信濃の国人領主真田氏其の系譜 其の2

滋野氏の出自

 飯島、黒坂両氏は、それまでの研究を整理した。滋野氏の出自は、奈良時代大学頭兼博士であった樽原東人であるという。東人は天平勝宝元年(749)駿河守就任時、産出した黄金を献上し称えられ伊蘇志臣の姓を賜った。東人の孫家訳が延暦17(798)年、滋野宿禰を賜り、さらに弘仁年間(810から823年)滋野朝臣を賜った。そもそも姓というのは天皇家から授かるもので、現代の姓は俗に言う字名のことである。たとえば、鎌倉から室町の初期にかけての吾妻の有名人、「吾妻太郎行盛」は正式に名乗るとまず字名と通り名を名乗る。次に姓と諱を名乗るのである。つまり正式名は、「吾妻太郎藤原行盛」である。ちなみに真田信之は、「真田伊豆守滋野信之」である。話を戻します。滋野家訳の子に貞主、貞雄がいた。特に貞主は学者、政治家として名をはせその娘綱子は仁明天皇の妃となり、本康親王を産み奥子は文徳天皇の妃となり、惟彦親王を産んだ。滋野氏は、天皇の縁戚となっていた。そして、滋野氏と信濃の関係は信濃守善根の存在を確認できる。滋野氏は清和天皇の子、貞秀親王の子の善淵王となっているがこれは信濃守善根の音の転化ではないかと指摘している。

 黒坂氏は更に、善根を貞主の次男とし信濃介恒蔭を孫と推定した。当時は守は遙任と言って現地には行かず介、次官が現地に赴くことがよくあった。そして、滋野恒蔭は都の貴種であったので、現地豪族が娘をあてがって子供をなしその子を嫡子として出自をその貴種に求めるようなことが行われていた。群馬県吾妻郡東吾妻町にも、そのような伝説がある。日本武尊が東征のおり、この地の訪れた。そのとき原町上野の上野長者というものが娘を日本武尊にあてがい、子をなしたと伝わる物がある。地方豪族は、その子を嫡子とすることでその地方の支配を確立しようとしていた。この滋野三家も、恒蔭にその血筋を求めていたのかも知れない。ただし、滋野氏が清和天皇から出ているという説は、根拠を見いだせない。おそらく、信州の海野氏が滋野恒蔭が在任中にその出自の根拠を求めたのでしょう。これは、信州望月牧の支配を確立するための手段だったようにも思います。

真田氏の出自

 「信州滋野三家系図」を見てみよう。これは真田家が幕府に提出した「寛政重修諸家譜」と清和天皇-貞秀親王-善淵王-海野初代と同じであるが、鎌倉初期の海野の当主長氏の四男に、真田七郎幸春という人物が見られる。其の祖父幸氏は、「吾妻鏡」に上州三原荘の地頭という記述が見られる。この系譜を見ると真田氏は、鎌倉時代初期に海野氏から別れた庶流と言うことが言える。次に応永7(1400)年大塔合戦(大塔物語)に「実田」という記述がある。この時は、禰津遠光の配下として出陣しているようだ。その後永享12(1440)年結城合戦の時、信濃守護小笠原政康、持長、村上頼清に率いられて真田源太、源五、源六という記述がある。これらを状況証拠と捉えると、真田氏は鎌倉の始めに滋野三家から別れた家であると言うことも言えると思います。また一説には、宝亀5(774)年に大伴連忍勝という人物が小県郡にいたという説もあり、真田氏の祖はこの末裔ではないかとも言われている。大伴氏は淳和天皇が名を大伴と言ったため、名前を変え伴氏となった。平安時代この判一族は、軍事を司る役人であった。そのため平安時代には、各地の官牧を管理する役人として赴任していた。そのため、真田氏は伴一族のではないかという説もある。それでは、戦国時代の海野系図を見てみましょう。白鳥神社に残る海野系図では真田幸隆は海野棟綱の娘の子、というふうに書かれている。もう一つは、矢澤家の菩提寺良泉寺に残る矢澤系図では、矢沢綱頼は真田右馬佐頼昌の三男としている。この事を見ると真田幸隆(幸綱)は頼昌嫡男と言うことになる。つまり、海野棟綱の娘婿のこと言うことである。しかし、白鳥神社に残る海野衆起請文の中に、真田右馬佐綱吉という人物が存在する。これを総合的に状況証拠と捉えると、頼昌と棟綱の娘の子で嫡男が綱吉、次男が幸綱(幸隆)、三男が綱頼(以下続く)となるわけである。そして、三人とも海野棟綱の綱の字を偏諱として名乗っているのである。真田幸綱(幸隆)は、海野棟綱の外孫であると考えてもよいようである。ただし、この頼昌の記述は良泉寺矢澤家系図のみである。この家系図の成立は、元禄9(1696)年であるのでこれが正解かと問われても疑問が残る。ただ、これが現在では通説となっている。ただ、幸綱(幸隆)と海野棟綱の娘が婚姻していたという説もある。ここでは、幸綱は海野棟綱の外孫と言うことにしておきます。

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