2024年吾妻「忍者サミット」に向けての取組

山伏

 2024年中之条町と東吾妻町で、第7回国際忍者学会大会(吾妻大会)が開催されることが決まっています。それに向けての研究、「修験と忍びの関係」と題して調べ始めました。吾妻に多くあった修験寺、それが地衆、国人領主、戦国大名とどんな風に関係していたのか。その関係を数々の文献、古文書などから実証していく試みです。具体的には以下の項目で、突き詰めていきたいと思います。

1.修験道とは
 そもそも修験道とはどのようなものであったのか。それを少ない資料の中から、ひもといていく。元々修験の手法は、口伝による伝達方法でほとんど資料として残っていない。江戸時代の末期の頃には、幾つかの文献が残されたがその数は少ない。その中から、「修験道とはどのようなものか」「山伏は普段どんな修行をしていたのか」などをまとめていきたい。
<参考文献 修験道史研究 修験道修行体系 山岳修験各号など>

2.山伏と地衆、国人領主、戦国大名の関係
 吾妻の修験寺の多くは、本山派修験(天台系)の修験が多かった。当山派修験(真言系)も少しはあったが、本山派を中心に関東の総本山「幸手不動院」との関係や、国人領主真田氏との関係、戦国大名武田氏との関係を調べそれぞれが修験寺に何を期待していたのかを突き詰めるていきたい。また、「幸手不動院」と古河公方、小田原北条氏との関係性を見て、修験寺の領主との関わりなどを調べていきたい。

<参考文献 長野歴史博物館「大井法華堂の研究」 戦国関東における本山派修験の勢力伸長について(新井浩文氏論文) 加沢記(脇屋真一氏訳文・上毛郷土史研究会編)戦国遺文武田氏編 戦国遺文北条氏編 戦国遺文真田氏編 群馬県史 中之条町歴史と民俗の博物館ミュゼ所蔵文書など)

  1. 1 2を踏まえて客観的事実、状況証拠などをもとに「修験と忍び」についての関係性を明らかにしていく。また、山伏と草、山伏と細作、山伏と使僧などについても研究を重ね、一つの到達点とする。  私は、歴史好きのじいさんですので、何処まで信憑性のあるものを作り上げていけるかわかりません。まあ、素人のやることですのでその辺は、温かい心で見守って下さい。これから調べ始めるのですが、ある程度まとまった時点でマメにこのサイトで紹介していきたいと思います。順不同になってしまうと思いますが、よろしくお願い申し上げます。

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