場所:群馬県吾妻郡東吾妻町萩生字境野

城の沿革

 立地は、萩生地区に有る分去(わかさり)より150m程度草津街道を入った境野の聚落の先にある。比高は、35m程度で丘城と言うところか。旧信州街道が通り、萩生地区に分去と呼ばれる石の道標が立つ。信州街道は、高崎倉賀野で中山道から分かれ里見、倉渕、東西吾妻を抜け上田または地蔵峠を抜け川中島へいたる北信に抜ける最短距離の街道である。この分去は、この信州街道から草津街道に分かれる分岐点である。その道標には、文正の文字が刻まれ江戸中期のものとわかる。城跡は、この草津街道側に追手があり見城川に向かって縄張されている。

城の位置の関係からひもとけば、信州街道と草津街道の両方を監視できる立地のようにも見て取れる。この城を守っていたのは、大戸浦野氏の家老と伝わる小林石見の在城と伝わる。天正10(1581)年3月に武田家が滅び、上野に入った滝沢一益が厩橋城に入り関東の差配を始める。しかし、同年6月織田信長が明智光秀に本能寺で攻め滅ぼされる。一益は初戦では小田原北条の攻撃をしのいだが、次の神流川で大敗して本国伊勢に退去してしまう。関東統一がひがんである小田原北条氏は、同年9月この萩生、大戸地区に攻め込んできた。北条方を、大戸真楽斎が倉渕三の倉に迎え撃ったが敗れ大戸手子丸城に逃れたが、ついに討ち死。この時、大戸氏と共に小林石見も討ち死にし、この萩生城と大戸手子丸城は小田原北条氏の物となった。これ以降、この手子丸城の攻防は岩櫃の真田氏と小田原北条氏の戦いに移っていった。この城の入口にある石塔は、小林石見の墓とも伝わっている。

城跡解説

 追手は東側、草津街道川に開く。追手道はほぼ70m程度真っ直ぐ伸び、最初の空堀にたどり着く。この追手道南側は、三の曲輪で道沿いに土塁を築き防護を固めている。そして、二の曲輪と本曲輪に向かう。追手道、二の曲輪と本曲輪は堀で囲まれていることからおそらく、木橋で繋がれていたのだろう。現在この城に本曲輪は、耕作地となっているので堀を回り込み搦め手に向かう。搦手側にも平場があり、搦手側二の曲輪と仮称する。追手二の曲輪と搦手側二の曲輪は、ぐるりと空堀が囲み本城部分を堅固に固めている。その先、搦手側は二つの平場と二つの堀切が存在し、その先の遺構は確認できない。しかし、地形を見れば自然地形を利用した斥候等があった可能性もあるだろう。旧草津街道からの比高は、35m程度と低く、こちら側からはあまり堅固とは言えない。おそらく見城川を水堀に見立てて、信州街道を監視する役割も担っていたのではないでしょうか。