出浦対馬守原の新町に屋敷地を給わるの事

 東吾妻町では、原町生誕400年をすでに行っている。しかし、その検証は一般的にされて居らずその根拠となるものを示していきたい。まず始めの文書は、出浦対馬守と大熊勘右衛門に信之から、沼田吾妻職方命じられた文書から。

信之朱印状

 沼田吾妻職方の儀、自今以後両人に申し付け候の条、何事も権門に恐れず、下を賎めず、憲法の沙汰に申し付くべく候。少しも非文の儀候はば、かたかた曲事たるべきものなり。仍って件の如し。

 慶長十九年に出浦対馬守、大熊勘右衛門両名に信之から吾妻、沼田の職方を命じた朱印状である。御朱印が押されていることから朱印状と呼ばれる物で、領主より家臣に下し置かれる文書である。この文書は職方を命じたもので、領主に変わり黒印状という文書を発行できる権利をようする。つまり、江戸時代で言う家老に任命すると言うことだと思います。NHK大河ドラマ「真田丸」では、忍者を束ねていた者あるいは軍師的な表現になっていたが、どちらかというと重臣と言った捉え方が正しいと思います。出浦対馬守は、当地で伝わる諱は幸久で真田丸で言う所の昌相ではない。この町では、盛清=幸久=昌相となっているが近年の研究では、出浦清種ー盛清ー幸久ー幸吉と続くのが信憑性が高い気が致します。半平幸吉は松代藩で一千石を信之より賜っていたと言われる。筆頭家老ではないが、家老級の禄をもらっているので武だけの人ではなかったのでしょう。幸吉の後は二家に分かれ兄六百石と弟四百石となる。ちなみに、沼田真田藩の独立は、五代藩主真田伊賀守信利(信直)の時です。それまでは、上田真田藩の支藩という立場でした。真田家が上田から松代に転封になる時に、沼田真田藩は独立した藩になります。

信之朱印状

 原町新屋敷に於いて移し罷、仁貫五百文の所出し置き候也、仍って件の如し。

 元和元年とあることから、岩櫃城が廃城になり町屋を原の新町に移すにあたり、信之から原の新町に屋敷地を賜った文書になります。岩櫃城廃城は慶長十八年説、慶長十九年説と元和二年説とあります。私の見解では、慶長十九年より破城をはじめ、元和二年に原の新町が完成して完全に移転したと思います。現在この出浦対馬守屋敷跡と思われるのは、原町南町、現カインズホームの西裏手、槻木の南側にあります。そこの地主の方が、明治初めに出浦(いでうら)氏から土地を購入したという証拠になる、登記簿のコピーを見せてもらったことがあります。この事をみると、出浦氏の本家は松代に移ってしまったが、出浦氏の妻妾の墓が顕徳寺に有り、その子は原町に残っていた可能性があります。その辺の詳細は、今後の調査に期待したいと思います。現日赤付近が御殿という地名だが、ここを出浦氏の屋敷があったというのは誤りである。字「御殿」は、信之の陣屋と奉行所が置かれた場所である。広さは、百間四方あったと言われている。また、出浦氏の建立した寺院は「専念寺(浄土宗)」と言ったという。現顕徳寺(真言宗)は江戸時代になって、原町の町役が廃れた専念寺を再興したものです。この顕徳寺には、出浦氏の過去帳が残されているという。

槻木

 この槻木の写真でいくと、この左側から吾妻川側が南町で出浦対馬守屋敷跡となります。現在は民家が建っていますので、詳細は控えさせていただきます。結論としては、慶長十九年から岩櫃城の破城と原の新町の建設、元和二年に完了と言うことでよろしいかと思います。こういう田舎の歴史というのは伝承、伝説が入り乱れ中々真実とはかけ離れてしまいますが、何とか根拠を求めて探求して参りたいと思います。

<参考文献>「真田家文書集 上巻 (米山一政氏編集)長野市発行」

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