め)し上(のぼ)せて、上裁(じやうさい)をこそ仰(あふ)がめと思(おも)ひ、あたる所(ところ)の道理(だうり)、差(さ)し詰(つ)め差(さ)し詰(つ)め、院宣(ゐんぜん)を申(まう)し下(くだ)し、小松(こまつ)殿(どの)の御状(じやう)を添(そ)へ、検非違使(けんびいし)を以(もつ)て、伊東(いとう)を京都(きやうと)に召(め)し上(のぼ)せ、事(こと)のちきやうなる時(とき)こそ、田舎(ゐなか)にて、横紙(よこがみ)をも破(やぶ)り、ちやうちやく共(ども)言(い)ひけれ、院宣(ゐんぜん)を成(な)し、重(かさ)ねてからく召(め)されければ、一門(いちもん)馳(は)せ集(あつ)まり、案者(あんじや)・口(くち)聞(き)き寄(よ)り合(あ)ひ、伴(ともな)ひ談(だん)すると雖(いへど)も道理(だうり)は一(ひと)つも無(な)かりけり。祐継(すけつぎ)存生(ぞんじやう)の時(とき)より、執心(しうしん)深(ふか)くして、如何(いか)にも此(こ)の所(ところ)を、祐親(すけちか)が拝領(はいりやう)にせんと、多年(たねん)心(こころ)に懸(か)け、既(すで)に十余年(よねん)知行(ちぎやう)の所(ところ)なり。一期(いちご)の大事(だいじ)と、金銀(きんぎん)を調(ととの)へ、秘(ひそ)かに奉行所(ぶぎやうしよ)へぞ上(のぼ)せける。誠(まこと)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「青蝿(せいよう)も、すひしやうを汚(けが)さず、邪論(じやろん)も、くの聖(ひじり)を惑(まど)はず」とは申(まう)せども、奉行(ぶぎやう)のめづるも、理(ことわり)也(なり)。漢書(かんじよ)を見(み)るに、「水(みづ)いたつて清(きよ)ければ、底(そこ)に魚(うを)住(す)まず。人いたつてせんなれば、内(うち)に徒(と)も無(な)し」と見(み)えたり。然(さ)ればにや、奉行(ぶぎやう)、誠(まこと)に宝(たから)重(おも)くして、祐経(すけつね)が申状(まうしじやう)、立(た)たざる事(こと)こそ、無念(むねん)なれ。月は明(あき)らかならんとすれども、浮雲(ふうん)是(これ)をおほひ、水(みづ)はすまんとすれども、泥沙(でいしや)是(これ)を汚(けが)す。君(きみ)賢(けん)なりと雖(いへど)も、臣(しん)是(これ)を汚(けが)す理(ことわり)に依(よ)つて、本券(ほんけん)、箱(はこ)の底(そこ)にくちて、空(むな)しく年月(としつき)を送(おく)る間(あひだ)、祐経(すけつね)、鬱憤(うつぷん)に住(ぢゆう)して、重(かさ)ねて申状(まうしじやう)を奉行所(ぶぎやうしよ)に捧(ささ)ぐ。其(そ)の状(じやう)に曰(いは)く、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)伊東(いとう)工藤(くどう)一郎平(たひら)の祐経(すけつね)、重(かさ)ねて言上(ごんじやう)、 早(はや)く、御裁許(さいきよ)を蒙(かうぶ)らんと欲(ほつ)する子細(しさい)の事。右(みぎ)件(くだん)の条(でう)、祖父(おほぢ)■美(くすみ)の入道(にふだう)寂心(じやくしん)他界(たかい)の後(のち)、親父(しんぷ)伊東(いとう)武者(むしや)祐継(すけつぎ)、舎弟(しやてい)祐親(すけちか)、兄弟(きやうだい)の中、不和(ふわ)なるに依(よ)つて、対決(たいけつ)度々(どど)に及(およ)ぶと雖(いへど)も、祐継(すけつぎ)、当腹(たうぶく)寵愛(ちようあい)たるに依(よ)つて、安堵(あんど)の御(おん)下(くだ)し文(ぶみ)を賜(たま)はつて、既(すで)に数(す)ケ年をへ畢(をは)んぬ。此処(ここ)に、祐継(すけつぎ)、一期(いちご)限(かぎ)りの病(やまひ)の床(ゆか)にのぞむきざみ、河津(かはづ)の二郎(じらう)、日頃(ひごろ)の意趣(いしゆ)を忘(わす)れ、忽(たちま)ちに訪(とぶら)ひ来(き)たる。其(そ)の時(とき)、祐経(すけつね)は、生年(しやうねん)九歳(きうさい)也(なり)き。叔父(をぢ)河津(かはづ)の二郎(じらう)に、地券(ぢけん)文書(もんじよ)、母(はは)共(とも)に預(あづ)け置(お)きて、八か年(ねん)の春(はる)秋を送(おく)る。親方(おやかた)にあらずは、しこうのしんと申(まう)すべきや。所詮(しよせん)、世(よ)のけいに任(まか)せ、伊東(いとう)の二郎(じらう)に賜(たま)はるべきか、又(また)祐経(すけつね)に賜(たま)はるべきか、相伝(さうでん)の道理(だうり)について、憲法(けんばう)の上裁(じやうさい)を仰(あふ)がんと欲(ほつ)す。よつて、誠惶(せいくわう)誠恐(せいきよう)、言上(ごんじやう)件(くだん)の如(ごと)く。仁安二年三月日平(たひら)の祐経(すけつね)と書(か)きてさうさう。ししよに、此(こ)の状(じやう)を披見(ひけん)有(あ)りて、差(さ)しあたる道理(だうり)にわづらひけるよと、人々(ひとびと)寄(よ)り合(あ)ひ、内談(ないだん)す。誠(まこと)に、祐経(すけつね)が申状(まうしじやう)、一(ひと)つとして僻事(ひがこと)無(な)し。是(これ)は裁許(さいきよ)せずは、憲法(けんばう)にそねまれなん。又(また)、伊東(いとう)宝(たから)を上(のぼ)せて、万事(ばんじ)奉行(ぶぎやう)を頼(たの)むと言(い)ふ。然(しか)れども、祐経(すけつね)は、左右(さう)無(な)く理運(りうん)たる間(あひだ)、奉行所(ぶぎやうしよ)のはからひとして、よの安堵(あんど)の状(じやう)二書(か)きて、大宮(おほみや)の令旨(りやうじ)を添(そ)へ、りやうへ下(くだ)さる。伊東(いとう)は、半分(はんぶん)也(なり)とも賜(たま)はる所(ところ)、奉行(ぶぎやう)の御恩(ごおん)と喜(よろこ)びて、本国(ほんごく)へぞ下(くだ)りける。書(しよ)は言葉(ことば)をつくさず、言葉(ことば)は心(こころ)をつくさずと雖(いへど)も、一郎は、言葉(ことば)を失(うしな)ひ、十五より、本所(ほんじよ)に参(まゐ)り、日夜(にちや)朝暮(てうぼ)、給仕(きうじ)を致(いた)し、今年(ことし)八年か九年(ねん)かと覚(おぼ)ゆるに、重(かさ)ねて御恩(ごおん)こそ蒙(かうぶ)らざらめ、先祖(せんぞ)所領(しよりやう)を半分(はんぶん)召(め)さるる事(こと)そも何事(なにごと)ぞ、「源(みなもと)濁(にご)れる時(とき)は、清(きよ)からんをのぞみ、形(かたち)ゆがめる時(とき)は、影(かげ)のどかならんを思(おも)ふ」と、かたに見(み)えたり、父(ちち)祐継(すけつぎ)が世(よ)には、斯様(かやう)によも分(わ)けじ、今(いま)なんぞ半分(はんぶん)の主(ぬし)たるべきや、是(これ)偏(ひとへ)に親方(おやかた)ながら、伊東(いとう)が致(いた)す所(ところ)なり、我(わ)が身(み)こそ、京都(きやうと)にすむとも、せんこは皆(みな)、弓矢(ゆみや)取(と)りの遺恨(いこん)なり、如何(いか)でか、此(こ)の事(こと)恨(うら)みざるべきとて、秘(ひそ)かに都(みやこ)を出(い)でて、駿河(するが)の国(くに)高橋(たかはし)と言(い)ふ所(ところ)に下(くだ)り、きつかひ・船越(ふなこし)・おきの・蒲原(かんばら)・入江(いりえ)の人々(ひとびと)、外戚(げしやく)につきて、親(した)しかりければ、二百四人寄(よ)り合(あ)ひて、祐親(すけちか)打(う)ちて、領所(りやうしよ)を一人して進退(しんだい)せんと思(おも)ふ心、付(つ)きにけり。此(こ)の儀(ぎ)、神慮(しんりよ)も量(はか)り難(がた)し。例(たと)へば、差(さ)しあたる道理(だうり)は、顕然(けんぜん)たりと雖(いへど)も、昔(むかし)の恩(おん)を忘(わす)れ、忽(たちま)ちに悪行(あくぎやう)をたくむ事(こと)、いとう昔(むかし)をも思(おも)ひ、てんしゆか古(いにしへ)も尋(たづ)ぬべき。第一(だいいち)に叔父(をぢ)なり、第二(だいに)に養父(やうぶ)也(なり)、第三に舅(しうと)なり、第四に烏帽子親(えぼしおや)なり、第五(だいご)に一族(いちぞく)中(ちゆう)の老者(らうしや)なり、方々(かたがた)以(もつ)て、愚(おろ)かならず。斯様(かやう)に思(おも)ひ立(た)つぞ、恐(おそ)ろしき。如何(いか)にも思慮(しりよ)有(あ)る人に候(さうら)ふや。剰(あまつさ)へ地領(りやう)を奪(うば)はん事(こと)、不可思議(ふかしぎ)なり。祐親(すけちか)、是(これ)を返(かへ)り聞(き)きて、嫡子(ちやくし)河津(かはづ)三郎(さぶらう)祐重(すけしげ)、次男(じなん)伊藤(いとう)九郎祐清(すけきよ)、其(そ)の外(ほか)一門(いちもん)老少(らうせう)呼(よ)び集(あつ)め、用心(ようじん)厳(きび)しくしければ、力(ちから)に及(およ)ばす。是(これ)や、富貴(ふき)にして、善(ぜん)を成(な)し安(やす)く、貧賎(ひんせん)にして、工(こう)を成(な)し難(がた)しと、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られたり。其(そ)の後(のち)、伊東(いとう)の二郎(じらう)、此(こ)の事(こと)有(あ)りの儘(まま)に京都(きやうと)へ訴(うつた)へ申(まう)して、長(なが)く祐経(すけつね)を本所(ほんじよ)へ入(い)れ立(た)てずして、年貢(ねんぐ)所当(しよたう)におきては、芥子(けし)程(ほど)も残(のこ)らず、横領(わうりやう)する間(あひだ)、祐経(すけつね)、身(み)の置(お)き所(どころ)無(な)くして、又(また)、京都(きやうと)に帰(かへ)り上(のぼ)り、秘(ひそ)かに住(ぢゆう)す。伊東(いとう)に、祐経(すけつね)は悩(なや)まされ、本意(ほんい)を忘(わす)れ、祐経(すけつね)が妻女(さいぢよ)取(と)り返(かへ)し、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)土肥(とひ)の二郎(じらう)実平(さねひら)が嫡子(ちやくし)弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)に合(あ)はせけり。国(くに)には又(また)、並(なら)ぶ者(もの)無(な)くぞ見(み)えたり。然(さ)れども、「功賞(こうしやう)無(な)き不義(ふぎ)の富(とみ)は、禍(わざわひ)の媒(なかだち)」と、左伝(さでん)に見(み)えたり。然(さ)れば、行(ゆ)く末(すゑ)如何(いかが)とぞ覚(おぼ)えし。工藤(くどう)一郎は、なまじひの事(こと)を言(い)ひ出(い)だして、叔父(をぢ)に中(なか)を違(たが)はれ、夫妻(ふさい)の別(わか)れ、所帯(しよたい)は奪(うば)はれ、身(み)を置(お)き兼(か)ねて、胆(きも)をやきける間(あひだ)、給仕(きうじ)も疎略(そらく)になりにけり。然(さ)ればにや、御気色(ごきしよく)も悪(あ)しく、傍輩(はうばい)も、側目(そばめ)に懸(か)けければ、積鬱(せきうつ)たゑすかと思(おも)ひ焦(こ)がれて、秘(ひそ)かに本国(ほんごく)に下(くだ)り、大見庄(おほみのしやう)に住(ぢゆう)して、年頃(としごろ)の郎等(らうどう)に、大見(おほみ)の小藤太(ことうだ)、八幡(やはた)の三郎(さぶらう)を招(まね)き寄(よ)せて、泣(な)く泣(な)くささやきけるは、「各々(おのおの)、つぶさに聞(き)け。相伝(さうでん)の所領(しよりやう)を横領(わうりやう)せらるるだにも、安からざるに、結句(けつく)、女房(にようばう)まで取(と)り返(かへ)されて、土肥(とひ)の弥太郎(やたらう)に合(あ)はせらるる条(でう)、口惜(くちを)しきとも、余(あま)り有(あ)り。今(いま)は命(いのち)を捨(す)てて、矢(や)一(ひと)つ射(い)ばやと思(おも)ふなり。現(あらは)れては、せん事(こと)適(かな)ふまじ。我(われ)又(また)、便宜(びんぎ)を窺(うかが)はば、人に見(み)知(し)られて、本意(ほんい)を遂(と)げ難(がた)し。然(さ)ればとて、止(とど)まるべきにもあらず。如何(いかが)せん、各々(おのおの)さりげなくして、狩(かり)すなどりの所(ところ)にても、便(びん)を窺(うかが)ひ、矢(や)一(ひと)つ射(い)んにや、もし宿意(しゆくい)を遂(と)げんにおきては、重恩(ぢゆうおん)、生々(しやうじやう)世々(せせ)にも、報(ほう)じて余(あま)り有(あ)り。如何(いかが)せん」とぞくどきけり。二人の郎等(らうどう)聞(き)き、一同(いちどう)に申(まう)しけるは、「是(これ)までも、仰(おほ)せらるべからず。弓矢(ゆみや)を取(と)り、世(よ)を渡(わた)ると申(まう)せども、万死(ばんし)一生(いつしやう)は、一期(いちご)一度(いちど)とこそ承(うけたまは)れ。然(さ)れば、古(ふる)き言葉(ことば)にも、「功(こう)は成(な)し難(がた)くして、しかも破(やぶ)れ安(やす)き、時(とき)はあひ難(がた)くして、しかも失(うしな)ひ安し」。此(こ)の仰(おほ)せこそ、面目(めんぼく)にて候(さうら)へ。是非(ぜひ)命(いのち)におきては、君(きみ)に参(まゐ)らする」とて、各々(おのおの)座敷(ざしき)を立(た)ちければ、頼(たの)もしくぞ思(おも)ひける。伊東(いとう)は、いささか此(こ)の儀(ぎ)を知(し)らざるこそ、悲(かな)しけれ。
<解説>
この下りは、伊東家の家督のいざこざです。まず、祐親の父佑家が父家継から家督を継承します。その子が、伊東祐親となります。ここで、佑家が父である家継より先のなくなってしまいます。そのとき存命であった家継は、伊東家の家督を年少の祐親ではなく父の弟佑継に与えます。以来祐親は、無念に思っていたようです。佑継の子が、工藤祐経です。平家の命で伊東(工藤)祐経は「京都大番役」に就き領地を留守にして、京に長く在任します。その空きに伊東祐親は、祐経の領地をすべて奪いさらに妻である祐親の娘との間も引き裂いてしまします。それに怒った祐経が刺客を放ち、伊東にいる祐親、河津佑泰父子を襲わせます。祐親は難を逃れますが、子である河津祐泰はこの時殺されてしまいます。そして頼朝が富士の巻狩をした時敵討ちをしたのが、曾我兄弟で佑泰の子になるという具合です。中々、複雑な案配です。このようなことは、まれに起こっています。室町時代の関東でも、「長尾景春の乱」というのが起こっています。山之内上杉氏の家宰(家老)が長尾景仲、景信と二代続きます。景春は景信の子で、父と共に享徳の争乱であちこちに転戦していて、当然手柄も立てていたことでしょう。景春自身は、父の跡は自分が継ぐものだと思っていたでしょう。しかし、実際は景春の叔父の忠景が継ぎました。山之内上杉家の家宰は、世襲ではなく代々長尾家の長老が務めていたのですがたまたま景仲、景信と二代続き景春としては当然、父の次は自分が継ぐものと思っていたのでしょう。当時の関東管領は山之内上杉顕定で、景春は顕定に対して反乱を起こします。このようなことは東海の勇、今川家でも起こっています。このような事例も、歴史の中には幾つか見られるものです。