三島根小屋城縄張図

三島根小屋城解説

 三島根小屋城は「鉄塚」と呼ばれる丘城と「斥候山(城山)」とで構成されている。「鉄塚と呼ばれている丘城は居館の跡かも知れない。そして城山の方は、斥候山と呼ばれている要害山である。「斥候」とは「物見」という意味だそうだが、この城山は明らかに「要害」である。ただし、各曲輪は大変狭く頂上部分は10m程しかない。「鉄塚」は「斥候山」よりだいぶ広く街道よりすこし高い位置に築かれている。この城は、最初は江見氏で後に浦野氏の居城であったと伝わっている。この浦野氏は、真田氏と一族で滋野氏の出である。

 この鉄塚(てつか)であるが、諏訪神社上部の平場である。令和元年に上信道建設に伴い、県埋文で発掘調査された。まだ詳細は明らかではないが、追々調べてここで掲載したいと思います。この平場には、二つの高台を要している。これは多分楼台の跡ではないだろうか。東側は、細い帯曲輪がつき根小屋川が水堀の代わりになっている。この鉄塚と要害部分の間に上信道が通り、この城はすでに寸断されてしまった。非常に残念なことではあるが、地域の生活、不便さを考えると致し方ないように思う。私としては、鉄塚と要害部分が残るだけでも良かったと考える。

 要害部分であるが、尾根上に長く縄張され急斜面である。北側より7段の小さな曲輪で堀切となる。さらに8段の小さな曲輪を経て堀切、その上が3段で斥候山(城山)頂上にいたる。

 斥候山の南側は中心部分よりもピークが高いので、1段の曲輪の下に堀切、さらに2段の曲輪で堀切、さらに1段の曲輪でこの城1番の大規模な堀切となっている。この堀は、両側に落ち込み、竪堀となっている。

 更にその堀を隔てて斥候山中心部より高くに平場があり、その先の平場は確認できない。この城のおもしろいところは、城山に登ると岩下城が眼下に見えることである。根小屋城と岩下城の関係を示しているのかも知れません。これは、兩城が敵対していたことを表すのか?興味深いところである。

三島根小屋城主の変遷・伝説・伝承を踏まえて

1.江見氏

 「吾妻軍記」に江見氏の見える記述がある。「天文、弘治年中斉藤基国根小屋城主江見下野守と武を論じ、斉藤氏より闘論を企て三島領内に騒動有り。」と根小屋城の事が記されている。

 「再編吾妻記」には三島領内の百姓が一揆を起こしたことが記されていて、三島の領主であり根小屋城主である江見下野守、同三郎は名主であって岩櫃城主斉藤越前守と争い戦闘となり敗れた。江見氏は信州へ落ち延びたとある。

2.浦野氏の出自

 浦野氏は信州滋野氏で、海野、望月、祢津の一族である。長男海野小太郎幸明の流れは早く三原荘を開拓し、その一族は今の嬬恋村の母体を形ずくった。二男系の根津小次郎直家(祢津、浦野の祖)の系統は長野原から坂上、岩島地区に根付いた。三男望月三郎重俊の系統は三原庄のうち草津、六合村方面へ移住し、望月、横谷氏として岩島地区に移住した。

 同系の中之条町六合赤岩の湯本家の伝承では、平安末期源平合戦で源義仲にしたがって上洛し後、義仲の戦死を持ってこの地に落ち延びたとある。草津を管理していたことにより、源頼朝から「湯本」の姓を与えられたとある。

 「大戸村誌」には浦野氏(大戸氏)は長男系の幸明の係累となっている。この大戸氏の一族が三島浦野氏であると思われる。

3.三島浦野氏

 戦国の時、大戸城主大戸真楽斎(本姓浦野)と思われる重俊が大戸城主であったが、遠州高天神城において戦死し、後長子行貞(右衛門進)は根小屋城主であったがこれを機に修験となって吉祥院と号したと伝わる。二男村信は浦野大善と名乗っていたが、後大勝院と号し修験となった。三男信英は下野守と称し、「天正11年本国信州へ行く」とだけ記載されているが、この人が「加沢記」にのっている三島の地頭浦野下野守であると思います。この人は、この事から真田氏に仕え信州上田に移動したと思われる。その後その一族は三島に移り、村信は後大乗院住職となり幸照は海野長門守の二男であったが、村信の養子となり大乗院を継ぎ、生年行事職となり伊賀の守(沼田藩藩主)の時代には城主の祈願所をつとめている。

4.その後の浦野氏

 天正18年以降の浦野氏の事象ははっきりしない。しかし、三島の吉祥院はその後江戸時代を通じて栄え明治まで続いた。林の大乗院も、浦野氏の修験寺であったようである。そして明治政府の修験宗解散の令により廃院となったものと思われる。

 私の母方の神社は、昔は「ほうえんさん」であったという。「ほうえんさん」とはまさしくこの地では修験のことである。この地では方言の特徴により、「い」が言いずらい特徴があった。「ほうえんさん」とはまさしく「法印さん」のことで、修験僧のことである。吾妻の地では、西部で10箇所、東部で40箇所修験寺があり、多くの人達が修行していた。当然、お経や法典なども唱えたり読んだりしただろう。そんなところから、戦国時代から江戸時代にかけて認字率が他地方より高かったと言われている。