小田沢の砦縄張図

小田沢の砦

小田沢の砦については、「加澤記」の中に記述がある。「天正10(1582)年8月、塩谷将監、唐澤玄蕃、富沢又三郎、宮下新左衛門、田中四郎左衛門、伊能五郎、が北条勢に備えおた沢に籠もる(後北条氏第一次岩櫃城攻略戦)」とある。このおた沢砦とは、小田沢の砦である。場所は安楽寺跡に位置して、現在の岩井の町営共同墓地の所である。

 榛名湖より当町に抜ける、北側おた沢という沢のあるところに位置している。城の大きさは東西170m、南北250mとなる。おたとは当地域の方言で、「堤」を意味している。鬢櫛山と硯岩の間を抜ける道から、途中2本に分かれ一方は原町深沢の山の固屋城にぬけ、もう一方がこの小田沢の砦に抜ける。小田沢は城の下部で直角に曲がり、北側170mの堀となる。上部小田沢は東側約250Mの堀になり、西側にも同じく唐堀がある。

 現状ほぼ地形は残されているが、墓地造成のため随所変更した箇所が見られる。「天正17(1589)年にも田中越後、同四郎右衛門、唐澤玄蕃、茂手木次郎左衛門が守る(小田原の役の年)」と「加澤記」に記してある。いずれにしても、山の固屋城と共に榛名口を守る重要な砦であったと思う。

戦国武将の落書きが残る安楽寺宝塔

 現在、墓地の駐車場と休憩所のあるところが、安楽寺跡である。この寺はもとは須賀尾にあり、海野氏を裏切り須賀尾に居られなくなりこの地に移ったと伝わる(坂上大柏木羽田城の解説参照)。この南西林の中に、古墳跡がある。その北側に宝塔がある。大きさは、基礎横の長さ75cm、塔身の長さ87cm、笠石の長さ80cm、全長2m30cmもある巨大な物である。吾妻の地では最大のものの一つである。寺伝(現新巻正泉寺)によると、ここには大日如来が安置されていたが、その像の目に金がはめ込んであったので盗まれてしまったという。

 この宝塔の建立については、その宝塔の扉右には元和3(1617)年10月吉日とあることからしてこれは、戦国時代の戦没者慰霊塔ではないかという見解である(故新井信示先生)。扉左には「奉納代参三百四人□□□□□未法輩□成仏」とあり、塔は東向きで南、西、北の3面にびっしり落書きがしてある。

 什賀上人が慶長のころ遷化、その次の僧によるものか。何れにしても、供養塔であるのは間違いないところであろう。

北面には薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来と刻まれ、その下に田中忠右衛門、伊能采女、市場茂右衛門、一場太郎左衛門各代参」とある。いずれも真田の麾下にあり、昌幸の元活躍した面々である。沼田真田藩で重きを成した者、松代真田藩に仕えた人など様々であるが、吾妻の勇猛の士であまたの戦を生き残った面々である。

 その地元の勇者達が、吾妻の戦で命を失った多くの者達の霊を供養したのであろう。宝塔は、風化が激しく現在では良く確認できないが、両脇にある五輪の塔と合わせて戦没者慰霊塔ではないかと推察される。

 なほ、文政の頃の伊能文書に「出浦対島守代参」という文字が刻まれていたと言うが、現在では確認できない。