真田昌幸が岩櫃城に武田勝頼を迎えたら

 加沢記」の中に、「昌幸、武田勝頼を岩櫃に迎えんと御殿を建造する」との記述がある。これにつき、私の個人的見解を述べさせて頂きます。

 まず前置きとして、この事象は「加沢記」似記述があるのみで他の文献では確認できていないと言うことです。そのため、信憑性については一般的に認められていません。まずこれを前提として、「もしも~」と言うことで私が軍師となったつもりで作戦を練っていきたいと思います。

 織田信長は甲斐国まで、攻め寄せてきました。織田本隊は、ここまでの進軍で甲斐に止まると思います。では実際にこの岩櫃に攻め寄せる軍勢は、と聞かれると後の織田家関東のトップとなる滝川一益の軍勢と北条氏政の軍勢であると思います。その数は両軍併せて、2万人から2万五千人ぐらいとなるでしょう。甲斐、信濃は織田軍に席巻されると思いますので、たいするは真田昌幸3千人、武田の残党2千人ぐらいとなるでしょう。数から言えば当然、叶うはずもありません。しかし、ここは谷間にある狭い場所に、張り付くように人が住んでいた場所です。野戦ではなく、籠城戦となるでしょう。

 岩櫃城守備隊2千人、遊軍3千人と分け遊軍は5百人程度で6隊に分けます。それを吾妻谷の入り口の城に配置します。敵が攻め寄せてくれば軽く抵抗して、城を自落して山の中に逃げます。そして敵軍を、吾妻谷に引き込みます。敵の進入路は、大戸口と岩井堂口と言うことになると思います。大戸口の手子丸城、岩井堂口の岩井堂城は一旦敵に引き渡します。敵本隊が吾妻谷に入りきるのを確認して、手子丸城、岩井堂城を初めとする各支城をゲリラ戦で奪還していきます。真田軍、特にこの吾妻の郷士はゲリラ戦が非常に得意でした。地の利も有りこの行動により、敵軍の糧道を断つ作戦に出ます。岩櫃城を中心とした籠城戦を展開するのです。

 まずこの作戦に当たってこの吾妻の地の石高は少なく、青田刈りなど略奪してもたいした量がないこと。食料は事前に、岩櫃城に集めておく。各支城は腰兵糧で戦える3日程度の籠城とし、城を自落して山中に逃げることなどを事前に通達しておきます。

 つまり、敵大勢力をこのせまい吾妻谷に誘い込み、細い入口をすべて遊軍で閉じて封じ込めて持久戦に持ち込むのです。実際「加沢記」では、「岩櫃城には5千人を半年、一年間籠もるだけの食料はある。」と昌幸が言ったと書かれているので、その自信はあったのでしょう。

 しかし実際は、武田勝頼は甲斐国天目山山麓にて織田軍に囲まれ自刃。武田の本流は滅びてしまいました。こんな事象を残念に思った人々が、いまも「古谷舘跡」の伝承を伝えているのでしょう。

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