追手バンショウ坂

バンショウ坂を登ると、最初の鍵型の道に遭遇する。ここには、木戸が存在していたと思われる遺構である。Aの部分で、横矢が掛けられる構造が見て取れる。別の捉え方としては、現在、この道は江戸時代以降で戦国の時代は堀であった可能性が高い。従って当時の追手道は、新井地区を南北に通っている所が道であったのかもしれない。この坂の南側には、新井地区と呼ばれる遺構が存在する。伝承では番匠、つまり鍛冶や各種職人がいて城の武器等製造していたと伝わっている。しかし、縄張を確認すると真ん中を堀で区切られ、更に南の隅にはわずかに土塁が残っている。そして、城の最前線に、武器を供給する場所を構築するというのは、他地区の城において前例が無いことなどを考えると出城という解釈の方がスッキリするのでは無いか。この辺の見解は、発掘調査などした後の見解を待つ必要がある。バンショウ坂については、現在の道は昭和10年の原町発電所貯水池建設に伴い作られたものであると言うことが分かっているので、C地点の地表面の遺構とその上部の地形を観察すると明らかに、現在の道の上部に昔の街道があったと言うことが見て取れます。また、C地点で道が分かれ、現在の道とは違うルートで瀧峨山金剛院、柳沢城へ向かっていたと感じさせる地形となっている。ただ、そこには鉄塔が建っており、そこの地形が後世変えられた可能性が高いことは否定できない。しかし、その場所を観察すれば虎口のようにも見える。そしてしたから登る道から分かれ、金剛院に向かう道は堀切にも見え、平場を二つに分けているような地形となっている。その先には、細長い曲輪があり斥候曲輪の可能性もある。これも、今後の検討課題となると思います。これも異論があり、登り口が空堀の跡で新井地区中央東寄りの堀が登城道(バンショウ坂)であったという説もある。C地点を考えると、どちらかというと後者が街道という方が合っているのかも知れない。その点については、今後の研究に委ねたいと思います。

東の木戸周辺

A.赤い線は、旧草津裏街道である。文献によると、東の木戸から直角に曲がり西に向かい真っ直ぐ伸びていたという。現在の道は、昭和10年の原町発電所貯水池建設の時に作られた道である。旧街道は、現バンショウ坂の一段上に存在していた。東の木戸の手前にある馬頭観音を確認すると、現在の道は削られて大部下がっているのが確認できる。馬頭観音の裏側を見ると、道の跡が見えその当時は同じ高さで東の木戸に向かっていたのが確認出来る。

B.この地点(UHV鉄塔のあるところ)の地名が字番所となっている。東の木戸をくぐる往来の人々を、この地点で監視していたことが考えられる。この場所は、戦国から江戸時代にかけて関所としての役割を担っていたかも知れない。この事から、ここへ向かう坂道を「番匠坂」と呼ぶのは少々疑問が残る。あるいは、「ばんしょざか」→「ばんしょうざか」→「ばんじょうざか」と時代と共に変わっていった可能性も否定は出来ない。したがって、「番匠坂」と漢字で書かないでカタカナで「バンショウ坂」「バンジョウ坂」と表記するのが間違いないでしょう。
C.東の木戸はその地形を観れば、現在看板杭のあるところよりやや上にあったとみるのが妥当でしょう。東の木戸左側のマウントを確認すると、なんとなく木戸の位置が見えてくる。後世地形の変化を考えると、想像の範囲を出ないのですが、いずれにしろ「バンジョウ坂」を登り「馬頭観音」のところで左に折れ東の木戸に向かったのでは無いでしょうか。そして木戸をくぐり抜けるとまた、左に折れ真っ直ぐに伸びていたのでしょう(赤線)。現在ではその痕跡は、原町発電所貯水池建設で失われ、確認できません。

D.平成27年度発掘調査
 東吾妻町教育委員会では、平成25年度、平成26年度、平成27年度と3年にわたり国指定史跡を見据えた発掘調査を行ってきた。ここは、その最後の年に発掘調査が成された場所の一つである。字番所の東側に堀切の跡があり、以前は藪に被われていて藪をくぐり抜けないと確認できないところにあった。この堀切は、北側は竪堀となり南側では竪堀が確認できず平らなところがあった。私も以前より気になっていたところで、バンジョウ坂と東の木戸の絡みもありますので発掘する場所としては最適の場所であったと思います。ここでは、三箇所のトレンチを教育委員会は設定しました。第1トレンチが堀切の中央で東西、第2トレンチが堀切の終わる平らなところを東西、そしてその西側に南北です。
下図を参照しながら、解説したいと思います。

①第1トレンチ
 城下町地区の東端に位置する堀切に対して、中央を東西に掛けた。この堀の規模は幅が約3m、深さが2mの薬研堀で東側に細長く尾根が続く。この堀の東側は、造作の形跡はなくここが城下町地区の東端だと思われる。この堀は作為的に埋められた形跡があり、これは、慶長17(1612)から元和2(1616)年の間に行われた廃城に伴う城割により行われたものと推測される。そのほかの堀が、堀の外側に土が盛って有るのが岩櫃城の特徴で有る。あるいは、その盛った土を埋めた可能性があります。

②第2トレンチ
 ここでは、4層固められた地層面が検出された。これは、年代ごとの街道の跡と言うことで教育委員会は結論づけたようである。これに続く平場が東の木戸、馬頭観音の所まで続くのである。間違いなく、旧街道の跡だろう。西側には石積みと思われる遺構も検出され、これは切岸土留めの石積みか?

③第2トレンチ拡張部
 ここは、第1トレンチの堀切りが続いていたかの確認のため設定された。堀は確認されず、街道跡のみ確認されたようである。したがって、この堀は北側のみ竪堀となっていて南側は街道の手前で終わっていることが分かった。北側のみ山側斜面敵兵の移動を嫌い、南側は堀が街道と隣接していて上の平場から横矢が掛ける仕組みと判断する。

 この発掘調査により、旧街道の位置が確認されたことは岩櫃城跡と城下町地区について大きな発見となった。以前より現在の道の上に途切れ途切れであるが、道らしきものがあり「そこが旧街道跡では無いか」と見ていたのであるが、そのことが確認できたことは私としても大きな一歩となったことは喜ばしいことである。ここの発掘見学会に参加したとき、教育委員会の解説に側耳を立てて聞いていたのも記憶に新しいことである。

 この古道ですが、新井地区の北側の鉄塔のあるところから、一部崩落または新道建設のための破壊で途切れている。しかし、その一部と東の木戸、二箇所を除けばその道は今でも確認できる。昭和10年に原町発電所貯水池建設が行われたが、その当時発掘されなかったことは残念でならない。

 現在、番匠坂と町の看板にある。この由來等確認すると、「加澤記」の中に「岩櫃城大手番匠坂」記述があるのを参考にしているようである。この語源については、「番城坂」ともとれますし「東の木戸の上」鉄塔のあるところが「番所」という小字銘があるところがあるので「番所坂」が経年と共に「バンショウ坂」、「バンジョウ坂」と変成していった可能性もあります。

平川戸(字上ノ宿)

 この地点は平川戸という城下町があった場所と言うことですが、そのことを記した文献は「加澤記」でしか確認できません。よく、「水の無いところには町は作れない」と言われます。しかし、貯水池の出来る前は、東の木戸の外で水が湧いていたという伝承もありそこには僅か水が現在でも湧いている。足りない水は、不動沢から汲み上げていたのか?戦時には無理やり町を作る場合もあるので、完全に否定することは出来ません。私の個人的な考えですが、平沢集落の道が鍵型に曲がっている、水が豊富であると意う事などを総合的に考えると、平沢集落と字上ノ宿を合わせた城下町設計プランが見えてくるような気がします。この上ノ宿北側の畑の先に、北の木戸が存在している。この北の木戸の先にはせぎが存在し、その先には不動沢がある。この木戸は、水場に関係して設けられたのか、また平沢集落、金剛院に向かう道が存在していたのか、その先で滝頭(不動の滝上)から道を登り第4石門をさらに進むと平沢ファームの所にぬける。そこから東(シナノキ坂)を抜ければ在上内野を通り、稲荷城へ抜けられる。そのまま山を抜けて山田に抜ければ、沢渡から暮坂峠を越えれば草津、山田川を渡り四万日向見を経由して木根の宿へ向かえば、三坂峠を越えて越後へもぬけらた。これを踏まえれば、東吾妻町萩生分去で信州街道を分岐していた草津街道が見えてきます。その街道は、川戸田辺で吾妻川を渡り岩櫃城内、上ノ宿北の木戸と言うようなルートも見えてきます。しかし、詳細については今後の検討が必要です。ここでは、平成11年~12年、21年の発掘調査の結果を踏まえた解説をしたいと思います。

平成11年・12年町確認調査

 ここは、4本のトレンチが設定された(上図参照)。このすべてのトレンチにおいて、地下55cmの所で古道と思われたところが発見された。直径10~15cm程の石一部敷き詰められていて、この古道は結構しっかり作られていたことが分かった。そして、このすべてのトレンチにおいて道路と敷地を区切ると思われる石が並んでいた。これを以て屋敷跡とは言いがたいが、町があったと思わせる遺構である。結論は、今後の発掘調査を待ちたいと思います。出土物については、信濃型内耳土器、瀬戸美濃焼腕皿、貿易陶磁器などが出たようである。これは、ここで生活していたことを思わせる出土物である。

平成21年鉄塔工事に伴う確認調査(○印の所)

 この部分では、2m以上の盛り土が確認された。これは近代、原町発電所貯水池建設に伴う残土の処理の跡と思われる。これをふまえると、中世の地形の南側はもっと狭かったように考えられる。

北の木戸

 北の木戸は、字上ノ宿の中ほどから畑のあぜ道を抜けると現れる。一つの張り出しを設け、食い違い虎口の様な形状となっている。そこから下へ下りると、二つの折れが確認できる。虎口の左側に平場があり、更に天狗の丸の方向にも平場がある。つまり、横矢が掛けられ、この虎口をより堅固にしているのである。この道の先は、滝頭に向かい柳沢城に向かい東側上野地区に抜けられる。その途中の第4石門から北へ向かえば、道が分かれ左に進めば「シナノキ坂」、「内野」を経由して東側、稲荷城へも抜けられる街道があった。山を抜ければ、山田にも抜けられそうです。

天狗の丸

 天狗の丸と呼ばれているところは、城下町地区の上一段高いところ一帯を言う。そこには岩櫃神社があり、その裏手(北側)には、長い横堀が天狗の丸北面一帯に110m伸びて不動沢が形成する谷間に落ち込んでいる。ここは出城という位置づけであるが、通常の出城という観点から言うと、その機能は違うように思われる。出城というと単独した曲輪で、敵兵が本城に攻め込んだとき出城から出撃して邀撃できるような所に縄張されている。この天狗の丸は、そのような機能ではなく、岩櫃城縄張の特徴である平沢集落を囲い込むように縄張していることから、敵兵を平沢集落(現平沢登山者駐車場下)へ誘い込み邀撃すると言うような意味合いがあったのでは無いか。このように考えると、敵兵をここに誘い込めば周りから攻められるように、馬蹄状に縄張されているのです。これを踏まえると、天狗の丸北側の長い横堀の配置も納得がいく。この天狗の丸は、岩櫃神社を一番の高所として、東に向かい四段の曲輪で構成されている。このようなことから、重臣の屋敷跡では無いかという推測も成立するのでは無いか。

平成28年度発掘調査

①第3トレンチ
 このトレンチは天狗の丸北面の横堀を、縦に設定された。発掘調査により岩櫃神社より10mまで掘り下げられ、更に探針によりそれより1.5mは深いことが確認された。その堀は西側では約3.5から4m位の深さがあり、東側は10mある。この堀は南側の天狗の丸腰曲輪の所から始まっている。そこから不動沢に向かい約100m北に向かい掘られている。この堀は以前、通路として利用されていたと言われていたのであるが薬研堀であるのが判明したので、その説は覆ったとみるのが妥当である。ただし、その堀に岩櫃神社に向かう硬化面が確認されており、前説を完全に否定は出来ないので、天狗の丸に通じる通路がこの地点に存在していた可能性もある。平沢区の古老に話を聞くと、天狗の丸に向かう昔の道はここしかなかったという証言もある。この道が、近世の物であるか、中世からあったのかは分からないので、これはこれからの研究課題と言うことか。この堀は、途中で西に向かい落ち込み平沢登山者駐車場の南側の堀と繋がっていた可能性がその周辺の地表面観察でも見て取れる。そして、現平沢登山者駐車場は以前沼地で有り、そこで城口とは遮断されていた。その事は、岩櫃本城が平沢集落を囲むように縄張されていることからも想像出来ると思う。NHK大河ドラマ「真田太平記」以降、道の整備等で大きく変わっているので、判断は難しくなっている。
②第4トレンチ
 岩櫃神社より三段下がった所に、設定されたトレンチである。堀の南側法面、南側平場に向かい設定された。堀の法面は50度と、急斜面である。平場からは柱穴が確認され、それぞれ柵列(山城で塀の代わりに建てたもの)と掘立柱建物と思われる。柵列跡が確認されたのは、志摩小屋地区とここである。更に発掘を進めればより多くの物が確認されると思うが、これは今後の発掘調査に期待したい。

橋台跡

 橋台跡のある平場もまた、興味深い場所である。町の観光ガイドに載っていないが、この平場を旧街道が走っていた。赤い太線が道の跡と思われるが、出浦淵を抜けて殿屋敷の方へ抜けていたのだろう。この平場の東南の方向には、旧街道と思われる幅が1.5m位の平らなところが観察できる。その先、出浦淵北側A~Bにかけて石積みと思われる遺構が残る。A地点で道は途切れるが、おそらく経年による崩落により道が失われたのでは無いか。または、この出浦淵を回り込んで現在の道に通じていたという説もある。この橋台跡は、橋の内で木戸があり、出浦淵へ下りる手前に西の木戸があった。つまり、この平場は閉じられた空間と言うことが言えるでしょう。今の本城へ向かう道は、竪堀で遮断されていて近代の道である。と言うことは城の追手道は、この橋台跡の平場から旧街道の上を通り、更に尾根を進む。途中堀切を持った小曲輪を経由して、2本の木橋を経て中城上に出、三の曲輪、二の曲輪、一の曲輪にいたる。このような導線が、岩櫃城の追手道であったのでは無いか。現在研究者の間では、ここが追手道であるというのが、通説となっている。

北東・北の竪堀

 この堀は、岩櫃城の現在の城口より登る見学道で最初に確認できる竪堀である。Aの地点は、二の曲輪と三の曲輪を区切る横堀から落ち込み、100m程度降った場所である。Aの地点は、この堀の最初の横矢掛かりが掛かった場所である。現状でも堀の幅は5~6m。深さも5m程度有る岩櫃城においても一番見事な堀である。恐らくこの堀は1.5m~2m位埋まっているだろうからその規模の大きさは想像できると思います。そして薬研堀なので、底幅は40~50cmで敵は一列で上ってこなければならない。木戸を固めれば、敵兵はこう言う竪堀~信入するしかなくしかも、何カ所も横矢掛かりの罠が仕掛けられているので、非常に攻めず来と思います。横矢掛かりとは、わざと堀を鍵型に曲げ正面、東横、中城側の三方より攻撃できる仕組みである。この堀は岩櫃城で一番規模が大きく、A地点の横矢を含み三箇所の横矢がかかり吾妻川に落ち込む自然の谷に繋がる。全長は200m以上ある。そして、三の曲輪の下より分岐して岩櫃山沢通り登山道の所に落ちさらに、城口まで続きD地点で橋台跡の堀に受ける。つまり、東側からの要害地区への敵兵信入を嫌い、この堀で囲われた中に曲輪を設け厳重に縄張されています。本城部分を防衛するため、厳重に作られた部分であると言えると思います。

中央竪堀

 言わずと知れた、現在登山道となっている堀のことである。私がここを案内するときは、「ここは敵が攻め上る堀なので、岩櫃城をせめ落とすつもりで登って下さい。」と言っています。岩櫃城は、長い竪壕が3本ある。南の竪堀、北の竪堀、そしてこの中央竪堀である。この堀は本城域において一番長い竪壕で、330m程ありその先は現在の旧街道(D)の下まで伸びる。下の方は埋まっていて、わかりづらいが良く観察してみるとその痕跡は確認できる。昭和60年、この堀は登山道整備の時、群馬県により発掘調査(B)がされている。詳細資料については無いが、写真は残っている。教育委員会で発行した「岩櫃城跡総合調査報告書」に拠れば、竪堀に対して直角にトレンチを入れ2m以上試掘したようである。おそらく深さは3mないしそれ以上では無いかという見解を出している。通常表面観察で推定する場合、上部の幅の20%減が深さの目安なので、3m位の深さでまちがいは無いと思う。この堀の全体像ですが、上部三つの横矢掛かり(A)を備え最後は横堀となって南の竪堀を受ける。岩櫃城の三の曲輪は、数段で構成されているので、一つ目は最初の三の曲輪平場で鍵型に曲がる。つぎに2段目の三の曲輪、最後に二の曲輪と三の曲輪を区切る堀切(C)のところで曲がる。この堀切のある三の曲輪には、東面に低いが土塁と思われる物も残されている。これは、堀を掘った際の土を盛り上げたものでしょう。そして、その先は南の竪堀を受けるのである。この、三の曲輪を経由して二の曲輪にいたる虎口はE地点と思われるが、二の曲輪から一の曲輪への導線は二段で構成されている二の曲輪の下側からと、木橋によって一の曲輪南の横堀(F)から南の枡形虎口を経由して、南の腰曲輪、一の曲輪と向かったのだろう。また、二の曲輪から一の曲輪への導線も木橋によって、一の曲輪の南腰曲輪(G~H)に渡れたと思われる地形も見える。しかしその検証は、発掘調査を待たねばならない。この竪堀のは規模は北東の竪堀より規模は小さいが、長さは330mと一番の長さを誇っている。

本丸・二ノ丸・三の丸(本城域)

 岩櫃城の曲輪の特徴は、一の曲輪(本丸)が一番広く二の曲輪、三の曲輪が狭くなっているところです。さらに三の曲輪と呼ばれる場所は、三段で構成されている。しかし、山城というのは自然地形に依存することが多く緩い斜面は広く、急な斜面はおのずと曲輪は狭く作られる。戦時においての土木工事の時急性などもあり、最短の工程で作られることが多いと思います。ここでは、一の曲輪(本丸)の解説を、平成27年度の発掘調査を交えて解説していきたい。
赤い太線がトレンチである。まず右下から第1トレンチ(A)、それに直行する第2トレンチ(A)。楼台跡の南端から西にのび設定した第3トレンチ(B)、北の土塁に対して直行するように掘られた第4トレンチ(C)。そして一の曲輪の真ん中より西側、中央付近に設定された第5トレンチ(D)。最後に西側より、東西に設定された第6トレンチ(E)と南北に設定された第7トレンチ(F)。合計7本のトレンチが設定された。この調査によって、今までに無かった多くの発見があった。

①第1.2トレンチ

 まず第1・2トレンチ(A)である。第1トレンチからは石積み、階段らしき物や木戸と思われる柱穴などが確認できた。この事を検証すれば、この石積みの下から木戸をくぐり、楼台に向かう導線が見えてくる。以前より楼台跡に気になる石の並びがあったが、この木戸と導線の判明により、楼台跡には礎石を持ったしっかりした建物があったのでは無いかと思わせる発見であった。
 次に第2トレンチ(A)であるが、ここには鍛冶工房の跡が発見されている。出土物は、鉄砲の弾、鎧の小札、刀の破片、和釘、金糞などである。小規模ではあるが、柱穴も見つかり掘立柱建物の中にあったのが確認できる。おそらく城内で緊急に必要な物を供給していたのでは無いでしょうか。この鍛冶工房の発見は、城の中心部にあったのは非常に珍しく、もっと大規模な鍛冶場は他にあった可能性もあります。鍛冶には大量の水が必要で、この鍛冶工房は規模が小さいので水の確保が許ないので水の確保と規模が比例するのではないでしょうか。

②第3トレンチ

 第3トレンチは、楼台跡と言われているところの西端から東西に設定された。ここでは、楼台側端部から凝灰岩が集中的に出土している。教育委員会の見解では、一部建物の礎石と思われる物も見られるが、発掘場所が限定されているため今後の研究課題と言うことでしょう。ここからの出土遺物は非常に少なく、瀬戸美濃焼皿の破片が数点出ただけである。

③第4トレンチ

第4トレンチは、一の曲輪(本丸)中央部北側の土塁に対して南北に掘られた。土塁に関しては、小石(凝灰岩)を混ぜ突き固められ非常にしっかり作られている。土塁は北東側のみ存在し、特に北側を意識した縄張となっている。このトレンチの南側では柱穴も検出され、深さ50cmとこの城の柱穴では深い部類に当てはまる。だたし、単独での検出であるので、建物であるかは調査地域外で確認できていない。出土物は、瀬戸美濃焼、かわらけ等があった。

④第5トレンチ

 第5トレンチは、樹木によって分断されているが東西に設定された。ここでは柵列と溝一条、柱穴が19基発掘されている。この溝ですが、地表面観察においても浅い溝が確認でき、南北に伸び途中鍵型に曲がっている。恐らくは、一の曲輪を二つに区切った跡と思われる。それを踏まえると東側を居住空間、西側をフリースペース(兵を常駐させる場所)として利用されていたのでは無いか。このトレンチからは畑の畝も出ており、江戸時代この場所が御林と言って奉行所の管理で、一般の立ち入りが禁止されていたと言うことを考えると畑地として利用されていたのは、明治以降と言うことになろうか。原町の旧家に残る古文書で、原町祇園で使う竹を奉行所の手代立ち会いの下、毎年切りに行っていたと記された物がある(殿屋敷東)。それを踏まえると、明治以降という線が明白になると思います。ちなみに、現在でも原町祇園で使う竹は御林で毎年切るしきたりとなっています。

⑤第6トレンチ

 第6トレンチは、第5トレンチに直行する形で設定された。この場所からは、石積み遺構2箇所、柱穴2基が発見された。この石積みであるが、整地の時の土留めのために積まれた物という説も成り立つと思う。現在この位置の曲輪はほぼ平らであるが、この城が使用されていたときはもっと複雑に出来ていた可能性が見えてきたのは大きな成果である。

⑥第7トレンチ

 第7トレンチは、第6トレンチの西端から南北に設定されている。ここでは、トレンチ南側寄りに二段の石積みが発見された。その下段は探針により、南の枡形の北端に繋がっていたことが確認され、この岩櫃城が何度も作り替えられた形跡があることが分かっている。このようなことは他城でも良く確認されていることであるが、特に箕輪城の発掘でこのような事例があり、近くの史跡と同じような発見が成されたことは城郭研究において大きな成果と言わざるを得ない。このような事例の検証の継続として、早い時期に南の枡形付近の発掘調査も行ってもらいたい物である。そうすれば、岩櫃城一の曲輪に向かう追手道の確認もでき、国指定に伴う遊歩道の設置等に大きく貢献できるであろう。と言うのは、現在の岩櫃城見学道は堀を貫通し、竪堀を登る通路となっている。こう言う通路は、史跡としては疑問視の残ることと言うのは私だけでは無いと思う。いっそうの教育委員会の努力に期待したい。
 この岩櫃城の縄張において、一番広い一の曲輪(本丸)の解説を発掘調査の結果と共に私なりに解説してみました。

志摩小屋地区

 志摩小屋の地名の由来は、沼田藩家老祢津志摩守幸直の屋敷があったと伝わるところである。戦国の祢津家の流れは、祢津元直の娘が武田信玄の側室となり、その子祢津常安が武田信虎の娘を娶って、祢津家本流となる。この家が上州豊岡藩(1万石)の系統である。一方常安の弟信忠は、眞田頼昌の女を娶り眞田との関係を深めていく。この信忠の次男幸直がこの地名に見える志摩守を名乗った人物である。この人の末裔は真田信之に仕え、真田家家老という立場で残っていく。

・発掘調査以前の見解
 志摩小屋地区は、上に岩櫃城見津の手を持つ平沢川で本城域と区切られた北側に10段の梯郭状の曲輪をもち、その北側には二重の竪堀を要している。今回の見学地は、この上から4段目の平場である。北面に虎口と楼台を要し、城の構造を要している一番北面の遺構である。

・平成26年度発掘調査の解説。

 この地点は、「岩櫃城跡を国指定として目指す」と言うことを町議会で決定してから、最初に発掘調査をしたところである。第1から第4トレンチまで、4本のトレンチが設定された。第1トレンチは、楼台跡を絡め南北に。第2トレンチはこの平場の東端延長線上の二重竪堀を南北に。第3トレンチは、第1トレンチの延長南北。第4トレンチは第3トレンチ南端、を挟むように東西に設定された。

①第1トレンチ

 ここでは、楼台と思われるところから柱穴5本が検出された。これはおそらく、櫓の柱跡と思われる。この柱穴の深さは、ばらつきがあるがおそらく後世削られたのでは無いかという教育委員会の見解である。あるいは、この虎口の延長線上に堀の跡が見つかっているが、堀から虎口に変更になるときに削り取られたものか。その他土杭が7基見つかっている。検出区域は、西側に集中していて貯蔵施設と言うことも考えられる。

②第2トレンチ

 二重竪堀の所を南北に掘削して、堀2本を検出している。一号堀は北側の堀で前面に土塁を伴う。深さは、土塁基底からは90cm、土塁上部からは1.7mを計る。堀底はさらに急角に掘り下げられている。堀幅上部は、3.5mである。堀底は非常に狭い。その裏側の堀(南側)は堀幅2.5m、深さは1.1mを計る。この堀も堀底は非常に狭い。以前からここを虎口として、想定して折坂虎口として認識していたのですが、少し考えを変えないといけないと思います。

③第3トレンチ

 このトレンチの北側から南に向かい2/3位の所まで、畝の跡がでました。このあたりからも土杭の跡がでたのですが、近世から近代にわたり耕作地として利用されていたと思われる畝の跡も発見されました。南側1/3の所からは、柱穴11本と土杭1か所が見つかりました。発掘史料報告書を見る限りにおいては、建物にはなっていないが発掘場所が樹木によって限定されているため建物にはなっていないが、ここに簡易建物があったのは、まちがいの無いところでしょう。

④第4トレンチ

 このトレンチの西側では、堀の断面が見つかった。幅は4.5m~5m、深さ2.5mの結構深い堀である。この堀は、虎口の方へ続いていたようである。この堀を確認できたことにより、虎口と言う仮説は疑問符が残ることとなった。これは、さらなる研究を待たなければならない。この堀のさらに西、切岸の上部では柵列と思われる柱穴も確認された。そしてこの堀の東側北端では、木橋が架かった跡も発見され城郭としての機能を擁していた地域であるのは間違いないようである。つまり城郭としての構造を持った、岩櫃城北端の位置だったのでは無いでしょうか。このトレンチの東側からは、南北に2、3段の石積み遺構も発見された。裏込めが無いため、高く積んでいたという確証も無く道の区画の石積みであるかと言う、教育委員会の見解である。 この地区の出土物は、近世陶磁器、内耳土器、縄文土器などである。この地区からは、中世を思わせる出土物は無かった。

北側遺構(コニファーいわびつ付近)

 この地区は、現在リゾートホテルコニファーいわびつがあるところ全体である。ここはこのホテル建設に伴い、平成2年度に発掘調査された。
まず、コニファーいわびつキャンプ場とその上部に確認されている二重竪堀(竪堀A)をまず見てみたい。現北浦林道の南側より、東に向かい二重の竪堀(竪堀A)が確認できる。起点1より始まり、途中少し離れ平沢集落の上で二重堀として落ち込んでいる。ここでは竪堀A、竪堀Bとして示し赤い点線が予想ルートである。この堀はまた、起点1より北の方にも伸びる堀があり、北浦林道を通過(地点1)して二叉となり、沢の谷に落ち込んでいる。ここは、作事による竪堀と自然の谷の融合により北からの敵兵の侵入を阻んでいる。 
 次に竪堀Cですが、コニファーいわびつログハウス上からホテルを突っ切り、不動沢の方まで伸びる。全長330m、上幅5~6m、深さ4~5m、底幅4、50cmの規模の堀が発掘調査によって明らかになっている。以前この北側遺構全域は、営林署苗場となっておりその跡地を町で買い取った経緯がある。この苗場造成により、遺構はかなり破壊されたが発掘調査により全貌が明らかになった。現在ではこの地に、コニファーいわびつが建ち、確認は出来ないが平成4年度に「北側遺構発掘調査報告」が出ている。その他の堀(堀D)も、グランド西側の森林の中に確認できます。
 この地域の作事であるが、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の原因になった名胡桃事件(天正17年)の直後、後北条氏が吾妻に兵を進めてきた。そのとき、急ごしらえで拡張されたという説もある。全体を確認すると、堀は確認できるのですが兵を溜めておく平場が確認できないので、後北条氏の侵攻に備えて北側を拡張したという捉え方で良いのでは無いでしょうか。

詰めの丸(西の曲輪群)

 本城上の尾根通り登山道と北の水場手前にかけて平場や、堀を巡らせた跡がある。一般の見学では、ほとんど解説されない場所である。
この場所は、岩櫃城本丸より尾根通り登山道で岩櫃山に登る途中にある。上から一の曲輪、二の曲輪、腰曲輪、三の曲輪と三段で構成され、北側斜面に土塁を持った横堀、そしてその東側では竪堀として落ち込んでいる。沢通り登山道途中、水場(志摩小屋地区との境)の一段上では馬出し風に堀を巡らしたところがある。まるで、水場を守るように作られている。北側から進入する場合、志摩小屋地区を突破されればこの城の水の手を簡単に奪われてしまう。そこで、この水の手をぎりぎりのところで守る遺構であろうか。興味ある方は、ここも良く確認してもらいたい。この場所が、岩櫃城の要の縄張と感じるのは私だけでは無いだろう。ここでは、岩櫃城本丸より奥に存在しているので仮に「詰めの丸」としておく。二の曲輪北側にある横堀は、さらに竪堀となって下に伸びこの北下の平場で、2本に分かれまるで馬出しのような形をしている。縄張図は載せていないが、これは本城水の手を守る遺構のようにも感じられる。志摩小屋地区を突破されれば、水の手が危うくなるのでそのための縄張と言うことも言えるでしょう。

郷原城

 古谷舘跡から十二様通り登山道を少し進み、右に折れるところを反対に行くと郷原城跡に出る。規模は小さく、斥候か番所と言った役割を持った砦であると言えるでしょう。
 規模は非常に小さいが、馬出し、土橋、堀切等確認できる。ここへ登る道を、立道と言うようですので舘道、つまり勝頼舘跡に向かう道と言うことか。この城は、切沢善導寺、立道、古谷舘跡とセットで捉える必要がある。岩櫃城の西側にあたり、このさらに西2.5kmには、岩下城がありますのでそんなに堅固にしなくてもよかったのではないでしょうか。武田家が滅んだ時には、信州街道大戸の手子丸城が北条の手に落ちたこともあり、東吾妻町大戸地区大柏木から山沿いに抜ける道が何本もあったので、そのための抑えとして築かれたものかも知れません。と言うことは築城は、天正に入ってからになる可能性もあります。

巌下山潜龍院(古谷舘跡)

 「加澤記」によると、武田家がまさに滅亡せんとしたときに真田昌幸が、武田勝頼を迎えようと館を作ったが勝頼が天目山で滅亡してしまったため、祢津潜龍斎昌月(祢津信忠)という人に与え修験の道場にしたとあります。この跡地の東側には、祢津家代々の墓が今もあります。この祢津潜龍斎昌月という人は、実は忍びの者だったと言われている人で、真田氏が山伏を活用して情報収集を行っていたのではないでしょうか。また、真田氏が北条、徳川、上杉の大大名に囲まれていたにもかかわらず、生き残ったのは山伏を活用して情報を早く知り行動を起こした結果かも知れません。戦国時代にあっても山伏とか僧、ののう巫女、御師など宗教にまつわる人々はその寺や神社の証明書を持っていれば、日本全国の関所も通過できたと言われているので、真田氏も武田家同様にこのような宗教家を活用していたのでしょう。ちなみに武田信玄は、このような人達を多く抱えて情報収集していたので、「足長坊主」と呼ばれていたそうです。
 この古谷舘跡は、旧街道がこの敷地内を通り、更にこの西側の畑の名前に、「西門」という地名があります。つまり、切沢伝導時から郷原城をかすめて登り、潜龍院跡を通り西門を抜け、さらに須藤家(矢倉鳥頭神社の判官、鎌倉時代より続く家)の裏を通り、矢倉鳥頭神社のある矢倉に道が抜けていました。その途中には古い井戸があり、そこは歴史を感じさせる所でもあります。現在は護摩堂跡の石垣が残るのみですが、その北側には岩櫃山がそびえ立ち、西側入口は岩によって細くなり空堀の跡のような遺構が見えます。さらに東側には郷原城があり、南側は土塁のような跡になっていて、その先は急斜面となっています。また昔の通りは、上の方を通っていたという古老も居ます。しかし現在でははっきり分かりません。つまり、郷原城から潜龍院跡が一体となって要害を形成していたというような地形だ、と言うように見えるのは私だけでしょうか。さらに南の岩山は、来福寺左京物見の岩と伝わる所もあり、その人は軍配者だったという事も言われている。こう言う事例を状況証拠と捉えると、岩櫃城にとって西の要の一つとなっていたことでしょう。

出浦渕(でうらふち)

 伝承では、出浦(いでうら)対馬守幸久(昌相)の屋敷跡と伝わる場所である。ここは、岩櫃城唯一の表面上で石積みの確認できるところである。現在、この町で真田道として紹介している道の西上、の平場がその場所である。旧街道がこの場所を通っている。旧街道は、東の木戸を抜けて街道を上って天狗の丸南側を通り、橋台跡(A)へ抜ける。この橋台跡の南側から北に広がる場所は、この岩櫃城にとって非常に大事な場所となる。この平場は、橋台跡の堀を渡った場所に木戸があった可能性が高い。そして、西ノ木戸(B)とで閉じられていたのだろう。この西の木戸(B)の手前から尾根上を登るのが岩櫃城の追手道であった可能性が高い。西の木戸付近であるが、幅が1間程度有り街道の存在を思わせる遺構となっている。一部崩落していると思われる場所もあるが、西の木戸跡を進み出浦渕の方へ進むところは崩れているのであるが、石積みの跡がずっと続いている。(C)の地点には、はっきりと石が積まれていた跡が残る。その下の平場が、出浦対馬守幸久の屋敷跡と言われている。この道はさらに殿屋敷下(D)を通り、さらに切沢善導寺跡に抜ける。この出浦渕を回り込んで、現在の道に繋がっているという説もある。いずれにしても、この場所が出浦氏と関係があった場所であったのは間違いの無い所だと思う。現在のこの出浦対馬守幸久はNHK大河ドラマ「真田丸」では、出浦昌相として登場する。時代考証で、残されている古文書の署名に諱が「昌相」と記されている唯一の物があると言うことでドラマでは「昌相」となったようである。しかし、松代真田藩でこの出浦氏の子が、半平幸吉とある事からも幸久(昌幸の諱の幸をもらった?)が正しいのではないかとも思う。当町では、出浦対馬守幸久と伝わる。出浦対馬守は、岩櫃城最後の城代であったと言われている。岩櫃城廃城は慶長17(1612年)年説、慶長18(1613年)説、元和元(1615年)年説など諸説あるが、「一国一城令」が慶長20(1615年((途中より元和元年))年の発令なので、慶長17年頃から破城を始め慶長20年(元和元年)に完了というのが本当のところではないのか。

 出浦対馬守は、沼田にいた大熊氏と同じく真田信之より黒印状の発給を許されており、その立場は真田家においても重きを成した者の一人であったのは間違いないところである。また出浦氏は、しのびの大目付であったのでは無いかという説もある。俗説では、「真田配下において横谷左近行重と共にしのびの双璧を成す」とも言われしのびの達人であったというのである。また小田原の役の「忍城攻城戦」の時の活躍を間違って伝わったと言う説もある。ただし、黒印状の発給(昌幸に変わり文書を発給できる)、幸久の子半平幸吉が信之より1050石を頂いた。等考えると真田藩の家老級の能力を要した人物であったと言える。

 出浦対馬守は原町の町割りをした人で、槻木から岩櫃の子持ち岩を見て真っ直ぐ通りを作りこの町の鬼門に神社を作っている。屋敷は南町にあったという。現顕徳寺の前身の寺、専念寺の建立などを多くの業績を残して人です。また、現在「御殿」という地名で残っている原町日赤病院の所に100間四方の奉行所兼信之の宿泊所の建設に関わる差配も、この出浦氏が関わり建設したのでしょう。つまりこの出浦対馬守は、真田藩の重臣でありこの吾妻の地においても重要な人物であったと言うことが言えると思います。

 当地で、この岩櫃城跡の一角を「でうらぶち」呼んでいることについて説明をします。読み方は「いでうら」が正しいのですが、この地方では「い」をあまり発音しないという方言の特徴があります。例をあげますが、修験僧のことを吾妻では「ほうえんさん」と呼びます。正しく言えば「ほういんさん」標準語では呼ぶと思います。そこで「いでうらさま」が正のですが、当地では「おでうらさま」と呼んでいたようです。そしていつの間にか「おでうらふち」が、年数が経ちいつの間にか「お」が抜けて「でうらふち」となってしまったようです。

 最後に、この出浦対馬守のことを当町では盛清=昌相としています。しかし近年の研究では、出浦清種~盛清~幸久(昌相)と3代であったというのが真実に近いと思いますので付け加えておきます。また、出浦昌相と言う名についても当地方では出てこないので出浦対馬守幸久とこのサイトでは通したいと思います。

殿屋敷(海野長門守屋敷跡)

 平沢観光案内所より、城口の看板を頼りに登ると中城をへて中央竪堀に出る。ここの竪堀を上に登ると岩櫃城本丸で、作業道を下に下りると通称「殿屋敷」と呼ばれているところに着く。
 伝承に拠れば、A地点が真田昌幸の代まで武田家のもと岩櫃城代を勤めた海野長門守幸光の屋敷跡であったという。現在ここは果樹園となっていて、やや緩い斜面となっている。その上の杉林の所は平らになっており、その部分が屋敷跡とも考えられるがここでは伝承をもとに解説する。

殿屋敷付近の縄張図

 この部分は、2段で構成され結構広い。これを踏まえれば上段が居住空間で、下段が公の場所といういう風に考えられる。岩櫃城麓御殿か。前項、出浦渕の舘跡と合わせて考えるとここの部分に岩櫃城の公の場があったというのも信憑性は高いと感じるのである。そのことをふまえると、岩櫃城は根小屋式山城と言うことが成り立ってくると思います。

 水場はこの場所の西側下にあり、この辺に居住空間であったのは間違いないであろう。この付近には亘稲荷(C.)があり、現在は水場のさらに先の尾根上にある。これについては伝説が有り、後項で詳しく述べることとする。

 殿屋敷下段に、もう一箇所少し狭いが平場がある(B地点)。この平場の南側斜面には、結構大きな石が転がっていてこの地点に石積みがあったようにも感じ取れる。江戸時代まで、亘稲荷は立派な社があったが火事で焼けてしまったという伝承もありこの地点に亘稲荷があったのかも知れない。当然この地点は、海野長門守岩櫃城代の頃には家老渡利常陸介の館があった可能性も否定できない。

 以下殿屋敷にまつわる伝説を紹介します。

渡利氏について

 渡利氏の事象については、江戸時代の金剛院の円聖法印の書き残した「吾妻軍記」の中に少し語られている。その中には、永禄八年頃から天正十年まで岩櫃城の城番であった海野長門守幸光の執権として渡利常陸介家貞嫡男右馬頭家次という名前が見える。

岩櫃城海野長門守幸光伝説

 天正十年(1582年)海野長門守は「岩櫃を守った暁には吾妻郡を賜る約束が履行されていない」と佐藤豊後、渡利常陸介を使者に立て真田昌幸に申し入れがあった。昌幸は、鎌原以下七名の所領を除き残りを長門守与える旨申し入れたが、鎌原以下は諸氏のものより連名で「海野兄弟北条に内通」という訴えがあった。

 昌幸は海野能登守輝幸、嫡男幸貞で昌幸の叔父矢沢薩摩守頼綱に相談。頼綱は、「輝幸嫡男幸貞はわが婿なれど、内通は必定である。すぐに撃つべし」の意見を聞き、すぐに海野兄弟討伐の軍を派遣した。まず軍代に真田壱岐守信伊、吾妻の諸氏鎌原、湯本、植栗、池田、浦野、西窪、横谷百八十騎と雑兵千人を付け岩櫃城を攻めさせた。海野の寄子である佐藤、蜂須賀、渡利、割田、蟻川、・谷、・・・、二ノ宮、唐沢、近岡、茂手木、湯本の手兵、町田、神保、茂手木、桑原、高橋、山田、小淵、富澤は眞田方に与して一気に攻め寄せた。

 幸光は齢七十五才、老衰で目が見えなかったが居間を立ち退かず、甲冑に身を固め、座敷内に麻がらを敷敵を迎え撃つ。麻がらを踏む音を頼りに一気に十四、五人を三尺五寸の太刀で切り伏せると残った兵はぱっと四方に引きのいた。しかし、幸光はもはやこれまでと舘に火をかけ腹十文字に切って、岩櫃の草場の露と消えた。

 哀れなのは幸光妻三十五才と娘十五才である。家の子渡利常陸介は、幸光の娘を何とか逃そうと思ったのであるが、敵に囲まれてどうしょうもない。切沢まで逃れたところで、無情にも殺害してしまった。この伝承と亘稲荷にまつわる伝承は多少はことなる。

 亘稲荷(C)の伝承では、斉藤越前守基国公眞田に攻めらてたおり若君と姫君が居った。その若君を逃がしきれずやむなく渡利常陸介が、切沢で刺し殺してしまった。それから渡利一族で、腹を病むものが絶え間なかった。また、亘稲荷の周辺に生える竹は一本たりとも真っ直ぐに生えるものが無かったという。

 そこで、亘稲荷の傍らに「殿の宮」を造り奉ったところ収まったという。現在でも東吾妻行沢の渡りの一族で、亘稲荷として奉っている。この亘稲荷であるが、江戸時代まで結構立派な社があったという。落ち葉掃除にいったときに失火して、もえてしまって現在の位置(岩櫃城跡の一番西の尾根)に移動したようである。

 現在では、藪の中に崩れた石積みの跡が残るところがある。その上は笹藪となっているのであるが、結構広い平場となっており海野幸光城代の時代には渡利常陸介の屋敷跡とも推察できる場所が残っている。その西側には水場と思われる場所もあるので、信憑性は増してくるのではないでしょうか。

 この事象を検証すると、武田家が存続している時は吾妻は武田領であった。つまり、吾妻の諸氏は武田に仕えており真田氏に対しては、寄騎という立場で真田昌幸に従っていたにすぎない。その頃の真田氏は、信州小県郡の上田地方と利根沼田が直轄地である。利根沼田は、沼田城に籠城していた敵対勢力を利で誘って寝返らせている。したがって、家臣に対して勲功として与える土地が無かったのである。その根拠として、昌幸は結構空手形を発行している。この海野兄弟誅殺の起きた頃、武田勝頼はもはやジリ貧の状態でした。この頃の昌幸の活動としては、北条氏直に対して「随います」というような文書を出していたり、北条安房守氏邦に遠慮して安房守を名乗らず真田喜兵衛尉昌幸と名乗っていたりして、北条寄りの行動を取っていた。それと同時に、吾妻郡の諸氏の家臣化を進めていた節がある。ほとんどの諸氏は真田昌幸に従うそぶりを見せていたが、海野兄弟だけは「我ら武田の直臣で真田の家臣ではない」という気概を持っていたのかも知れません。また、海野兄弟が昌幸の思惑に反して、未だに「領地は少なくとも、我ら武田の直臣で真田と同等の立場である」という態度だったのかも知れません。吾妻の真田領化を進めていた昌幸にとって、邪魔な存在で合ったのかも知れません。海野兄弟の誅殺事件は、そんな所に原因があったのかも知れません。

参考文献:日本城郭大系、中世城郭辞典、原町誌、岩櫃城跡総合調査報告書、北側遺構発掘調査報告書 他